01-003 元旦

(……えっと……)


 ケイイチは、に照らされながら、自分の置かれた状況について思い巡らせていた。


(……どうしてこうなった?)


 大晦日の夜、あれだけの決心をして、鉄柵に近づいたのはいいものの――

 結果から言うと、ケイイチは飛び降りられなかった。

 いや、正確に言うと、


 今は日付変わって1月1日。元旦。

 AR視野に表示されている時刻は、朝の8時42分。

 ケイイチは、未だにビルの屋上にいて、新春の美しく穏やかな朝日に照らされながら、屋上の鉄柵ので、鉄柵を背に立っていた。


 なぜ、ケイイチは未だに飛び降りていないのか?

 それは、本当に死ねるかどうか、わからないからだ。


 この高いビルから飛び降りたとして、死ねるかどうかなんてわからない。

 特にケイイチのような未成年者の自殺は、極端に難しい。

 若者は、死ぬことを

 世界を動かす超高度な人工知能たちが、若者が死なないよう、完璧にコントロールしているからだ。


 未成年者の命は、AIによって強固に保護されている。

 子供が命に関わる危険な目に遭いそうになったなら、AIたちは体内のナノマシンや空気中のマイクロマシン、ロボット、アンドロイドなど、ありとあらゆる手段を駆使してそれを阻止する。

 どこか高いところから転落したなら、大気中のマイクロマシンがクッション状の構造を即座に作って安全に受け止めてくれる。命に関わるような傷を負えば、すぐに医療ドローンが飛んできて治療してくれる。命に関わるような病気はすぐさま発見し治療してくれるし、危険な薬物を摂取すれば、体内のナノマシンが無毒化してくれる。


 それは、自らの意思で死のうとした場合であっても変わらない。

 未熟な若者が下す判断――特にその命に関わるような判断――を、AIは尊重してくれない。

 十分に脳が成熟し、成人し、自死する権利を獲得するその日まで、若者の命はAIたちの保護下に置かれる。自らの命を投げ捨てんと飛び降りようが、首をくくろうが、薬を飲もうが、何をしようが必ずAIたちに邪魔され、生かされる事になる。

 だから、若者が自殺なんて、やるだけ無駄、考える事すら無駄。それが世間では常識だ。


 とはいえAIたちだって、地球上のあらゆる場所のあらゆる出来事を完全にコントロールできるわけではない。特に人が少ない場所であれば、マイクロマシンやロボット、ドローンなど、人命救助に使えるテクノロジーの密度や対応速度がどうしたって落ちてしまう。

 つまり、できるだけ人の少ない場所で、かつ、即死できる手段で自殺をすれば、AIの救助が間に合わず、自殺の成功率が上がる――らしい。ネットで流れている情報が嘘じゃなければ。


 だからこそケイイチは、大晦日の夜、ビジネス街のど真ん中にあるビルという、人の気配とはおおよそ無縁そうな場所で、考えられる中では一番即死できそうな、飛び降り自殺を選んだ。

でも、それは所詮「確率を少し上げる」だけで「確実に死ねる」という事ではない。

 多分、死ねない確率のほうが高い。


 ――としたら。

 もし、ここから飛び降りて。

 失敗して生還したとしたら。

 家族にはきっとそれは伝わって、心配も迷惑もかける事になるだろう。

 その後家族は、死のうとしたケイイチに気を遣って過ごす事になり、ケイイチは腫れ物のように扱われ、人様に迷惑をかける息子に父親の心は離れ――

 そんな未来考えたら、とても飛び降りる気になんて――なれない。


 …………

 …………

 ……なーんて。


(それもなくはないけど!)

(すみませんちょっとイキってました!)

 ケイイチは胸の内で、誰にというわけでもなく叫ぶ。


 ケイイチが飛び降りられない理由。

 それは、「死ねなかったら未来がさ……」とか、そんなかっこよさげな話じゃない。

 もっとどうしようもなくダサくてしょーもない理由だ。


(……っていうかホント……)


 ガタガタと足を震わせながら、内心で独り言つ。


(……マヂで怖すぎません……?)


