暗い森

七生 雨巳

第1話







 深く暗い森の奥、堅固な結界に守られて、魔術師の住む館がある。


 しかし、森の外の村に暮らすひとびとには、結界があろうとなかろうと関係なかった。そこに住まう魔術師を恐れ、決して森には近づこうとしなかったからである。




※ ※ ※




 ――目覚めてはいけない。


 なぜ? やっと、彼に会えるのに。


 ――いけない。


 こんなにも会いたくてたまらないのに。なぜそんなにひどいことを言うんだ。


 ――おまえは、目覚めてはいけないモノなのだ。


 それしかことばを知らないモノマネ鳥が繰り返しているかのようなその声に、無条件に従ういわれなど、ない。


 ――ザンテ。


 恋人の名前を口にする。


 こんなにも会いたくてならないのに。


 愛しいものの名前を、味わうように、口にする。


 あなたに会えるなら、何をなくしてもかまわない。


 だから! 


 からみついてくるモノマネ鳥めいた声を必死になって振り払い、ようやく、メルローズは、長く重怠い眠りから目覚めたのだ。




※ ※ ※




「おそいな」


 魔術師の館である。


 落葉樹はすっかり葉を落とし、さらばえた骨めいた幹をさらしている。晩秋の空気に長いことあたっていたメルローズは、胴震いをした。


 窓の外を眺めながら独り語ちる。


 すらりと丈高い青年の足元に行儀よく腰を下ろした漆黒の大きな犬が、落日の朱を宿した欝金の瞳で彼を見上げる。細長い尾がゆるやかに揺れて床を叩く音が、静かな室内にかすかに響いていた。


 そのごく短毛のしなやかな毛並みを撫でながら、


「今日もひとりか」


 つぶやくのは、本人の意識しない悲しげな声だった。


 西の空は赤く、そう遠くなく夕闇が落ちてくるだろう。


 この館の主人である同居人のザンテは、用があるといって一昨日の朝早くに出かけていった。


 本当なら、昨日の夜には帰ってきているはずだった。


「今日も晩飯、あまっちまうな」


 愛犬を見下ろし、話しかける。


 家事一般をほぼ完璧にこなすことができるメルローズは、ザンテがいないからといって、留守中の食事などに困ることはない。彼が留守でもザンテの分を作ってしまうのは、いつ彼が戻ってきてもいいようにという心遣いだった。


 メルローズがザンテの帰宅を心待ちにするのは、彼の脳裏に刻まれている過去の情景が原因だった。


 過去の情景。


 それは、どことも知れない場所に、縛められている幼い彼自身の姿である。


 夜なのか、漆のような闇を照らすあまたの篝火がはためき、多くの人々が踊り狂っている。人々の影が闇を照らす篝火の中で長く短くゆらゆらと揺れる。


 それを、彼は、数段高い舞台の上から見ていた。


 それが、メルローズの物心ついて一番最初の記憶だった。


 泣くこともできず、本能的な恐怖に苛まれていた。


 殺されるのだ――――と、漠然と思っていたのを覚えている。


 ひとりぼっちで死んでゆく。


 あのひとたちの望みは自分の死なのだ。


 それは、ほんとうに、恐ろしくてならないことだった。でも、どんなに怖くてならなくても、つかれきった幼いからだには、泣く力すら残ってはいなかったのだ。


 そんな彼に、手を差し伸べてくれたのが、長い白銀の髪に欝金の瞳を持った男だった。


 詳細を覚えてはいない。


 思い出す必要はないと、ザンテはメルローズにささやいたのだ。


 そこまで思い出して、メルローズが小さく笑った。


(ずいぶんとでかくて怖く見えたんだがな………)


 しかし、ザンテと名乗った男は、あれから二十年近くが過ぎようというのに、少しも姿形が変わらない。


 今も、あのころの、ままだ。


 二十後半から三十代の男に見える。


「そりゃあ、あいつからしてみれば小さいだろうけど………けど、オレだって背は高い方に入るんだぞ」


 口にしたメルローズの頬が、朱に染まる。


 それは、時々、ザンテが彼をからかうネタであったからだ。


 三日前の夜にも、甘い睦言―――ピロウ・トークとして耳元でささやかれたザンテの声を思い出したのだった。


 思わず頭を振って追い払う。


 甘い記憶は、幸せであっても、落ち着かない。こう、尾てい骨のあたりがもぞもぞと、こそばゆくなるのだ。


 はぁ―――


 ため息がこぼれる。


 ピロウ・トークだとしても、からかわれていることに変わりはない。もとより反論ができないのだから、仕方はないのだが。


 なぜなら、二十二になってからもはずかしいことに、独りの夜が恐ろしくてならないのだ。


 ザンテが外出するだけでがらんと寒々しくなる館の空気や独り寝のベッドは、一番最初の記憶に自分を運んでいきそうで、まんじりともできない。


 今よりももっとその症状がひどかったころの幼いメルローズに、留守番の友としてザンテが与えてくれたのが、今傍らで彼を見上げている漆黒の犬だった。この犬がいるから、独りの夜も、眠ることができる。


