芸術と哲学と君の恋

睦月紅葉

吉良悠成と高屋敷沙織

 窓から差し込む光は鬱陶しいくらいに室内を照らしている。まるで校内全体をトレンディ・ドラマの舞台にでも染め上げてしまわんばかりの光量に、僕、吉良悠成は内心辟易しながらも、これまた三流の昼ドラにでも出てきそうなキザったらしい軟派男じみて、壁にもたれかかりながら左手をポケットに突っ込み、右手は少しうつむいたソフト帽を格好つけて押さえていた。

「しかし、何度見ても飽きないわね。吉良くんの顔は。全人類の顔面だけを切り取って美術館にずらりと並べたなら、たぶんあなたの顔が展示されたブースに一番の行列ができるでしょうね」

 僕の目の前……と言っても僕の視線は帽子のせいでほとんど下を向くような格好だから、厳密には45度ほど視線を上げた先にいる少女は、呟くようにそう言った。

 少女の目の前には大きなカンバスがある。そのため、さらに厳密に言うのなら、僕が視線を45度上げたとしても視界に飛び込んで来るのは味気ないカンバスの背中とそれを支えるイーゼルだけだ。時折、僕の姿を確認するべく彼女がひょっこり顔をのぞかせてくるのが救いと言える。

 少女の名は高屋敷沙織。美術部部長。右手に筆、左手にパレット。そしてここは彼女の城、美術室。

 となれば、自動的にこの僕の正体は被写体、絵のモデルであると誰もが言い当てることが出来るだろう。正解だ。100人いれば99人は答えられる。後の1人くらいは、僕が本当にトレンディ俳優に憧れた痛い学生とその残念なファンクラブ第1号だと考えるかもしれないけれど、それはドラマの見過ぎだ。今すぐにテレビ離れを奨める。

 僕は件のキザったらしいポーズを1ミリも崩さない百点満点のモデル姿を彼女の視線に晒しながら、先程彼女が発した独り言じみた言葉に返答する。

「褒められてるのかい、それは」

「う~ん」

 高屋敷は筆を動かす右手の動きを一切止めないまま、口だけは真剣に悩んでいるように唸ってみせた。僕の質問へまともに思考のリソースを回しているのかいないのかわからない。

 無為な唸り声が止んで、高屋敷は「少なくとも」とカンバスからひょっこり顔を出した。

「褒めてるつもりはないわね。君の顔が良いのは単なる客観的事実だもの。格好いいとは思うけれど、美しいとは思わないわ。時代遅れなヘンテコポーズで格好をつけてるだけだもの」

「その時代遅れなヘンテコポーズをさせてるのは君じゃないか」

「まあね」

 わかりきった返答が返ってきて、軽口を叩きながらも僕は安心する。もしこんな格好が『美しい』だなんて言われたら、僕は自身の美的センスを疑わなくてはいけないところだ。

「じゃ、帰っていい? 美しくないものを描く気は無いんだろ」

「ダメ。完成してないものに結論は付けられないわ」

「今日もか? 僕にだってプライベートってものくらいあると思うんだけどな」

「今日もよ。私に描き始めた絵を放棄しろって言うの?」

「わかった、わかったよ。好きなだけ描けばいいさ。気の済むまでね」

「そうさせて頂くわ、ありがたく」

「ちっともありがたいなんて思ってないくせに」

「バレた?」

「『当然だ』って思ってるでしょ」 

「惜しいわね。『当然よ』って、思ってるわ」

「もう正解じゃないか」

 僕と彼女の関係は至ってシンプル。絵描きとそのモデルだ。その他にも、例えば同じクラスだ、とか、幼なじみだ、とか、僕たちの関係を表すカテゴリは色々あるけれど、それに比べればすべて些事だ。

 それともう1つ。この関係には明確な上下関係が存在する。ここまでお読み頂いた聡明な読者諸氏にはすでに言うまでもないことだが。彼女が筆を握った時、僕に拒否権は存在しない。クロッキー人形が絵描きの技量の糧となるべく様々なポーズを取らされても一切の抵抗ができないように、僕は彼女の絵筆の前にただ屈服するのみなのだ。

