第15話 アオ八〇パックを詰める為のたった独りの冴えたやり方
東京八重洲南口バスターミナルを二十一時に出た、水戸行きの高速バスは、二十三時少し前に水戸駅北口に到着した。それから、二十三時二十三分、水戸駅発の最終の大洗鹿島線に乗って、仁海は、大洗駅に向かった。
大洗駅から徒歩で移動して、時計の針が天辺を回る前に祖母の家に到着した仁海が、店の入り口のシャッターを開けて中に入ると、店の来訪者を告げる「ピンポン」という音が仁海を迎えたのであった。
「ただいま」
だが、その仁海の声に応える者は誰一人としていない。
かつてならば、ピンポンの音と同時に、祖母が階段を降りてくる音がしていたのに……。
仁海は、荷を下ろし、二階に上がって蒲団を敷くと、手早くシャワーだけを浴びて、就寝の準備をした。
明日というか、もう今日の朝一には、卸しのお客さんの予約が入っている。
店の開店時刻は五時なのだが、六時と六時半に入っている予約の準備をせねばならないし、今日初めて独りで店に立つ事を考えると、遅くとも、四時には起床しなければならないだろう。
三時間ほどしか眠れないが、少しでも眠っておくことにして、仁海は一時前には床に着いた。しかし、朝一の予約という考えが頭の中にまとわりついて、仁海は、なかなか寝付けなかった。
加えて、予約内容が〈青イソメ〉、通称〈アオ〉である事を思うと、仁海の目はさらに冴えてしまったのだった。
ようやくウトウトし始めたと思ったその時、セットしておいたスマフォのアラームが鳴り出した。
普段の仁海ならば、何度もスヌーズさせながら、学校に向かうギリギリの時刻まで数度寝を繰り返すのが常なのだが、この日の仁海は、一回目のアラームで蒲団から飛び出して、顔を洗い、歯を磨き、ジーンズ製の厚手の店用のエプロンを着けるや、店に降り、予約が入っている卸しの釣り船屋さんの領収書を二件、先に書いてから、クーラー前のエサ置き場へと向かった。
エサ場に来た仁海は、青いプラスチックの水槽の上に置かれていた、蓋代わりの発泡スチロールを取り上げた。
その中には、仁海が大洗に到着する前に、鹿島に行く前の叔父が、前もってクーラー室から移しておいてくれたアオイソメが、所狭しと、ウヨウヨと漂っていた。
原則、アオは冷えたクーラー室で保存しておくのだが、実際に売り物としてお客さんに提供する時には、事前に、クーラーの〈内〉から、クーラーの〈外〉のエサ場に移して、いわば〈シャンブレ〉させておくのである。
仁海は、しばらくの間、青い水槽の中のアオに視線を落としていたのだが、やがて、両手に着けていた水色の薄手のゴム手袋の手首部分を弾いた。
パチン、パチン。
「よしっ! やるっきゃない。わたししかいないんだから」
その小気味よい音によって、仁海は自分の気持ちを切り替えんとした。
売り物用のアオイソメの準備の手順とは、まず、あらかじめ砂が敷き詰められている小型のプラスチックのパックを計量計、〈スケール〉に置いて、値をゼロにセットする。
それから、お箸を使って、〈優しく〉水槽からアオを取り出し、お猪口(ちょこ)に入れる。
何故にお猪口と、思われるかもしれないが、お猪口一杯に、大体アオ五〇グラムが入るそうなのだ。
ちなみに、祖父の時代には、計量計などは一切使わずに、お猪口一杯分をそのままパックに移して売っていたそうである。それは、祖父ならではの妙技なので、祖母の代になってからは、多い少ないというクレームに対応するために、お猪口一杯をベースにしたグラム売りをする事にしたらしい。
パックを作り慣れていない者は、同じお猪口を使ったとしても、なかなか五〇グラムぴったりには一発でできないので、スケールの値を見ながら、追加したり取ったりして、重さを微調整してゆくのである。
そして、五〇グラムになったら、パックに蓋をして輪ゴムをかければ、〈アオ一パック〉の出来上がり、といった次第なのだ。
二週間前のアオイソメのパック詰めの研修の際に、仁海は叔父に問うた。
エサを使い終わった後の処分に困るに違いないのに、何故に、わざわざ砂を敷く必要があるのか、と。
叔父によると、アオは、そもそも浅瀬の砂地に生息している生き物なので、砂の上に置いておかないと、すぐに弱ってしまうからなのだそうだ。
で、この砂が、アオのパック詰めの時には、まったくの曲者で、急いで慌てて準備しようとすると、砂をパックからこぼして、水槽の中に落としてしまう事が、頻繁に起こるのだ。
二週間前の研修を思い出しながら、仁海は、起床してから三十分後の四時半頃から作業を始め、丁寧に、一グラムのミスもしないように、慎重過ぎるくらいに、アオのパック詰めを遂行していった。
五パック作ったら、それらを段ボールに移し、それを十回繰り返して、まず五〇パックを作る、というのが仁海の計画であった。
これを二回繰り返し、十パックを段ボール詰めし終えたところで、スマフォのアラームが五時を告げた。
開店時刻である。
えっ! ちょっと待って。
最初の五〇パックのマツヤマさんが来るのって六時だよ。