「さてと、ヴィイ、戸締りを確認しに行くか」


 いくら堅固な結界に守られているとはいえ、戸締り用心は留守居の心得その一である。


 ザンテと同じ欝金の瞳を持った黒い犬は、優雅に立ち上がり、メルローズに従った。




※ ※ ※




 突然の目覚めだった。


 あたりは漆黒の闇に閉ざされている。


 背中が、ぞわりと、恐怖に震えた。


「ヴィ……」


 愛犬を呼ぶ声も、かすれてくる。


 ザンテが留守のときだけベッドに上がることが許されている黒い犬を、手で探る。


 探らなければならないこと自体が、既に、おかしい。ザンテ不在の夜はいつも、ヴィイはメルローズに寄り添って眠っていた。


 静かな夜。


 その奥になにかを潜めているかのような、暗い闇。


 やがて目は闇に慣れたものの、克服しきれないでいる過去の恐怖が、みぞおちによみがえってきた。


 震えるからだを両手で抱きしめ、メルローズは、ベッドを抜け出した。


 部屋のドアが開いている。


(部屋から出たんだ)


「ヴィイ?」


 喉が渇いたのだろうかと、ヴィイの餌と水とを常備しているキッチンに向かおうとしたメルローズの足が、ぴたりと止まった。


 悲鳴が聞こえたような気がしたのだ。


「っ」


 もう一度、今度は、より確かな音声だった。


「ヴィイ」


 何があったのだと、はやる鼓動にせかされるまま、メルローズは声のした方向に駆け出していた。


「!」


 ここだろうと目星をつけた部屋のドアを開け、壁のスイッチを探る。居間を人工の光が照らし出す。


 光に馴染んだ、メルローズの大きく見開かれた黒い瞳が映し出したものは、ソファとテーブルとがあるだけの、簡素なまでにもののない居間と、そこにいる五人の人間だった。


 手に手に物騒な得物を持っている男たちに、その場にこわばりつく。


 五対の目が、メルローズに向けられた。


 彼の姿に、男たちの両眼が大きく見開かれてゆく。


「黒だ」


「黒髪」


「黒瞳」


「象牙の肌」


「贄だ」


 男たちの言葉の意味がメルローズにはわからなかった。


 彼の意識はただひたすらに痛いくらいに侵入者たちに向けられていたからだ。しかし、その緊張がふと男たちから逸れたのは、彼により近い床の上に横たわっている、漆黒の毛並みを見出したからだった。


 むき出しの床板を濡らしているのは、ねっとりとした質感の、赤黒い液体。


「ヴィイ!」


 事切れているように見える愛犬の姿に、部屋の情景が、五人の不法侵入者たちのことが、頭から消えうせる。


「はなせっ」


 愛犬に駆け寄り抱き上げようとしたメルローズの腕を男が掴む。それと同じ男が手にするジャックナイフからしたたる赤い液体が、メルローズの目を射た。


「おまえがっ」


 殴りかかろうとして振り上げた腕は、背後から別の男にひねり上げられ、気がつけば、残る三人もメルローズを取り囲むように集まっていた。


 ささやき交わす男たちのぶしつけな視線に、メルローズの全身が鳥肌立つ。


「お宝はどこだ?」


 愛犬を殺しただろう正面の男の声に、メルローズは顔を背けた。


 何のことを言っているのか、わからないわけではなかったが、誰が脅されたくらいでしゃべるだろう。


 ザンテが森と館の周囲に二重に巡らせた結界を抜けてここに来ることができたからには、この中の幾人かは魔術師なのだろう。そうして彼らが求めるお宝といえば、まだ不完全な、エリクシル――賢者の石――に間違いない。


