⑬草原


 わたしは九才の頃、エディンバラへ越してきた。


 新たな門出に伴い、父は学校の代わりに専属教師──イーゴリ先生を雇った。彼は父のお得意様の一人であるレイフの両親にも仕えており、その繫がりで、彼らはわたしに子を預けた(仕事や社交で忙しいため、教育費の代わりにと言ってだ)。


 子の名はレイフ。アイスランドのレイフ・エリクソン、『幸運なるレイフレイフ・ザ・ラッキー』と同じ名である。


 腕の中のレイフはまるで雪だるまであった。白く、小さく、とても大人しい男の子。はじめはわたしに這い寄って遊び、膝の上でハニー・グレース式トライフルを食べていた。夜には母のもとへ帰った日もあれば、枕を共にしたこともあった。


「可愛いおまえ。生まれて二日の素敵なおまえ。すばらしいよろこびがお前の上にあらんことを」

 言葉を発せるようになると、彼はわたしを「ねえさん」と呼んだ。わたしはより嬉しくなり、一層可愛がって世話にくれた。


 彼はカラスのように賢く、教えたことは何でも覚え、何日経っても忘れなかった。教えることがなくなっては困るため、わたしも常に学ばなければならなかった。一方わたしは常に何処かで、彼は幼子だと侮っていたのだ。


 藁の臭いに満ちた幌馬車の中、手足を縛られたわたしの上、幼子がすやすやと眠っている。桃よりも繊細な肌は何にも守られていないが、目立った傷や痛みは見受けられない。


「レイフ?」

 身を起こそうとじたばたもがく。しかし痺れた手はうまく動かず、肩はがくんと落ちた。けたたましく揺れる馬車も相まって、また背を打ちつけて呻く。


「ねえさん。だいじょうぶ?」

 愛らしい二つの目が、きょろりと動く。カイコの眉が僅かに下がる。動けぬわたしの代わりに、彼が首に腕を回した。


「レイフ、なぜ。なぜあのオオカミと」

 耳元で問うと、彼はじっとこちらを見た。ナジオンも彼の手の中におり、石のようにじっとしている。


「ねえさんをさがしてとねがったから。それと、かのじょはねえさんがここにくることをしっていた。そしてきのみをおいて、おびきよせた」

 上げられた顔には子ども特有のあどけなさがあり、同時にアカシアより大人びた雰囲気がある。


 三年も共に過ごし、嬰児の頃から彼を見てきた。大人しくて聞き分けの良い彼の、野生に生きるオオカミのような底知れなさ。いつからどこに潜んでいたのだろか。


「レイフ、おまえは」

 情けない問いかけは馬車の揺れに阻まれた。車輪が小石に乗り上げ、危うく舌を噛みかけたのな。


 レイフはわたしの平たい胸の上に頭を乗せ、再び安らかに眠り始める。わたしの疑問を何もかも置き去りにされ、はじめてレイフを小突きたくなった。しかし星月夜に鳴く小夜啼鳥の声が、小さな灯を吹き消した。


 本日二度目の馬車が停まったとき、幌は火のような赤に染まっていた。


 外で誰かが叫んでいた。知らない言葉故応じようもないと口を閉じていると、やにわ帳が開かれる。


 まず見えたものは薄い霧、次いで屈強な胸筋とそれを覆う赤い着物であった。


 しゃがんだ際ににゅっと見えた男は鋭い隻眼をこちらに向け、亜麻色の髪が陽を吸い上げていた。頬には大きな蒙古斑、腰には片手剣を携えている。年はトゥースネルダと同じくらいだろうか。若くもないが、老けてもない。彼の後ろには数台の馬車と、イラガの巣に似た白いテントが見える。


 ここはダヌヴェ人の居住区かと思案した折、彼はガラガラとした声とともにレイフに掴みかかった。わたしが咄嗟に彼を庇うと、火も光もない碧眼で一瞥してきた。そして特に何を言うこともなく、手を伸ばしてくる。


