第32話 自信

 カフェを出たら、解散の運びとなった。

 水澄先生はもう一度ギャラリー『雨宮』に戻るそうで、八草と日向は二人で本屋に行ってアート関連本を漁るらしい。

 俺と朱那はまた二人になり、カラオケへ。

 歌いたかったわけではなく、朱那が二人でゆっくり話せる場所としてカラオケを選んだ。時刻は午後六時前で、一時間だけの利用予定。

 ソファに二人並んで座ると、朱那は俺にもたれ掛かって、頭を肩に乗せてきた。

 密着したことにより体温が伝わる。甘い匂いも香る。要するに、ドキドキするのは仕方ない。


「はぁー、早く同棲したいね。そしたら、いちいちお金かけて場所を確保しなくても、二人きりになれる」

「同棲か……。自分がそういうことしてるイメージはあまり掴めないな」

「なんでさ。わたしがいるのに」

「まぁ、朱那がいれば、そういう未来もあるのかな」

「高校卒業したら、一緒に暮らそ。いっそ結婚してもいいね」

「……結婚は気が早いだろ」

「じゃあ、いつになったら結婚してくれるの?」

「なにゆえ、高校生の身空で、いつまでも結婚してくれない社会人男性みたいなことを言われないといけないのか」

「わたしがどれだけ待ったと思ってるのっ」

「俺たちの交流、まだ十日くらいだよね!?」

「ロミオとジュリエットが結婚式をしたのは、出会って二日目じゃないの」

「そんな早いのか!? それは知らなかった……。ってか、それこそ早すぎ……」


 時代の違いなのだろうか。よくその展開で観客が納得したものだ。


「わたしは、悠飛の絵を見て、自分はこの作者と生涯を共にするんだって、思ったよ」

「……そう」

「冷静に見れば、こんなのは思いこみ過剰かもしれないね。

 でもさ。

 そんな風に思える相手に出会えただけでも、すごいと思わない? わたしだって、こんなこと言いながら、一年後でも二年後でも、わたしたちの関係があっけなく終わっちゃうかもしれないとは思うよ?

 それでも、今この瞬間、これだけ強い気持ちを抱けたことは、とても貴重だと思う」

「それは、そうかも」


 直感的に、それだけ強い思いを抱ける人が、世の中にどれだけいることだろう。きっと、そう多くはない。


「ニーチェさんは、こんなことを言ったんだって。一度でも魂が震えるような出来事を経験すれば、人は生まれ変わってももう一度自分を生きたいと思える、とか。

 わたしが、もう一度自分の人生を生きたいと思った瞬間は、悠飛が、わたしの絵を描いてくれたときだよ」


 朱那が、俺の絵で喜んでくれたことは知っている。

 ただ……その喜びの程度を、俺はまだ甘く見ていたのかもしれない。

 俺は自分の好きなように絵を描いてきただけ。描きたいものを描くだけ。

 それが他人にどれだけの影響を及ぼすかなんて、ろくに考えていなかった。

 きっと、俺は独りよがりに絵を描いているのだろうと思っていた。俺の描く絵が、誰かの人生に大きく影響することなんてないと思っていた。


「……俺さ、実は自分の絵にそんなに価値があるとは思ってないんだ」

「どうして?」

「自分の好きなものを、好きなように描いてきただけなんだ。何か特別な努力をしてきたつもりもない。だから、誰かに特別な価値を見いだしてもらえることに、実感も持てない」

「悠飛は本当に純粋だね。現代のアートとは、全く別の方向性」

「うん……。俺の中に、現代アート的な部分なんてない。ただ綺麗なものを、綺麗に描きたいだけ。自分の感動を表現したいだけ。問題提起も、メッセージも、何もない。

 アートは、きっと、花染さんのような人に向いているんだろ。花染さんのことをはほとんど知らないけど、何かしらの信念があって、それを表現したいっていう強い気持ちがある。アートとしての価値を、作品に目一杯込めているんだろう」


 作品を見ただけではわからなかった。でも、作品に込めている思いは、俺とは比べものにならないはず。


「そうかな? わたしは、悠飛も強いメッセージを作品に込めていると思ったよ。花染さんにも、負けず劣らす、ね。少なくとも、わたしは受け取ったものがある」

「……例えば?」

「『あなたは美しい』」

「……それ、メッセージ? 俺、ただ綺麗だなって思って描いてるだけだよ?」

「悠飛の絵はいつもそう。モデルの美しさをよく表現してる。女性のセクシャルな魅力についての話じゃなくて、一人の人間としての魅力をね。悠飛の絵には、大げさに言えば、魂が籠もっているように感じる。モデルになっている人の生きてきた歴史を全部詰め込んで、それを愛でるような……」