 以前、ザンテが見せてくれた、不思議な石を思い出す。


「賢者の石だ」


 黙りこんでいるメルローズに業を煮やしたのか、


「あるはずだ」


 パジャマの襟元を鷲掴んで、数度乱暴に振りまわす。


 詰まった息に咳き込み、


「知らない」


 それだけを押し出した。


「そんなはずはない」


「知らないものは、知らない」


 顔を背け目を閉じたメルローズは、頬にひやりとしたものを感じ、閉じていた目を開いた。


「なら、少々痛い目をみてもらおう」


 頬にあてられていたのは、血なまぐさい、ジャックナイフだった。




※ ※ ※




 この森のどこかにあるという館に、エリクシルがあるという噂は古くからあった。が、さすがに、夢物語とみなされるほどに創り出すのが不可能な賢者の石を作ったと噂される魔術師の棲み処すみかである。森に足を踏み入れたものたちは、リング・ワンデリングの罠にとらわれ、森を出ることも館にたどり着くこともかなわないままで、飢えて果てる運命にあった。


 ならば、なぜ、噂があるのか。


 それは、ザンテと名乗る男の故である。


 リング・ワンデリングの術がかけられているということは、この森に関係するものが、少なくとも魔術を心得ているということだ。


 踏み込んだものたちが出てくるのを目にしたものも、噂を聞いたものも、いはしない。にもかかわらず、いつごろから存在するのか、時折りなにがしかの用で森から里に出てくることのあるその男は、少しも年老いることがないというのだ。姿かたちが変わらない。その秘密を、ひとびとが、殊に魔術師たちが、賢者の石と結びつけて考えるのは、無理からぬことであったろう。


 そうして、幾十幾百もの野心家たちが、この森に踏み込んだ。


 しかし、館にたどり着けたものは、皆無であった。


 これまでは―――――






 獣じみた呼吸に、噛み殺しそこねた悲鳴が混じる。


 下卑た笑いと、異臭。


 血に酔った男たちが、饗宴を繰り広げる。


 供物は、ひとりの青年。

 

 むき出しの床板の上では、黒い犬から流れ出した血にまみれて、黒い髪と瞳の青年が、血に酔った男たちに蹂躙されていた。

 

 青年の滑らかな白い肌には、いくつもの、決して浅くはない傷が穿たれ、赤黒い液体を流しつづけている。少なからぬ量の血が、青年のからだから、失われていた。


 青年――メルローズは、朦朧とした意識の中で、ただ恋人の面影を追っていた。もはや何をされているのか、凄まじいばかりの熱と寒さとにかわるがわる襲われ、理解してはいなかった。


 力なく横を向くメルローズの白くかすんだ視界には、恋しい、欝金のまなざしがある。――それは、彼の愛犬の瞳であったが、もはや、メルローズには区別がつかなくなっていた。


 自分を穿つ灼熱が、その瞳の持ち主のものであるのだと、縋りつくようにただ、光をなくした欝金のまなざしを見つめつづけていたのである。




※ ※ ※




 ザンテが帰宅したのは、館を出てから四日目の朝であった。


 森に一歩足を踏み入れるなり、背筋がざわりと粟立つ。


(空気が、違う。破るものがいたのか)


 ぺろりと、赤い舌がくちびるを、舐め湿した。


 きな臭いとでも表現するしかないような、不穏な空気が森に充満している。


 それは、足を速めたザンテが館に近づくにつれて強烈になっていった。


 館周辺の結界が一部わずかに綻びていることに気づいたザンテは、欝金の瞳をゆるりと閉じた。


 一刹那の後まぶたを開いた時、そこには、縦長の瞳孔の、ひとならざる証の瞳があった。






「メルローズ!」


 血の匂いをたどったザンテの足が、らしくもなく、開け放たれたままのドアのところで、止まった。


 割れた窓ガラス、裂かれたカーテン、叩き割られたソファとテーブル。


 簡素ではあったが居心地の良かった居間の面影はない。


 足が動かない。


 目の前の光景が信じられないのだ。


 朝の、昨日の出来事をすべて洗い流したかのように、すがすがしい陽光に照らし出されて、そこに横たわっている、もの。


 どうして、信じることができるだろう。


 たとえ、たしかに、今、目の前にあるものだとしても。


 意識が、それを認めまいとして、黒い犬の骸に向かう。


「メルが悲しむ」


 そのメルローズはといえば、ヴィイから少し離れた場所で、既に息をしてはいない。


 それを見ることもできず、カッと見開いたままの自分のに似た欝金の瞳を閉ざしてやり、ザンテは、現実を拒むかのように、その場に佇みつづけた。




※ ※ ※




 寒くて寒くてならなかった。


 メルローズ―――


 遠く近く、自分を呼ぶ声がする。


 それは、恋しいひとの、声だ。


 額を撫でる、乾いた掌。


 ああ――


 心の奥深いところに芽吹いたのは、これ以上ない歓喜だった。


 大好きなひと―――


 しかし、この寒さは、なぜなのだろう。


 うれしさの裏側に寄り添っている、苦痛は。


 目覚めてはいけないと、ささやきつづける何者かの声が聞こえる。


 おまえは、目覚めてはいけないものなのだ―――――と。


 どうして?