 何の変哲もない生徒同士である僕たちがなぜそのような特殊な関係になったのかは割愛する。知っておいてほしいのは、ただそういう関係がそこにある、という事実だけだ。

 僕がこんな頓狂な格好をしているのも、彼女が我儘な王女のように振る舞うのも、全てはそのためだ。彼女の膨大なスケッチブックには、彼女のリクエストに応えてきた僕の健気な姿が実に写実的に収められている。


 ある日のことだ。彼女は僕にこう問うてきた。

「男性と女性、美しいのはどっち?」

 僕は少し考えてから答えた。

「一般的には女性だと思うけど」

「それは、どうして?」

「どうして、と聞かれても困るな……。あくまでただのイメージさ。『美しい』という言葉は、男性よりも女性を形容するのに使われることのほうが多いと思うけど」

 僕の返答が気に食わないのか、彼女は歯がゆそうに眉を八の字にした。

「抽象的ね」

「質問が抽象的なんだから、仕方がないだろ?」

「そんなことないわよ。そのイメージとやらをもう少し具体的に言ってよ」

「ええっと……例えば人の外見を褒める時。男子に対しては格好いいとか逞しいといった言葉が思いつくけれど、女性に対しては可愛い、綺麗みたいな言葉が思い当たる。この中だと『綺麗』がいちばん『美しさ』に近い感じがする」

 彼女は考え込むように腕を組み、口の中で転がすようにつぶやいた。

「なるほど、君は『美しさ』を外面的なものだと捉えているのね……」

「?」

 そのつぶやきの意図を尋ねるよりも早く、彼女から次の質問が飛んできた。

「じゃあ、質問を変えるわ。ダビデ像とミロのヴィーナス、美しいのはどっち?」

 腕を組んで考え込むのは、次は僕の番だった。

 ダビデ像は知っての通り、ルネサンス期を代表する傑作。かのミケランジェロの代表作であり、精密精緻な人体の石像を大きな大理石から掘り出したその知識と技工は今日になっても色褪せること無く、ミケランジェロの『人間の魂が人間の内にあるように、彫刻作品のあるべき姿もまたその石の内に予め現れている』という考えもまた現代まで作品とともに失われずにいる。

 対するミロのヴィーナスもまた、ダビデ像に負けず劣らず有名な作品だ。作者不明、古代ギリシアで作成された女神アフロディーテを模した彫刻。欠けた両腕が特徴的であり、この両腕が本来どのような姿であったのか、それとも元から無いものとして作られたのかは現代でも正確にはわかっていない。ただ、多くの芸術者や科学者が元あった姿を見つけ出そうとしている一方で、そこに『無い』からこその美を訴えるものもいる。

 大理石でできた人体の彫像、ということ以外には、性別どころか作られた年代もモチーフも何もかもが異なるその2択に優劣をつけることは難しい。僕は彼女のように芸術家ではないし、ましてやそういった芸術作品に学術的興味を特別抱いているわけでもない。悩んだ僕の口から漏れたのは、ある種彼女の問への降参とも言えた。

「……その2つに優劣はつけられないよ。どちらも美しいとは思うけれど、その美しさの向く方向は決して同じじゃない」

 我が意を得たり、とでも言わんばかりに大きく頷いた彼女は「そうよね。じゃあ」ともう1つ質問を投げかけてきた。

「完璧な美というものが存在すると思う? ダビデとアフロディーテのように、あるいは男性と女性のように。その比較すらも一切の意味がないほどに圧倒的で絶対的な、すべての人間の目を引きつけるような真理としての美しさが、果たしてこの世に存在すると思う?」