「それは流石に、大袈裟かな。俺、そこまで深く考えてないよ」

「それでもいいよ。わたしは、そう感じたってだけ。でも、そう感じられたってことが、すごく大事じゃない?」

「うん……そうかも」

「とにかく、悠飛はもっと自信を持っていいよ。悠飛は、自分があまりに自然にやっていることだから、それを上手く評価できないだけ。学校のテストみたいに、相対的な点数として評価できないから、仕方ないとも思う」

「うん……」

「悠飛。自信がないなら、わたしを信じて。悠飛が大好きで、悠飛に自分の人生全部を預けたいと思っているわたしを」


 朱那が姿勢を正し、こちらを向く。

 繋いでいた手を離し、俺の頬に両手を添えて。

 しっかりと、俺の目を見据える。


「自信がないなら、それでもいい。悠飛はただ、わたしを信じればいい。わたしを、信じて」


 そして、朱那がそっとキスをしてくる。

 唇を触れ合わせるだけのキスだけれど、朱那の唇は俺の唇をついばみ続け、長く続くキスになった。

 キスが終わり、目を開けると、頬を染めた朱那の顔がすぐ近くにあった。

 気恥ずかしいげに微笑む姿は、俺が描いてきたどんな絵よりも、美しいと思った。


「悠飛にないものは、わたしが持つ。わたしにないものは、悠飛が持つ。夫婦ってそういうものなんでしょ? 二人で、頑張っていこ?」

「……うん。ありがとう」

「よし。うん、って言ったね? 今ので婚約成立ね?」

「え? いや……ああ、もうそれでいいや」

「まぁ! わたしを射止めておいて、それでいいや、だなんて! あなたと婚約できるなんて光栄の極み! って歓喜するところじゃないの!?」

「俺は感動があまり表に出てこないタイプなんだ」


 もっと言えば、未だに現実感がないんだよな……。夢でも見ているみたいで、感動にももやがかかっている。


「ふん。言い訳しちゃって。まぁいいや。悠飛にはまだ時間が必要なんでしょ。惚れた弱みとして、悠飛の気持ちが追いつくまで、待っててあげる。浮気は許さないけどね!」

「……うん。ありがとう」


 朱那は、付き合っていく程に魅力的な人だとわかる。

 その身に宿した強い光が眩しくて、見つめているのは少し辛い。

 隣にいるのは俺じゃない方がいいのでは? と思わないでもない。

 ただ、朱那の隣にいたいとは素直に思うから……この場所は、誰にも譲りたくないな。


「朱那は、そこにいるだけで至高のアート作品みたいに魅力的だな」

「そう? わたしは別に、大したことをしているつもりはないけど?」

「ああ……なるほど。朱那が俺に対して感じているものの一端を、掴んだ気がする。朱那にとっては当たり前のことだから、自分の価値を客観視できないのか」

「うーん? そうかも? よくわかんないけど! あ、ねぇ、せっかくカラオケに来たし、少しは歌おうか? それとも、耳元でエッチボイスのASMRやってほしい?」

「なんだその極端な二択は。普通に歌おう」

「我慢しなくていいのに。じゃあ、歌った後に、ASMRやってあげる!」

「結局やるのかよ」

「当然!」

「何が当然なんだか……」

「年頃の男女がエッチなことするなんて当然じゃない。何を今更」

「当然とまでは言うべきじゃないと思うが……。そういうことを避ける男女もいるだろうし……」

「そんな生真面目なこと言ってるから未だに童貞なんだよ」

「……そんな破天荒なことを言いつつ、未だ未経験な女子が目の前にいる気がするけど?」

「あ、そうだった。ま、とにかく歌おう」


 都合が悪くなった朱那は、デンモクを取って操作し始める。

 呆れつつも、その切り替えを可愛らしくも思う。

 これから、朱那はどんな人になっていくのだろう? 溌剌として、精神的には成熟した雰囲気のある人だけど、まだまだ発展途上。

 その変化を間近で見られるだろうことは、俺の人生で一番幸せなことなのかもしれない。

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