ホルスロンド王国記
水狗丸
①序
都市の喘鳴が聞こえる。鈍色の空が窒息に苦しんでいる。鉄が悪臭を放ち、石の上の命を蝕んでいる。
今日も窓の外から、煤塗れの亡霊がよく見えた。一年中降る小雨ですら、灰の瘴気は落とせやしない。
日が隠れて暗夜に至ると、御湿りが薄っぺらい玻璃を叩いた。隣の粒と合わさって重力に従って伝うさまは、融けた黒曜の鏡にも見える。
今は太陽が怠ける盆の頃。嘆く風が枯れ葉を運ぶ。ホタルに似てなくもない灯が窓の外に浮かびんである。その向こうには、鶏肉のシチューを囲む我々の影があった。
「なあ、今度の夕方散歩行かねぇ? 近所にちょうどいい森があっただろ」
シチューを食べていたわたしに対し、アイルランド人のアカシアが提案する。
彼は表向きこそわたしの召使いであったが、実のところ男友だち等しい。父が救貧院から引き取ってきた、ほぼ同い年──推定一三歳の少年である。今は父が営む洗濯屋の手伝いをしており、こと会計に於いては腕が良いと聞いている。
彼はシラスウナギのような長く白い指で、くるくると、器用にスプーンを回していた。
彼の左手前にはビーチ材のキッズチェアがあり、その上で四歳のスコットランド人レイフが行儀よくじゃがいもを噛んでいた。
「レイフさ、硬い肉も食えるようになったし、食事の時間になったら呼ばなくても来るし、走れるようにもなってきただろ。そろそろ長めの散歩に連れていっていいと思うんだ」
「バカなことを言うな。この子はまだ四才だぞ」
わたしはヘビが砂を吐くように返した。
「こいつ大人しいだろ。迷惑になるこたぁないって」
「違う。子どもを夜に出す方が問題なんだよ」
わたしがフォークを刺すようにきつく咎めると、アカシアはぷうっと頬を膨らませる。
少しずつ走る距離が延びること自体は大変よろこばしいことではあるし、とても利口な子であるのも知っている。しかし
レイフはアルビノの少年で、外出の際は帽子や外套が欠かせないのである。
きっちり断って席を立つと、アカシアは不貞腐れた様子でシチューをさらい、黙々と食事を続けていた。彼は時にレイフより幼稚であった。
この沈黙に苛立ちながら、わたしはレイフと一緒に片付けを終え、部屋から先祖代々から伝わるというサルマタイ人の剣──柄頭に輪がついた、ローマやヴァイキングのものとも違う無骨な長剣──に油を塗っていた。
他方、レイフは隅にあるぼろいソファに腰を掛ける。彼が
「ねえさん。かれははたらきものです。やすみならばきいてもよいとおもいます」
頁を一つめくり、彼は首を上げて言う。その拍子にわたしは手を滑らせ、剣の刃が左掌を掠めた。幸いにも傷は浅く、舐めれば治る程度だった。
「あ、ごめんなさい……」
「大丈夫だよ。わたしのうっかりだ。それよりなレイフ。お前の肌は赤子のようだから大事にしないと」
わたしはソファの下にあった箱から包帯を取り出し、左手に巻きながら窘めた。彼は本を下ろし、まんまるな瞳を向けてきた。
「ゆうがた、ちゃんときこんでからでかけてみましょう」
今度は寝惚ける子ネコのように膝に乗り、優しく頬を抓んできた。ほんのり冷えた肌が心地よい。そんな可愛いことをされたら、こちらの情が煽られてしまうではないか。結局幼気な人肌に負け、わたしは陰った森なら良いかとおとがいを下げることとなった。
かくて後日、我々は日が落ちきらぬ頃に出かける次第となった。わたしは昼過ぎからサンドイッチとショウガ湯を用意し、裏の小道から現れる自由ネコたちの食事も置いていった。この家には昔ネコが住んでいたためか、今も集会の場にされている。
道中の会話は実に他愛なかった。
例えば女性向け雑誌『イングリッシュ・ウーマンズ・ドメスティック・マガジン』に書かれているコルセットの文句。或いはレイフの母から譲られたルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』の感想。
あるいはイーゴリ先生の授業内容に古英語詩の暗誦など、ネコのおもちゃにもなりやしないものばかり。
ただ、枝を拾ったアカシアが走った時は肝を冷やした。
秋の終わりとはいえ湿った足元は急に我々の足を掴む。万が一尻をぶつけようものならば、しばらく一人で用を足せないだろう。ただそれも杞憂だったようで、滑りそうになったらなったで枝を支えに立っていた。
「なあ、聞いてくれよ。洗たく場でよく遊んでいるカモメみたいなでっかい鳥がいるけど、この間追っかけてみたら巣に魚とか紙屑がごみ箱みたいに詰まってんだ」
下らないセリフに相槌を打つと、彼の人差し指が頬に埋まった。肩に手を置いて、振り向くのを待っていたようだ。わたしは彼の手を退けてから、アザミやハルジオンを摘んでいく。少々ぼろいアサの籠にこんこん花が積もっていく。
レイフは辺りを見渡し、時々落ち葉を摘んで捨てている。彼の円い横顔を眺めると、素敵な退屈にまどろんでしまう。しかしここでは眠れぬと頭を振った際、木々の間ににわかに光を過る影を見た。わたしはレイフを抱いて誰何する。
「おばけではないですね」とレイフが言う。影は間もなく姿を見せた。
それはさながらガス灯の向こうにいるオオカミ。黒イヌを想わせるそれにわたしは数歩だけ歩み寄った。
ところがうっかり足を滑らせ、ついでにレイフを放してしまった。たった一瞬のことであったが、オオカミはトンボのようにレイフを捕らえた。白い首根っこに咥え、奴は光の奥へと去っていく。
わたしは咄嗟に追いかけたが、オオカミの足にはとても敵わず、毛むくじゃらの背はどんどん遠くなっていた。
足を掴む根を蹴って、わたしは声を張り上げた。
オオカミの行く先は、足音が手がかりになっている。
風を切って駆けた先、わたしは湖の辺へ飛び出した。オフィーリアがしずんだ河川のような、木の葉の浮いた湖であった。オオカミとレイフは、その底へ沈んでいた。
わたしは彼の名を叫びながら飛び込み、水面へと引き上げようと手を伸ばした。すると湖そのものが我が腕を引き、わたしは必死に抗った。
遮二無二に名を叫ぶと、レイフの声が聞こえた。わたしは彼の手を取った。湖は我々を引き摺りこみ、そのまま底へと導いていった。
にわかにくすんでいく景色の中、左手の包帯が抜け、赤い煙が水面へ昇っていた。
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