 その問いに、僕は今度こそ思考の深淵に突き落とされた。降参すらもままならず、ただ沈黙をもって彼女の問いに答えるしか無かった。

「無理して答えなくてもいいのよ」

 と、彼女は笑って言った。彼女が笑う時、それは僕をからかう時だ。僕はそれを知っていたから、彼女に弄ばれたことを恥じ、その恥じらいを気取られぬように少し声を大きくした。

「じゃあ、そんな無意味な質問をするなよ」

「無意味? いいえ。無意味なんかじゃないわ。人生をかけたっていい。真なる美を追求するためには、それでも足りないかもしれない。だって、有史以来、人間は様々な角度からアプローチした芸術作品を幾万と生み出していて、そのどれもが真理には到達していないのだから」

 彼女が再び笑う。今度はからかうような笑みではない。薄く口角を上げ、野心に満ちたような。血気盛んな若き格闘家がチャンピオンに挑むみたいな、挑戦的な色を秘めていた。

「だから吉良君。光栄に思って頂戴。あなたは人類史上初めて、真理を目にする男よ」

 胸を張った高屋敷は続けた。

「そして私は高屋敷沙織。人類史上初めて、真理をこの手で生み出す女よ」


 舞台は美術室に戻る。

「できた」

 彼女がそう言って筆を置いたときには、既にこの舞台の名前は『夜の美術室』と呼ぶのが適当だった。

 放課から数時間。彼女は一時も休むこと無く、そのカンバスに1枚の絵をしたためた。となればつまり、僕もその間、あの意味不明なトレンディポーズを崩すことがなかったということだ。もはや慣れきった僕はそれに文句を言うでもなく、彼女の私物であるソフト帽を投げて寄越す。帽子を受け取った彼女は「まいど」と指先でくるくると回して弄び、自身の頭にかぶった。カンバスの隣に僕を手招いて言う。

「どう?」

「まあ、似合ってるんじゃないかな。その帽子、男女兼用だろ」

「違うわよ。誰が私を見ろって言ったのよ。絵よ、絵」

「ああ、絵ね」

 憮然として指し示されたカンバスに視線をやると、そこには僕が居た……と、一瞬本気で錯覚してしまいそうになる程の絵画が、そこにはあった。絵というよりも、鏡や写真と言われたほうがまだ信じられる。眼の前で描いているのを見ていなければ、そう思っただろう。『どう』と意見を求められた僕は、いつも通り正直に答える。

「夕焼けによる光と影の質感が抜群にうまい。絵の具で書いたとは思えないほどリアリティがあって、本当にこのカンバスの中に立体が収まっているみたいだ。でも」

「でも?」

「モチーフが悪い。なんだいこれ。たまたま見たドラマに感銘でも受けたのか? 背伸びした帽子と等身大の制服が実にアンマッチだ。勘違いした格好良さを周囲にこれでもかとアピールしていて、見ていて痛々しい。そのくせ、顔だけはすこぶる良いのが余計腹立たしい」

 歯に着せる衣をずたずたに引き裂いて、真っ裸の意見を遠慮なくぶつける。

「散々こき下ろしてるけど、そのモチーフ、君だよ? あと、あんまり自分で自分の顔すこぶる良いって言う人いないんじゃないかしら」

「良いんだよ。顔の造形が整っていることと、それを本人が気に入っているかは別問題なんだから」

 やや引き気味になった彼女が珍しく苦笑いを浮かべて言う。そうは言っても、そう思ったものは仕方がない。僕が彼女のモデルになるにあたってつけられた条件は『絵の感想を正直に話すこと』。それに則っているだけだ。

「総評は?」

「小憎らしい、小賢しい、小生意気。そんな感じ」

「馬鹿正直ね」

「だから、僕をモデルにしたんだろう?」

 彼女は首肯する。

「そうね。君は嘘をつかないから。私は君の、そういうところが好きよ」

「そりゃどうも」

 僕が彼女のモデルを引き受けることになった理由のうち、『僕の顔とスタイルがいい』と言うのは副次的な要素に過ぎなかった。自分で自分の外見を褒めそやすのはなんだかナルシシズムに酔っているようだけれど、事実は事実なのだからご容赦願いたい。