 昨晩、日付が変わる少し前。

 屋上で、覚悟を決めて鉄柵を乗り越えようと力を入れたその時に、ケイイチはうっかり見てしまった。

 下方向を。

 その瞬間に、ケイイチの体は完全に硬直し、何もできなくなった。

 足がガクガクと震え出し、へなへなとへたり込む。


 その時になってケイイチはようやく思い出した。

 死ぬ事ばかり考えていて、自分でもすっかり忘れていた、致命的な事実。


 ケイイチは極度の高所恐怖症なのだ。


 高いところに行くと体が震えだして、自由が効かなくなる。

 ビルの階段を上っていた時は、ひたすら上を向いて登っていたし、夜だったし、隣接するビルが近くにあって、自分の高さを意識する事がなかったから何とかなった。

 でも、屋上の開けた場所に出て、自分のいる場所の高さを把握しまうと、もうどうしようもない。鉄柵を乗り越える? それはどんな冗談ですか?


 それでもなんとか気持ちを奮い立たせ、下を見ないようにしつつ、何度も鉄柵乗り越えチャレンジを繰り返した。だが当然のことながら成果は上がらなかった。

 初日の出が地平線を薄く染め始める頃になって、これ以上明るくなられたらマズい……と目を瞑って必死になんとか鉄柵だけは乗り越えられた――のは、本当に奇跡としか言いようがない。


 そこから飛び降りやすい方向に体の向きを変えるのにさらに30分。

 ようやく飛び降り準備完了になったのが2時間ほど前。

 あとは鉄柵を掴む両手を離して、前に倒れ込めばいいだけ――なのだけど。

 そこから先に進める気がしない。まったくしない。


 ただでさえ高いところは怖いのに……ここから飛び降りるとかマヂ無理。怖すぎ。

 ここから落ちるとか、軽く想像しただけで下腹部のあたりがヒュンってなる。

 一体何をどうやったら鉄柵を持つこの手を離せるのか、まるで皆目微塵も見当がつかない。

 過去に飛び降り自殺を試みた人々が、成功したにせよ失敗したにせよ少なくともここから飛び降りられた、という事が本当に信じられない。

 それができる勇気があったなら、もう人生何だってできる気がする。

 そんな勇気ある人が死にたがるのはまるで意味がわからない。

 だって死ぬのって死ぬほど怖い。こんな死ぬほど怖い事しないと死ねないとかおかしい。


 …………ん? じゃあ死ぬほど怖いっていうその恐怖でポックリ死ねばいいのかな?

 よし、じゃあ下をちょっと見てみ…………無理無理無理無理。金の玉が縮み上がって思わず性別変わる。


 ああああ!!

 もーー無理。

 無理無理無理無理。

 闇の組織の秘密をうっかり知ってしまって、新月の夜に美少女暗殺者に「最期の情けだ。苦しまない方法で逝かせてやろう」とか言われて死を認識する暇すら与えられずに絶命するとかじゃないと無理。なので可及的速やかに闇の組織の秘密などを僕に教えてください。

 無理?

 この超高度AI社会にそんな都合のいい闇の組織などはない?

 ぐあああああああああああ!!!

 闇 の 組 織 は 現実 じ ゃ な い?

 美 少 女 暗 殺 者 は 現実 に い な い?

 にゃあああああああああああああん!!うぁああああああああああ!!

 そんなぁああああああ!!いやぁぁぁあああああああああ!!はぁああああああん!!

 この!ちきしょー!やめてやる!!現実なんかやめ……

 やめ……

 ……

 ……

 ……


「……よし」


 8時間以上にわたる果てしなく無駄打ちした無駄なチャレンジと無駄に長い無駄な葛藤の末、ケイイチはようやく心を決めた。


「やめよ」


 人間、やってみなきゃわからない事もある。

 ここから飛び降りるくらいなら生きるほうがマシ。

 自らの小心者っぷりを知り、身の程というものを適正に理解したケイイチは、きっぱりと潔く飛び降りて死ぬのを諦めることにした。

 これからは美少女暗殺者が殺してくれるその日まで、余計な事をせず、身の丈に合わない夢など追いかける事なく、世界のはじっこのほうでひっそりと息を殺して誰にも迷惑をかけないように生きていこう。そうしよう。


