04.少女人形:看護するフレドリカ③


 大陸の北辺。

 肥沃なる東方諸国と北辺の辺境を隔てる《氷結海》の北岸――ミズヴァール凍土地方は、雪と氷の大地である。

 

 北の雪解けは短い。

 厳しい冬を耐えた末に訪れる捨扶持のような春――ささやかな緑を宿した北辺の大地は、短く美しい夏と収穫の秋を矢のように駆け抜ける。

 休む間もなく冬支度を整える晩秋の坂は急峻を極め、そして季節は瞬く間に、長く厳しい酷寒の冬へと転げ落ちてゆく。


 そんな程度の頼りない恵みであっても、得られる土地は恵まれている。それは《氷結海》を挟んで豊かな南の土地と正対する沿岸の土地のみに与えられた、四季の幸いである。


 内陸に入り北へ向かうと、そこには一年の殆どを雪と氷で閉ざされた凍土の大地が広がることとなる。

 獰猛どうもうな《雪獣》を狩って生計を立てる狩人たちが住まう針葉樹と雪原の大地を越えてさらに北へと向かえば、どこまでも白い無人の空白が極北の彼方まで続く。

 それは地図が記されることさえない、大地の空白だ。


 緑の恵みから見放されたがごとき大地だが、しかしそこにも人の営みはあり、国があった。

 豊かな鉱産資源と火山の熱、凍土においてすら凍えることを知らぬ頑健な《山妖精ドワーフ》達からもたらされた鍛冶の技が、この地に人の国を築くいしずえとなった。


 貧しい国々だった。

 貧困によって荒れ、乏しい恵みを巡って相争う故にこそ落としどころを持ちえない泥沼の戦乱の果てに、さらなる貧困の底へと転げ落ちてゆく――蟻地獄のような負の連鎖を血文字で刻み続けたそれが、《凍土領域》ミズヴァールの歴史であった。


 だが、それら共食いのごとき歴史においても、弱い国はやがて淘汰されて滅び、強い国は富を占有し拡張する。


 ミズヴァールの大地に拡張を続ける三国。

 ひとつは、豊かな南方沿岸部の過半と周辺小国群を勢力下に置き、魔術の灯火を高く掲げる皇国レフテオール。

 ひとつは、峻厳なる山脈群を後背に西へ広がり、鉱産と交易によってその富をなす商業の国ノル・ナディカ。

 そしてひとつは、東の凍土を統合せし、軍と技師クラフトをその礎とする鋼の皇国――ガルク・トゥバスである。

 


 次にウォルフが目を覚ましたとき、ドアの傍らで彫像のように控えていたフレドリカは何も言わずに部屋を出ると、食事を載せたサービスワゴンを押して戻ってきた。


 無言の勧めに従い、ウォルフはスプーンを取った。

 最前の一件を経た今、この期に及んでまでフレドリカに嫌疑をかけるつもりにはなれなかった。それが自分の甘さによる失態だというなら、もはやそれも運命だと――ウォルフは半ば開き直っていた。


 オニオンのスープだった。

 微塵に刻み、飴色に炒めた玉ねぎがたっぷりと泳ぐ、琥珀色の熱いスープは――仄かな塩味に玉ねぎの甘みが溶けて、ウォルフの弱った胃と身体の芯にまで、深く深く沁みいるようだった。


「……うまい」


「お口に合ったようでなによりです」


 ほろりと零れてしまった言葉を聞き留め、フレドリカは律儀に頭を下げる。

 そうした彼女の従順さは、むしろウォルフを気まずくさせていた。《人形》とはそうしたものだと頭では分かっていても、それで最前に激発した己自身の、滑稽きわまる一人相撲を忘れられる訳ではない。


 ウォルフの食事が終わると、その間ずっと控えていたフレドリカは食器をサービスワゴンに戻し、彼の身体を寝かしつける。ウォルフはもはや逆らわず、それに従った。


「フレドリカ。訊いてもいいだろうか」


「何なりと。ウォルフ様」


 埃除けの下にお盆ごと食器一式をおさめ、フレドリカはウォルフへ向き直る。


「あなたは――いや、お前はこの館の管理を一任されていると言っていたが」


イエス機主マスターは当家の管理をフレドリカに委ねられました」


「なら、あらためて頼みたい。当家の主人――エルフェルズ女伯へのお目通りはかなわないだろうか」


 ウォルフは言った。


「ようやく思い出した……ドロティア・ランヒルド・リア・レーフグレーン=エルフェルズ女伯。レフテオールの東方国境を預かる辺境伯の一人、皇国でも指折りの魔術師だ。《北辺戦役》の折に俺達 《ルフトヘイン大隊》のチェスタベール村征圧を阻んだのも、かの女伯率いるエルフェルズ兵団だと……」


 《北辺戦役》は北方の強国たる二国、東の皇国ガルク・トゥバスと南の皇国レフテオールの間に起こった争いである。

 より厳密に言えば、レフテオールの保護下従属下にあった複数の小国――二国間の緩衝地帯であった小国群へ、『旧態依然たる皇国の圧政より諸国を解放せしめん』ことを名分に侵攻したガルク・トゥバスと、その進出を阻止せんと『庇護下たる同盟諸国の領土保全』を掲げて出兵したレフテオールとの争いであった。


 長きに渡った戦争はガルク・トゥバスが勝利し、緩衝地帯にあった小国の多くはガルク・トゥバスの勢力圏として組み込まれた。だが、これは決して楽に勝てた戦争という訳ではなく、ガルク・トゥバスは幾度となく敗北を重ねてもいた。