一パック約一分の計算で、少しマージンをとって五〇パックを一時間で作れば、時間的に余裕って考えていたのに、三十分で十パックってことは、残り七〇を作るのに三時間半はかかる計算になる。
六時半には、もう一つ、三〇パックのスギキさんの予約も入っているのに、これじゃ、絶対に間に合わないよ。
今は早朝で、ここにはわたし独り、手伝ってくれる人は誰もいない。
わたし、わたししかやる人がいないんだ。
二つの予約を合わせて、あと七〇パックを一時間で、つまり、これまで一個三分かかっていた作業を、一パック一分以内でやってゆかねばならない。
仁海は、頭をフル回転させ、どうして時間がかかってしまったのか、その原因を洗い出した。
仁海は、砂が入ったパックをスケールに置いて、ボタンを押して値をゼロにしてから、そこにアオを入れ、五〇グラムになるように、慎重に微調整していた。
砂入りのパックは重さが微妙に異なるので、パックを一つのスケールに置いて、ボタンを押して、ゼロにセットする作業を繰り返さねばならないのだが、これが地味に時間がかかるのだ。
そこで、仁海は、モエビのクーラー室に入って、モエビ用のスケールを持ち出して、二台体制で作業する事にした。
そして、砂入りのパックを、いちいちスケールに置く手間を省くために、その二台のスケールの脇に、砂入りのパックを五個置き、二台の計量計の上には何も入っていない空のパックを一つずつ置いた。それから、アオをお猪口よりも気持ち少なめに入れ、イソメを足してゆく事によって、〈五〇〉に合わせる事にしたのだ。
仁海の感覚では、グラムの調整は、引くよりも足すほうがやり易いように感じられていたし、砂入りのパックに直接入れる最初の方法では、引くべきイソメに砂が付着してしまう。
パック詰めに時間がかかっていた原因の一つが、グラムの調整と、取り除くイソメの砂の付着であった。だから、先に空のパックに入れれば、イソメに砂が付かずに済む、と仁海は発想したのである。
それから、二台のスケールの上の空パックに入れたイソメが〈五〇〉グラムになった時点で、スケール脇の砂入りパックにアオを移し替えた。
そしてさらに、一個一個アオのパックを作ってゆくのではなく、五個の砂パックにイソメが入った時点で、まとめて蓋を置き、ゴムをかける事にしたのだ。
この方法がドンピシャはまって、五パックを五分強で作れるようになり、びっくりする程、パック詰めの作業が速くなったのである。
かくして、五〇個のアオパックを作り終え、全てを段ボールにつめ終えた時、時刻は六時を回っていたのだが、ちょうどその時、卸しのマツヤマさんが店に到着した。
そして、品物を渡し、お金を受け取り、伝票を渡して、一人目のお客さんの対応はなんとか終わったのである。
だがしかし、まだこれで終わりではない。
時刻は、もうすぐ六時十五分、二人目のスギキさんの到着予定まで、残り十五分しかない。この時間で、あと、アオを三〇パック作らねばならないのだ。
もっともっとスピードを上げるには、どうすればよいのか?
アオをお猪口に入れた際に、イソメの中には、元気が有り余っているかのような、〈イキ〉の良いヤツがいて、パックに入れた後で、蓋を置く前に外に飛び出てゆき、結果として、パックを測り直さなければならないような事が何度もあった。
だから、イキの良過ぎるアオイソメがパックから逃げ出さないようにするというよりも、水槽からお猪口に入れるその時点で、暴れまくる、そんな、イキが良すぎるイソメさんは、いったん水槽にお戻り願う事にした方が、測り直すという無駄な手間が省けるように仁海には思えた。
結果、これで、また速度が上がったのだ。
だがそれでも、スギキさんを少しお待たせする事になってしまい、最後の五パックに関しては、蓋置きとゴムかけをスギキさんに手伝ってもらう事になってしまった。
スギキさんは、手伝ってくれながら、こんな話をしてくれた。
「バアちゃん、ほんと残念だったね。亡くなる数日前も、俺、イソメを仕入れにきて、こんな風に手伝っていたんだ……」
そうなんだ……。オバアも……。
隣で手伝ってくれているスギキさんの声が少し涙声になっているように仁海には思えた。
卸しのお客さんの、計青八〇パックの対応を完全に終えた時、時刻は七時を過ぎていた。
ふとスマフォを見ると、鹿島にいる叔父から、仁海を心配するLINEが何件も入っていたのだが、アオイソメ八〇を時間内に作る事に夢中で全く気付かなかった。
そういえば、わたし、後半、アオイソメ、全然平気になってた。
オバア、わたしボッチって思い込んでいたけれど、独りぼっちじゃないみたいだよ。なんとかアオイソメにも慣れたし、わたしにも、お店できるかも。
でも、さすがに疲れたし、この後、少し休むよ。
そう思いながら仁海は、持ち出していたモエビ用のスケールを戻すために、左のクーラー室に入った。
「あっ!」
そういえば、モエビの水の入れ替えをやっていなかった。
仁海の朝の業務はまだ終わりそうもないようだ。
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