 僕は嘘をつかない。と言うより、つけない。それが、彼女の眼鏡にかなった一番の理由だった。自身の作品や技術に対し、完全に忖度抜きで意見できる人間が欲しかったそうだ。

 もっとも、嘘をつかないことが正しいことなのか、と言われればそれには我が事ながら頷きかねる。嘘は、使いようによっては無用のトラブルを回避したり、方便にもなる。それはわかってはいるけれど、それでも僕は嘘をつこうなんて気にはならない。彼女らしい言い方をするなら、正直さこそが美徳であると、僕は信じてやまないからだ。そう彼女にかつて話した時、彼女は冷めた目で『進学や就活に苦労するタイプね』と呆れたように言っていたのを覚えている。

 彼女は、絵の感想を聞くなり満足したようで、絵の具も乾いていないカンバスを早々に準備室にしまうと、カラフルに汚れ使い古された麻布を無造作にかけて埃よけにした。イーゼルをたたみ、絵筆を水の張ったペール缶に突っ込む。

 独り言ちて、彼女はこぼした。

「ダメだわ」

 それが何に向けられた言葉なのかわからず、僕は尋ね返した。

「何が?」

「絵よ」

「絵?」

 彼女のモデルになってから1年弱が経とうとしていた。彼女の絵は素晴らしい。それは言うに及ばないことだが、こと技巧という点において語ればそのレベルは1年前とは比べ物にならない。初めて彼女の絵を見たときからその出来栄えは惚れ惚れするほどのものだったが、彼女の成長はとどまることを知らなかった。輪郭を捉える精巧さ、色扱いの繊細さ、構図の大胆さに光の表現の鮮やかさ……どれを取ってもAクラスだったものが、今ではもはや現実を切り取って紙の中に落とし込んでいるかのような域にまで達している。

「君の絵は日増しに上達しているじゃないか」

 僕は素直に称賛の言葉を送ったつもりだったが、彼女は首を横に振った。

「それはそう。でも違うの。なんというか……そこにあるものを捉える力ばかりついているというか……想定とは違う方向に枝が伸びているというか……ただ無為に技術的価値が高いものだけを生み出しているというか……」

 彼女は様々な言葉を紡ぎながらも、本当に言いたい言葉を見つけられずにいるようだった。悶々とつぶやき続ける彼女を見て、僕ははたと思い当たった。

「つまり、君はスランプなんだ」

「スランプ? 私が?」

 言ったきり、彼女は黙り込んでしまった。僕も、『そう、スランプ』と頷いたきり、しばらく腕を組んでそれを眺めていたけれど、時刻も時刻、美術室に見回りの教師が来て帰宅を促されたため、僕と彼女は連れ立って学校を出た。

 夜道を歩きながら、長らくあった沈黙を打ち破ったのは彼女の方だった。

「……確かに、今の私はスランプと言えるわね。私の技術は主観の贔屓目抜きにしても高いほうでしょうし、『これを描け』と言われたならまず間違いなく大衆の鑑賞に耐えうる絵を描けるでしょう。それでも、私はそれを作品と呼ぶことが出来ないと思う」

「それはどうして?」

「描きたいものではないから。究極的に言ってしまえば、私にとって私が本当に描きたいと思ったもの以外に価値はないわ」

「じゃあ、君の描きたいものってなんだい?」

「完璧な美しさよ」

 問答を重ね、ふと思い出す。かつて、僕は彼女に『美しさを外面的なものだと捉えているのね』と言われたことを。その返答を、今するべきだと思った。あの時、僕が尋ね返したかったことを、今聞いてみようと思いたつ。