 その敗北のひとつが、いわゆる《チェスタベールの戦い》におけるそれだ。

 高地を制圧し優位を得んとするガルク・トゥバスが仕掛けた攻勢は、実際の任に当たった《ルフトヘイン大隊》の大敗という形で決着した。

 大隊が被った損害は、兵員の二割、及び戦線に投入した《機甲人形オートマタ》の半数。攻勢目標であったチェスタベール村の制圧にも失敗したことで、大隊は負傷者や破壊された《機甲人形》の収容もままならず、後方の予備と配置を交換することとなった。


「その後も三度にわたる攻勢を、エルフェルズ兵団はことごとく退けた――エルフェルズ女伯の操る召喚魔術は、その最大の立役者であったと聞いた」


 戦後、チェスタベールをその領内に置く王国イクス・トアは、レフテオールの保護下として残った。一連の戦役において、ガルク・トゥバスが戦線の一つである。


「あらためて名乗らせてくれ。俺はウォルフ・ハーケイン。

 今はゆえあって今は祖国に追われる身の上だが、もとはガルク・トゥバス央都第七工廠の技師クラフトだった」


技師クラフト――」


「厳密には《人形工芸士ドールクラフト》だ。戦中、《ルフトヘイン大隊》にいた頃は部隊の整備兵をしていた。その頃に習い覚えた技術があったのと……他にもいろいろと幸運な経緯があって、戦後は工廠の《人形工芸士クラフト》として勤めさせてもらっていた」


 煩雑な経緯は省略する。突っ込んで訊かれたらどうしたものかと内心ひやひやしていたが、幸いフレドリカが傾聴の姿勢を崩す様子はない。


「……ガルク・トゥバスである俺が願える立場でないことは重々承知しているが、どうかそれを曲げてお願いする。かの女伯と、お話をさせてもらうことはできないだろうか」


「……今は、不可能です」


 ウォルフの懇願を、フレドリカは静かに謝絶した。


「お前も知ってのことだろうが、ガルク・トゥバスは軍と特務、そして技師クラフトを柱とする国だ。俺は一介の技師にすぎないが――ゆえあって、工廠を預かる《人形工匠マエストロ》の傍付きのような仕事をしていた。女伯と話をさせてもらえるなら、対価として有用な情報を提供できる。俺が知る限りのすべてだ」


 相手は国境を預かる辺境伯だ。

 境を接する隣国の情報は、喉から手が出るほど欲しいはずだ――そう、踏んでいたのだが。


「最前も申し上げた通り、機主マスターはこの館にはおられません。何よりウォルフ様は、まずご自身の身体の回復に務められるべきでしょう」


「そうか……そうだな」


 人形メイドはにべもなかった。

 ウォルフはベッドに身を横たえ、大きく息を吐く。この《人形》を相手に押し問答をしても無駄らしいと、遅まきながらに悟らざるを得なかった。


 仕方なしと目を閉じて。そして、ふとウォルフは唇をゆがめた。


「……フレドリカ。度々たびたびすまないんだが」


「はい。なんなりと」


「手洗いはどこだろうか」


 心なしか、背中にへばりつく不穏な予感を感じながら。

 ウォルフは訊ねた。


「その、何だ。ご婦人の前で恥を晒すが、もよおしてきていてな――眠る前に手洗いへ行きたい」


「少々お待ちくださいませ」


「って、おい。どこへ行く!」


 フレドリカはサービスワゴンを押して部屋を出た。この時点で、嫌な予感は半ば確信に変わっていた。

 少しして戻ってきたフレドリカは、口の広いガラス瓶を抱えていた。


 尿瓶しびんだった。


「……フレドリカ」


「いけません」


「早まるな。俺はちゃんと動け」


「フレドリカは女性型ではありますが、あくまで《人形ドール》。その在り方はこの室内の家具とさして変わりありません。どうかお気になさらず」


「いや、そうは言うが!」


 ウォルフは慌てて体を起こし、動けることをアピールしようとする――否、しようとした、だけだった。

 目の前がぐるりと歪む。起き上がることさえままならなかった。

 最前の立ち回りと今しがたの食事で本当に最後の力を使い果たしてしまったのか、芋虫のようにもがくのが精一杯だ。


 それでも、どうにか肘をついて体を起こそうとするウォルフを、フレドリカは力ずくで横たえる。


「フレ」


「お任せください。フレドリカは慣れています」


「何がだ! いや、お前――ちょ、待て待て待てェ!!」


 淡々と澄んだ声で言いながら。

 フレドリカは喚くウォルフを他所に、上掛けの足元を剥ぐ。



 ――ウォルフは尊厳を失った。

 少なくとも、彼の主観的な範疇においてはそうだった。


 排泄を人に世話される。たったそれだけの行為が、これほど屈辱的に人の尊厳を破壊するものなのだということを、ウォルフは身をもって知った。


 所詮相手は人形、女の形をしているだけでその辺の家具と変わらない。当のフレドリカ自身がそう言っていたではないか――そう自分に言い聞かせたところで、胸を抉るような傷心がいささかなりとも癒えることはなかった。


「そう恥じ入られることもないかと存じます、ウォルフ様。たいへん立派な持ち物でいらっしゃいましたよ」


 何のつもりか、フレドリカはそう言ったが。

 当然、何の慰めにもなりはしなかった。

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