 「ユーリー」と、レイフは呼んだ。どうやらそれが、この男の名であるらしい。彼は乱雑にわたしの足を掴むと、短剣で足の縄を絶って引きずり出した。ヤギを屠殺するような力強さ。皮膚に太い指がのめり込み、痛みで歯を食いしばった。


 レイフが何か言うと男はさっと離したが、痣が残ったのかじんわり熱を持っている。


「ここがダヌヴェじんのすみか。ここでかれらはかりやぼくちくでせいかつしている。……けど」

 彼は赤い草原に目を向けた。


 背丈の低い草が一帯に広がっている。妖精山で見たものはもっと茂り、足を包むような草地であった。地を踏みしめて感覚を確かめる。土の硬度がすぐそこに感じられる。土が乾いている。地も赤い日に焼け、傷んだ髪のように生気がない。


「家畜に食べさせる草がないってことか」

「はい。どこにいってもきおんがひくい。あめがすくない。だからくさがそだたないのです」

 遊牧民は草を求めて住みかを移す。民族によるが、夏は草が豊かなところへ。冬は山際など寒風が凌げるところへ。


 夏に家畜を肥えさせ、不毛な冬に肉を食らう。いわゆる白い食事と赤い食事である。そしてそれ即ち、夏に家畜が育たないと冬の食べ物が不足する。


 なるほど合点がいった。

 わたしの疑問は的外れではなかった。普段食料が不足しがちな冬だけでなく、夏にもせめてきた理由。それは異常気象による食料不足が原因だったろう。


「なぜ奴らはお前をさらったのだ」

「くわしいはなしはあとで。ぼくのテントにあないします。ねえさん、ついてきてください」

 毛筆が砂を掻くと、獣の息遣いがすぐそばで聞いた。視界の端に黒煙が映る。柔らかな靄のような、あの黒いオオカミが悠然と立っていた。あのエディンバラの森で見た黒イヌである。


 レイフに手を引かれ、わたしはユーリーの案内で歩き出す。後ろ手で縛られているせいで度々こけるが、彼は牛を引くように歩いていく。


 イラガの巣に似たテントの群れ。その間で人々が柵を立て、ウシ、ウマ、ヒツジ、ヤギを囲んでいく。天幕から濃厚な乳の香りが漂っている。


 俘虜として注目されるわたしの尻を、オオカミの鼻先が何度も突いてきた。


 さっさと歩けとばかりに、強く繰り返し押されていく。レイフにも引っ張られているのだから楽に歩けまいのだから急かすのではないと、わたしは内心で口を尖らせ、身を捩りつつテントに転び入る。


 幸いにも下は毛皮の絨毯。優しくわたしの膝を受け入れたが、ユーリーの視線は全く冷たい。否、単に強面なだけやもしれない。


「ぼくはふつかほどテントですごしていました。見た目よりはあたたかいので、いがいとかいてきですよ」

 レイフがユーリーを一瞥すると、彼は無愛想にそっぽを向く。口元が少し動いていた。


「彼はなんと?」

 アカシアがわたしにそうしたように、わたしはレイフに通訳させる。


「オオカミにしりをかじられるのはかんべんと。ところでそろそろおなかがすくころあいでしょう。おゆうはんをとってきますね」

 レイフはユーリーとオオカミを連れ、テントの外へ出ていった。


 布の帳がやにわに開き、乳の香りがふわりと舞い込む。豊かなそれに目を細めながら、私はふかふかした絨毯に身を預けた。


 やや獣臭いが不快ではない。ホルスロンドの宿には劣るが、野営ではこんなものだろうと独り頷く。かようにまどろむうちに、レイフたちが戻ってきた。ユーリーが持つお盆には四つの乳粥が乗せられている。私とレイフ、そしてオオカミと彼のものだろう。


「どうぞ、たべてください。あまりおいしくはないですが、ないよりましですよ」

 レイフはわたしの前に、木のお椀を差し出した。わたしは礼を言い、それをゆっくり口に運ぶ。


 上下の歯で弾力のある麦を潰すと、草の味が口から鼻まで広がった。まるで牛になった気分である。食べられぬほどの不味さではないが、好んで食べたいと思えるものではなかった。


 

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