 「おし」

 やめるとなれば、柵の外側だとかそんな危ないところに長居する理由は無い。

 ケイイチはいそいそと、柵の内側へ戻ろうと動き出す。

 戻る方は、どうやらスムーズに動けそうだ。

 というか早くあの鉄柵の内側、セーフエリアに帰りたい。おんぼろビル屋上の汚い床が恋しくてたまらない。


 しかし――

 運命の神様というのはなかなかに悪戯好きなようだ。

 ケイイチが体の向きを変えようと、鉄柵から左手を離した、その時だった。

 気まぐれに、一陣の強い風が吹いた。


 風が、ケイイチの背中をそっと押し、ケイイチの体がわずかにに傾く。

 バランスを崩すまいと、ケイイチが慌てて鉄柵を握る右手に力を込め、鉄柵に荷重ををかけた、その瞬間――


 ガコン


 古びた鉄柵はどこか間の抜けた情けない音を立て、へし折れた。


(へ?……)

 その衝撃で、右手が鉄柵から離れる。

 両手の支えを失ったケイイチの体は、ぐらりと大きく傾く。

 なんとかしてバランスを取り体を支えようと、両の手であらためて鉄柵を掴もうとするが、その手は空しく空を切った。


(は? えっ?)

 何が起きたのか十分に理解する間もなく、ケイイチの体は宙に放り出され、自由落下を始める。


(ええええええええええええ!?)

(え、落ち……!?)

(マジで?)

(は? 待って待って待って待って!)


 死ぬ事を諦めた途端に始まった死出の旅路。

 あまりにあんまりな状況に、ケイイチの心が悲鳴を上げる。

 いくらなんでもこれはひどい。

 こんな形で死ぬ事になるなんて。

 死ぬ事になるなんて…………?


(……ん?)

(……あ、いいのか)

 ようやく自分が何のためにビルの屋上にいたのかを思い出す。


(そっか、これで)

 これでようやく世間様の役に立てる。

 無用で有害な人間が一人減って、きっと世間のためになる。

 これでいいんだ。これで、落ちて、死ねば。

 このまま落ちて、あとはAIたちに邪魔されずに、うまく地面に激突して即死できれば。

 家族には少し面倒をかけるかもしれないが、そこは許してほしい。

 だってこれは、父さんが僕にずっと言い聞かせてきた「人の役に立つ」ための行動なのだから――


 重力に身を任せながら、そんな事を考えていた時だった。

 これから向かう先、激突するであろう地面の様子がふと視界に入った。

 そして――ケイイチは運命の神様のあまりに酷い悪戯に、抗議の声を上げたくなった。

(人……!?)

 自由落下するケイイチの真下。

 これから叩きつけられるであろう落下ポイントに、人の姿がある。

 このまま落ちれば、ケイイチあの人と激突する事になる。


(なんでこんな日のこんな時間のこんな場所に!)

 大晦日――グダグダして元旦になってしまったが――にビジネス街という場所を選んだのは、自殺の成功率を上げるためだけじゃない。

 他の人に迷惑をかけないように、こんな事故が起こらないように、という意味もあったのだ。

 落ちる方向だって、人通りの多い大通りの方向ではなく、人の少なそうな路地裏のほうを選んだ。


 なのに、何であの人はあの場所に立っている……?

 ほんの少し、ほんの数メートルだけずれた場所にいてくれればいいだけなのに。

 何で、まさに僕が落ちるであろうその先に人がいる……?

 そして、なんで自分はその場所をめがけて落ちている……?

 何で何で何で何で何で何で何で何で?


 『人の役に立ちなさい』

 何度も言い聞かされてきた父の言葉が、ケイイチの脳裏に浮かんだ。

 それがうまくできなくて、僕はこうして死ぬ事を選んだというのに。

 僕という無用で無価値な人間を一人減らして、世間の役に立つために、こうしているのに。

 何でこんな事になる……?

 最後もまた、人の役に立たないどころか、こうして人に迷惑をかけるなんて、そんな……。


「どいてーーーーーー!」

 ケイイチは必死に叫んだ。

 落下の最中だ。まともに声が出ていたかどうかもわからない。

 自分が落ちる前に、この声があの人に届くのかどうかもわからない。

 でも、必死で叫んだ。それこそ全部の命を賭けるくらいの気持ちで。


 その声に気づいたのか、落下ポイントにいた人が、顔を上げる様子がちらりと見えた。

 綺麗な黒髪の――少女?

 その女の子と視線がぶつかった気がした、その直後――

 腹部に何かの衝撃を受けて、ケイイチの意識はブラックアウトした。

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