「高屋敷。君はさ、美しさ、とは何だと思う? どこに宿り、どこに表れ、どうすれば形にできるものだと思う?」

「それは……」

 彼女は再び言葉に詰まる。僕は、かねてより考えていたことを伝えてみることにした。

「少し前に、倫理の授業でやった所なんだけれど」

 何が言いたいのか、と彼女は怪訝そうにこちらの顔を覗き込んでくるが、僕は構わず続ける。夜風が僕たちの間を緩やかに通り過ぎていった。

「古代ギリシアの哲学者、プラトンが唱えた説に、イデア論というのがあってね。洞窟の比喩、というのを聞いたことがあるかい?」

「一応ね。洞窟の奥から出られない囚人が、火の光に映し出された影を見る時、それを本物だと信じるだろう……みたいな話じゃなかったかしら?」

「概ね合ってるよ。現在ではこの論の批判も色々あるけれど、仮にこの論が正しいものである、と仮定して話をしよう────つまるところ、イデア論の論ずるところはその話における『囚人』がこの現実を生きる僕達である、って話なんだ。つまり、僕らがリンゴやペン、ヒトを見たとして、それは洞窟の壁に描き出された影に過ぎず、本物のそれではない。けれど洞窟の外には、その影を作った実際の物体……今の話で言うなら、リンゴやペン、ヒト『そのもの』があるはずだ、といいう考えだね」

「そのもの……」

 彼女は噛みしめるように呟く。僕は続けた。

「さらに、プラトンはこうも言っている。いわゆる『善』や『美』。そういった抽象的で形を持たないものにもイデアは存在していて、人間が何かを『正しい』『美しい』と感じるのは、そのイデアを本能的に感じ取っているから。まるで、美味しいものを食べた経験で目の前のものが美味しいかそうでないかを判別できるように、人間のなかには予め『正しさ』『美しさ』の見本があって、その見本と世界を照らし合わせて判断している、と」

「美のイデア、という訳ね」

「そう。つまり、君の世界を捉える力は凄まじい。まるで現実をそのままカンバスに写し取るほどの眼と腕を持っている。けれど、その優れた感覚で見ているものが単なる影に過ぎなかったら? 誤った手本で漢字の書き取りをしても正確な文字を書けるようにはならないように、もしかすると君が解釈している『美しさ』こそが偽であるのかもしれない。君が描いているものは、100人が見たら99人は『美しい』と言うだろう。でも、後の1人は頑としてその美しさを認めようとはしていない。君の言う『完璧な美』は、その1人をも黙らせられるものでなくてはいけない。違うかい?」

「その『1人』って言うのは、他でもない私のことなんだけれどね。つまり……私は洞窟の外の『それそのもの』を、『美のイデア』を見なくてはいけない、と。そう言いたいの? 吉良君」

「長くなったけど、僕が言いたいのはそういうこと。君の言う『完璧な美』『真理としての美しさ』があるとすれば、そこにしか無いんじゃないか、と僕は思う。高屋敷、君が僕に言ったように、君もまた美しさを目に見える範囲での外面的なものとして捉えているんじゃないのかな」

「…………」

「…………」

 話に一旦の区切りがついて、互いに、これまでの饒舌っぷりが嘘のように黙り込む。夜の街を、無言の男女が神妙な面持ちで歩く様は傍から見れば険悪な雰囲気の破局寸前カップルにでも見えているのだろうか。なんだか急に恥ずかしくなってきて、彼女との距離を少し空けた。

 今度の沈黙は破られること無く、市街地のある路地に差し掛かった。どちらともなく足を止め、向かい合う。ここまでの帰路は同じだが、ここから先は家が別方向だ。この話は今日中の決着とはならなそうだ────と、僕は思ったのだが、そんな思考は彼女がおもむろに呟いた言葉によって中断させられる。

「私はね、ダビデ像のほうが好き。美しいと感じるわ」

「……は?」

 脈絡のない台詞に、僕は頓狂な声を上げてしまう。

「前に聞いたじゃない。ダビデ像とミロのヴィーナス、美しいのはどっちだと思う? って」

 言われて、思い出す。以前彼女に問われた質問に対し、僕は明確な答えを出せなかった。今も、どちらか、と聞かれても有耶無耶に押し黙ることしか出来ないだろう。

「ああ、確かに。前にそんなことを聞いてきたね。それが、どうかした?」

「君の話を聞いて、考えてみたの。考えたら、ダビデ像のほうが美しかった。でも、それは私の答えなの。だから、ミロのヴィーナスのほうが美しいと言うのも答えだし、君のように明確な答えを出さないのも、きっと答え。そういうことなのよね」

