棚田の恋

北澤有司

第1話 週末

 社会人になって五年。恋人もいない良太は、週末になると小さめのリュックサックにデジタルカメラ一つ入れて、特にあてもなく出かける日々を送っていた。スマホでなくデジタルカメラなのは、何かのついでじゃない、ちょっと特別な存在としての写真を撮りたいからなのかもしれない。泊りで旅行できるほどの時間的余裕もなく、日帰りで行けるところまで電車で行き、ぶらぶら歩く。気が向いたら写真を撮り、家に帰ってパソコンに保存。よほどのことが無い限り、プリントアウトすることも無かった。プリントしても見せる相手もいないのがその理由かもしれない。それでも、良太は気に入った風景を写真に収められる場所を探して、毎週末、違う場所をさまよい歩いた。失敗したと思う時も、嬉しくなる風景に出会える日もあった。

 その週末も、良太は住んでいる街の駅から電車に乗った。最近は都心とは逆の方向に向かうことが多い。今日は終点一歩手前の駅まで行き、そこから徒歩で周辺を巡るつもりでいた。来週は終点まで、その次は接続しているローカル鉄道一駅目までと予定は続く。晩秋の紅葉の時期に赤く染まる山に足を延ばせるように、夏前から考えていた路順だった。とは言え、山があると思われる方向に向かうことだけは決まっているものの、どこにどんな山があるとか、紅葉スポットを調べたりすることはなかった。降りる駅だけは決めるものの、その先については足の向くに任せて考えない。予備知識なしで新鮮な印象を味わいたい。それが良太の求める気分だった。

「今日はどんな風景に会えるかな?」

秋色濃くなった今の時期、電車に揺られながら良太の心は少しばかり華やいでいた。小一時間電車に揺られ、予定通りの駅を降りた。改札を出ると、近いとも遠いとも言えない微妙な距離の所に、山肌を大きく削られた緑少ない山が見えた。

「そういえば、この辺りは石灰の産地なのだっけ?」

子供の頃に授業で習ったことをふと思い出して、良太はつぶやいた。空気が澄んでいて、街にいる時より日差しが強い気がする。高い建物がなく、空が広い。何気に大きく空気を吸い込んでから、良太は歩き出した。

「ちょっと待てよ」

立ち止まってつぶやく。昼飯を食べておくことにしよう。気ままに歩くのは楽しいけれど、うっかり何もない所に迷い込むと大変なことになる。危うく熱中症になるような経験をこの夏何度もして、食べる場所があるうちに食べておくことが習慣になりつつあった。駅前のラーメン屋で味噌ラーメンを頼む。炭水化物と塩分の補給が大事なのだ。コップの水をお替りしてのどを潤すと勘定を済ませて外に出た。正面の道は役場へ続くメインストリート、左の方がさびれた様子がある。良太は当然のように左に行こうとした。

『…』

ふと、誰かに呼び止められたような気がして良太は立ち止まった。振り返って見ても周囲には誰もいない。首を傾げつつ、良太は踵を返してメインストリートを行ってみることにした。住んでいる街より道幅がやや広く感じられた。両側に植わった木々から伸びる枝が、程よく日光を遮ってくれる。小さな町の取り立てて変わった所の無い舗装道路だ。立ち止まって見るようなものも無い。それでも良太は一人旅の気安さでいつものようにすたすた歩いて行った。役場を越え、大通りを渡り、いくつかの曲がりくねった道をひたすら進む。何もないなら引き返そうかと考えたその時、急に視界が広がった。眼前に緩やかな坂が空に向かって広がっている。山肌のようにも思えるものの、木は一本も生えていない。

「ん?」

良太は足を止めた。周囲の風景は明らかに田舎のそれだ。にもかかわらず、なぜか数十人の人が目に入った。麦わら帽子をかぶった女性が数人、座っておにぎりを食べていた。作業着を着た男の人達も背中に汗をかきつつ立ち話をしている。片手にペットボトル、もう一方の手には、やはりおにぎりがあり、時折ぱくついているのが遠目にわかる。段々に畦が築かれていて、黄金色に輝く稲穂が頭を垂れている。一つ一つの段が田んぼなのだ。太陽の方向からすると、この坂は真南を向いているようだ。目の前に広がった、日の光に輝く田んぼの連なりに圧倒されて、良太は茫然として立ち尽くした。

「こんな場所に棚田があるんだな」

棚田と言えば、日本海側の米の生産地として有名な地域に残っているくらいのものだと勝手に思い込んでいた。普段生活している場所からほんの少し足を延ばしただけで、観光旅行で訪れるような凄い風景に出会えたことに良太は驚いていた。よく見ると、畦道からカメラで撮影している人も何人かいる。棚田と稲刈りの風景は、写真の素材としては確かに一級品だ。敷地に入っても良さそうだと判断して、良太は棚田に向かった。人々がかたまって休憩している方に良太の足は自然と吸い寄せられた。色とりどりの日避け布のついた麦わら帽子をかむった女性達の集団だ。後ろから来た女性が一人、話の輪に加わるべく良太の脇をすり抜けていった。良太は声をかけた。