 当然の疑問。


 しかし、それに答えてくれるものは、いない。


 ただ禁止だけを口にしつづける姿のないものに、うれしさに水をさしてくれたことに対する反発ばかりが、わだかまってゆく。




 ――目覚めてはいけない。


 なぜ? やっと、彼に会えるのに。


 ――いけない。


 こんなにも会いたくてたまらないのに。なぜそんなにひどいことを言うんだ。


 ――おまえは、目覚めてはいけないモノなのだ。


 それしかことばを知らない、モノマネ鳥が繰り返しているかのようなその声に、無条件に従ういわれなど、ない。


 ――ザンテ。


 恋人の名前を口にする。


 こんなにも会いたくてならないのに。


 愛しいものの名前を味わうように、口にする。


 あなたに会えるなら、何をなくしてもかまわない。


 だから! 


 からみついてくるモノマネ鳥めいた声を必死になって振り払い、ようやく、メルローズは、長く重怠い眠りから目覚めたのだった。




※ ※ ※

 



 ザンテの、少し神経質そうな白皙の顔が目の前にあった。


 金色の瞳に縦長の瞳孔を持つ、白銀の髪の魔術師。


 伸ばされた白い指先が、メルローズの目元を拭い、


「どうした?」


と、問う。


 泣いているつもりなどなかったメルローズの白い頬が、朱に染まる。


「よかった」


 そう独り語ちると、ザンテは静かに立ち上がり、メルローズに背を向けた。


「待っ」


 押し出すようにしてかけた声はかすれて、最後まで発声することができなかった。

 

 手を伸ばそうとして、できなかった。


 慌てたメルローズは起き上がろうとして、全身の痛みに呻いた。


(なんだ――これ)


 何日も眠りつづけて筋力が衰えたような、力のはいらなさに目を剥いた。自分のからだが、自分のものではないかのように、頼りない。


 起き上がることもできない。


 ようやくのことで上半身を捻ることに成功したが、逆に勢いがつきすぎた。


 ずるりとベッドから上半身を落としかけたメルローズに気づいたザンテが、引き返してきた。メルローズの体勢を寝よいように整え、上掛けを顎の下まで引き上げてやる。


「焦るな。おまえは一ト月近く病気で寝たり起きたりしていたんだ」


 記憶にないことに小首を傾げたメルローズの黒い瞳を覗き込み、ひとが悪そうな笑顔を見せる。


「どうした。なにも覚えてないのか? おまえの名は? 私のことは?」


「ザ………ザンテ」


 こみあげてくる熱いかたまりが喉元にわだかまって、声がますますかすれる。


 滂沱と流れる涙に視界はかすみ、恋しくてならない欝金の瞳が宿しているだろう、皮肉げな光を見ることができない。


 ザンテがメルローズの髪を優しく撫でた。




※ ※ ※




 病気でダウンしていたという間の記憶は、メルローズにはない。


 いつ、何の病気にかかったのかも覚えてはいなかった。


 ザンテに訊いても、どうでもいいことだ――と、教えてはくれない。


 何の病気だったのか知りたいと拘るのは、あれから十日が過ぎたというのに、日々酷くなってゆく気持ち悪さのせいだった。


 何を食べても空腹がおさまらない。吐き気がして、喉が渇いてならなかった。


 ――おかしい。


 心配をかけてしまいそうだったから、こんなこと、ザンテに相談などできない。


 心配をかけてしまいそうだったから、いつもと変わりのない生活をつづけるので精一杯だった。


 しかし、日光が煩わしく感じられてならないのだ。からだが怠くてならないのだ。


 日の光が辛くて、居間よりも書斎で一日を過ごすようになっていた。


 薄暗く埃っぽい書斎で、足を投げ出すだらしない格好で、ソファの足に背を持たせかけていた。


 音もなくドアが開き、黒い愛犬がメルローズに近づいた。


 爪が床に当たる音を響かせて、傍らに来たヴィイは、彼に寄り添うように腰を落とした。


 ぺロリ――と、口を舐められ、鼓動がひとつ大きく刻まれた。


 堰を不意に切られたような心臓の脈動の激しさにもかかわらず、血が下がってゆく。


 床がたわむ。


 目が回る。


 全身が冷たくなり、小刻みな震えがおさまらない。


 ――ホシイ。


 頭の中を占める渇望と飢餓とに、片隅にかろうじて貼りついていた理性が警鐘を鳴らす。


 ――ダメだ。


 欝金の一対が、目の前にある。


 見上げてくるまなざしに、くるくると心の奥底からよみがえる記憶。


「あ……あ…………」


 震えるくちびるからこぼれ落ちるのは、苦痛の響きをはらんだ、単音ばかりだった。しかし、やがて、抑えきれなくなった。えづくような苦鳴は、喉が裂けんばかりの悲鳴となって、メルローズからほとばしったのだ。