「……つまり?」

 いまいち真意を汲み取れず、彼女にその先を促す。「つまりね」と彼女は僕の言葉を繰り返しながら、持っていたスクールバッグを持ち替えて、体の前に持ってきた。僕にはその行動に何ら意味があるとは思えず、ただ手持ち無沙汰に行っただけのものであろうと推測した。僕の思った通り、彼女は次の言葉を紡ぐよりも先に、わざわざバッグを背負い直してから言った。

「十人十色、という言葉のとおりにね。人にはその数だけ性格と個性があって、価値観がある。ダビデ像を美しいと感じる価値観の人もいれば、ミロのヴィーナスを美しいと感じる価値観の人もいる。奇しくも、あの時君が言ったとおりにね。『どの程度美しいか』という優劣はあったとしても、『何に美しさを感じるか』。そこには優劣なんてなくて、ただ個人の感性のみに委ねられる。カンバスにどんな色でも置けるように、表現する人の数だけ、鑑賞する人の数だけ、美しさは存在する。唯一無二にして完全無欠、永劫不変の『美のイデア』は、存在しないのだと思うわ。せっかく君が話してくれたお話を真正面から否定してしまうようで申し訳ないけれど、これが私の考え」

「申し訳ないなんて、そんなこと」

 実際、イデア論への批判は今彼女が言ったような論説によって行われていることも多い。『全てに美や善のイデアがあるのなら、醜や悪のイデアもあり、それらが存在すること(つまり、相反する2つの事例が存在すること)自体がイデア論の矛盾になり得る』というように。


 何に美しさを感じるか? それは人それぞれである。


 当たり前の結論を導き出すのに、僕たちは1年余りの時間に加え、わざわざ古代ギリシアの哲学まで持ち出してこなくてはならなかった。なんて遠い回り道。無為であろうか。無駄であろうか。けれども、彼女は遅かれ早かれこの思考をしなくてはいけなかったのではないか。何故なら……。

「むしろ、良いのかい? その結論を下してしまって」

「どういうことかしら?」

「つまり、君の出したその結論は、君の本懐をも否定するものになる。『美のイデア』が無いのなら、すなわち君の目指すところの『真理としての美』もまた無いと言っているようなものだ」

 そう。彼女の絵を描く動機、その情熱の源はそこなのである。比較すらも意味をなさない、完璧な絶対者としての美。真理とも言える美しさを、彼女は求めていた。彼女がこの問答によって下した決断は、自身のしるべを自ら叩き壊すことにほかならない。この話題を振ったのは僕だが、これが本当に彼女のためになるのか、そこは正直な所不明であった。

 けれども彼女は、僕が思っていたよりも案外けろりとした態度。すんと澄まし顔で語る。

「そうね。確かに、この話は今までの私を覆すものだわ。根本からね。でもおかげで良く分かったわ。美しさとはなにか? それがどこにあるのか? ……吉良君。さっきの、君からの問いに答えるわ。私はね、美しさとは内面に宿るものだと認識したわ。何かを為そうとするその意思や行動、あるいはその結果にこそ、美しさは宿る。それを、あなたのお陰で認識したの。改めてお礼を言わせて頂戴。吉良君。本当にどうもありがとう。あなたのお陰で、私は世界をほんの少しだけ彩り豊かに見ることが出来るようになった」