「すみません、中に入って写真撮っても良いですか?」

女性は振り返り、どうぞと返事を返した。

「田んぼの中には入らないでね。ぬかるんでいる所もあるから。あと、畦にはたまに蛇がいるから草ぼうぼうの場所は気をつけた方がいいよ」

そう注意してくれた後、軽く会釈をして女性は離れていった。良太は視線を畦道に戻した。

「蛇ね」

これだけ人が歩いているのだから大丈夫だと判断して、一番手前の畦道に足を踏み入れた。そのまま、中央の縦に伸びる一番太い畦道まで進む。そこは段々も無く、上まで真直ぐ続いている。草も綺麗に刈られていて歩きやすそうだ。歩いてみると見た目以上に急な坂で、普段運動をしない良太の息はすぐ上がった。近くから棚田を見ると色々細かい所に気がついた。中央の畦の両側には水が流れていて、さらさらと心地よい音がする。そこから横に伸びる水路には水が行かないように、板で仕切りがされている。土を乾かして稲刈りをしやすくしているのだろう。視線を田んぼの中に向けると年配の男性二人が手作業で稲を刈っているのが目に入った。

「鎌で稲を刈るなんて子供の頃でも見たこと無かったな」

子供の頃、良太の家の周りには田んぼがあった。しかし、ある時期を境に全て住宅地に代わってしまった。学校には友人が増えたが、冬の田んぼで駆け回ったり春にレンゲソウの蜜を味わう楽しみは、子供の遊びからすっかり姿を消してしまった。そんなわけで小学校を卒業する年には、米作りにまつわる農作業を見ることも無くなっていたのだった。面白い被写体が見つかったと、良太は男性達の方に足を向けた。横道の畦は草ぼうぼうだったが、気にせず進んで行く。すると、一人の男性が顔を上げた。

「草ぼうぼうのところは蛇が潜んでいるかもしれなから気を付けてくださいね」

また蛇の話だ。よほど出るのだろう。稲刈りで大変なのだろう。笑顔を伴った顔に大粒の汗が浮いている。

「写真撮らせていただけますか?」

良太は尋ねた。

「いいですよ」

二人の男性は稲に目を戻しながらも答えてくれた。良太はリュックサックからカメラを出して構えた。風にわずかに揺れる稲穂が見ていて心地よい。ファインダーを覗いて改めて、レンズの向こうに見える画像が普段よりくっきり輝いていることに気がついた。

「空気が澄んでいるんだな」

良太は足先で草むらに蛇がいないかどうか確かめた。何もいないことを確認すると安心してしゃがみ、稲を刈る二人にファインダーを向けた。そして時間をかけてゆっくりとシャッターを切っていった。ふと振り返ると、駅に来た時に気がついた石灰の山の全貌が目に入った。ちょうど太陽が山の真上に位置していた。まぶしい。棚田と山、素晴らしい被写体に良太の心は踊った。

その日、良太はその棚田を歩き回りながら写真を撮り続けた。作業をしている何人かと話をして、この棚田では希望者が参加できる米栽培教室が毎年開かれていることも知った。そのようにして午後三時を回った頃だった。最初に撮影を許可してくれた男性が良太に声をかけてきた。

「まだここにいるなら、少し手伝ってくれないかな?」

話を聞いてみると、小型の稲刈り機がうまく動かず、仕方なく手で刈っているとのことだった。

「このままだと日が暮れるまでに間に合わないから、ずっといるのなら手を貸してもらえると助かるんだけど」

男性は言った。やってみたいと思っていたところだったので、良太は二つ返事で引き受けた。最初に蛇の件で軽く話をしたことで、お互いに安心感があったようだ。何が幸運に繋がるかわからないものだと良太はほくそ笑んだ。履いているスニーカーを恐る恐る田んぼに降ろしてみる。思いのほか固い地面。泥まみれになる心配は無さそうだ。

「こんな体験ができるチャンスは滅多にない」

そう思ってやり始めたものの、実際に稲を刈ってみると足腰にかなりの負担があった。左で持てる分だけ稲を刈り、一杯になったら一本の稲で縛って男性に渡す。その作業の繰り返しだった。良太から稲を受け取った男性は女子高生のツインテールのように稲を二つに分けると、予め用意してあった稲架(はさ)という木組みに掛けていく。

「この作業を年配の男性二人でやり切るのは確かにしんどいよな」

良太はそう思った。三人作業になったおかげで、作業はその後小一時間で終わった。

「ありがとう、助かったよ」

畦に座って休んでいると、男性のうち一人が声をかけてきた。手にしていた水入りのペットボトルを良太に手渡してくれる。そしてなんと、今日採れたお米をお礼に送ってくれると言うのだ。嬉しい申し出に、良太はその男性に連絡先を伝えた。自分が収穫に関わったお米を食べられるなんてなかなか無い体験だ。良太の心中は期待に沸き立つのだった

「どのくらい収穫できるんですか?」

良太は男性に質問してみた。

「いやー、たいして獲れないよ。天然の肥料しかやらないし、ここは冷たい水を流しっぱなしにするから生育が遅いしね。ほら、みんな働いているから、土日にしか来られないだろう。流しっぱなしにしないと水が枯れたら困るからね」

「へー、そうなんですね」

「うん、まあ、一反当り二、三百キロってところかな」

男性はそう言った。

「三百キロですか?凄いですね!俺が一年に食べる米より多い気がするな」

驚いて良太が言うと男性は首を振った。

「プロの農家の半分くらいだよ。その程度獲れても作業の大変さから言ったら割に合わないね。皆、この棚田を守りたくてやっているだけさ」

「ああ、やっぱりそうですよね」

良太は相槌を打った。

「ただ、ここで獲れる米は上手いよ。味だけは期待してもらって良いからさ」

男性の笑顔から本音が伝わってきた。一反という単位も三百キロという収穫量も、実感がわかないまま、良太はただ頷いた。にこにこ笑いながら男性は離れて行った。予想外の労働に腰が痛かったものの、気分は悪くなかった。最後に一枚全景写真を撮って、良太は棚田を後にした。

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