「……お礼を言われる筋合いはないよ。僕は、ただ思ったことを言っただけなんだから」

 慣れない正直な謝辞に僕は照れを隠せず、ぶっきらぼうに言ってしまう。

「でも、どうしてだい? どうして、君は内面に美しさが宿ると考えたんだ?」

 彼女は再びバッグを体の正面に持ってくる。ぬいぐるみやクッションを抱きかかえるように胸の前でそれを持ち、少しうつむきがちになって話した。

「美しさを感じるのは人間。美しさを表現するのも人間。たとえ美のイデアが存在しなかったとしても、美しさは必ず人間の中を経由する。でないと美しいという感想や感情は人間から生まれ得ないもの。なら、私が見据え、捉えるべきはそこよ。血液が必ず心臓を経由して身体全体に行き渡るように、恋には愛が必要なように。私はそこにある何かを美しさとして改めて定義するわ」

 何故か彼女は早口で、その顔はどんどん彼女の抱えたバッグの裏側に隠れていく。街灯の少ない路地だ。薄暗く、彼女の表情はろくに見えやしない。

「でなければ、私の視界にこの世で最も美しいものが映っているわけはないもの」

 彼女は視線だけを僕に合わせながらそう言った。

 彼女の言葉を言葉通りに解釈するのなら。いいや。でもまさか。彼女に限ってそんなはずはないだろう。

 刹那、頭の中で彼女が語った言葉が恐るべきスピードで再生される。録画したテレビドラマを早回しで見るように、彼女の一挙手一投足が、滑稽な素早さでもって脳内で再上映される。

 録画の早回しが終わる頃、脳内映画館の場外で主演女優が決定的な言葉を発した。

「人間は色眼鏡なしに世界を見ることは出来ない。たまたま、美しさのフィルターをかけて見るものが、自分が好ましく思っているものというだけの話よ」

「それは、つまり……えっと」

 僕は、よっぽど、彼女に確認をしたかったけれども、適当な言葉に辿り着かずに口ごもる。だって、早々簡単に聞けるわけがない。僕だって、一介の高校生。思春期も真っ只中なのだ。相当なナルシシズムにでも酔っていない限り、聞けるわけがない。『君は僕を好きなのか?』だなんて。

 逡巡したが、やめた。僕は別に、彼女の絵のモデルでしかなくて、幼なじみでしかなくて、クラスメイトでしか無いのだから。それでいい。残念ながら、僕はトレンディ・ドラマの主役なんかじゃない。

「……そうか。君が答えを見つけられたのなら、何よりだよ」

「ええ。これで私もようやく、ピカソに近づくことができたのかしら」

「ピカソ?」

 唐突に飛び出した画家の名に、僕は思わず尋ね返した。「あの『泣く女』とかの? ピカソと君に、どんな関係が?」

「『泣く女』はキュビスムという画法によって描かれた作品で、既存の概念の破壊と再構築によってなされる芸術なの。つまり、1枚のカンバスという平面にそのモデルのすべてを描こうとしたわけね。だから、正面を向いているのに鼻が横にあったり、ハンカチを咥えているのに口が見えていたりするわけ。この試みは、今の私が求むるものと同じだわ。でも、本当は、そんな技術だとか試みだとか、そんな複雑なことを言いたいんじゃなくて、その……」

 彼女はそこで何故か言葉を切る。そして、その先を言おうとはせず、「じゃあね!」と踵を返して行ってしまった。僕はその場でしばし呆然と立ち尽くしていたが、彼女の遠ざかる背は少し離れた街灯の下で止まった。何を思い返したのか、彼女は遠くで僕の方に振り返ると、不必要なくらい大きな声でこう叫んだ。


「ピカソも私も、恋する画家だってこと!!」


 今度こそ、彼女の背は脱兎のごとく遠ざかり、ついにはその影すらも捉えることは出来なかった。

 全てはいきなりの出来事であった。

 僕は雷鳴に打たれたように立ち尽くし、そして改めて帰路へとつくのだった。


 パブロ・ピカソは画家である前に、1人の恋多き男であった。

 高屋敷沙織もまた、画家である前に、1人の恋する女子高生である。

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芸術と哲学と君の恋 睦月紅葉 @mutukikureha

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