 ザンテが、館中に響いた絶叫に駆けつけたとき、書斎は血の海だった。


 むっと鼻腔を射る血と内臓の匂い。普通の神経の人間なら耳をふさぐだろう、ぴちゃぴちゃと汁気に溢れた生肉が咀嚼されている音が、ザンテの耳に届く。


 引き裂かれたメルローズの愛犬ヴィイが、臓物を喰らわれている最中だった。


「メルローズ」


 恐怖も驚愕もない落ち着きはらったザンテの声に、ドアに背中を向けていたメルローズが振り返った。


 薄闇の中、血にまみれたメルローズが、ヴィイのものだろう肉を咥えている。


 そんな、背筋が逆毛立つ(そそけだつ)ような光景にも、


「それでは、腹が膨れまい。こっちへこい」


 穏やかな声で、手さえ差し伸べる。


 理性をなくしているだろう、闇で光る一対のまなざしが、ザンテのことばを理解するためにか、かすかに眇められた。


「おまえが一番ほしいものなら用意してある。さあ」


 厭な音をたてて、咥えられていた肉が床に落ちる。


 ゆらりと立ち上がったメルローズは、差し伸べられた手を取り、ザンテに導かれるままに、進んでいった。




 地下の研究室の奥に黒い鉄の扉がある。


 ザンテはその扉の前に、メルローズをいざなった。


 扉を開けると、異臭がつんと鼻を突く。


 赤レンガ造りの部屋の壁ぎわに、なにかがいる。


 音もなく蝋燭に火がともり、うすぼんやりとしたオレンジの光が部屋を照らし出した。


 ガチャリと、金属がぶつかる音がする。


 ウウウと、獣のもののような声。


 壁から伸びた短い鉄の鎖に繋がれているのは、四人の男だった。


 垢染みて汚い男たちの目は、どれもこれも恐怖に見開かれている。


「そこで待っていろ」


 極限まで開かれた四対の瞳がザンテとメルローズとを交互に見やり、いやいやと首を振る。


 床の上に、なにも縛めていない、一揃いの鎖が黒い蛇のようにとぐろを巻いている。それを邪魔そうに足蹴にし、ザンテは四人の男たちを吟味しはじめた。


「メルローズ、どれがいい?」


 ガチャン!


 ひときわ大きな音がして、男たちがいっせいに後退あとじさる。


 流す涙が、冷たい汗が、頬に額に縞を描く。


 喉に巻きつけられている拘束具が、男たちの口からことばを奪っていた。


 血まみれのメルローズは、小首を傾げて、ザンテを、ついで男たちに視線を向けた。


「これか? それとも、あれか? ちがうのか? ああ、わかった」


 軽やかな足取りで、哀れな男に近づき、


「これだな」


 確認を取る。


 にっこりと、メルローズが、笑った。


 もがく男の目を覗き込み、


「逃がしはしない。逃げられない。私の宝物を壊した罪は、その身で償ってもらう。前の男のように、あっという間に死なないでほしいな。もっとも、死ねないが。覚悟しておいたほうがいいだろう。今のメルローズは、ヴィイを喰らっていた後ということもあって、少しは、空腹がおさまっている」


 噛みつこうとする男に、


「狂うのもなしだ。メルローズが最後のひとかけらまでおまえを食べきるまで、死ぬことも狂うこともできないようにしてやろう。何日かかるだろう。前の男は、まだしも、幸福だった。私の呪いを受けることなくすぐに首の骨を折られたのだからな。おまえは、自分の不幸を呪え。できるのはそれだけだ。おまえたちは、それだけの罪を犯したのだ。わかっているだろう」


 冷ややかな声で、歌うように告げるのは、美しい男の姿をした、ひととは別種のいきものなのに違いなかった。



 

※ ※ ※




 鳥のさえずりに目覚めた。


 目覚めかたとしては、最上級だろう。


 全身が軽い。空でも飛べそうだ。あれだけ怠くてならなかったのが嘘のようだった。


 いつ眠ったのかも記憶になかったが、この爽快感の前では、なにほどのことではない。


 既に起き出したのか、昨夜を徹夜で過ごしたのか、ザンテはベッドにいなかった。


 彼と一緒に美味しい朝食を摂ろうと、メルローズは勢いをつけて上半身を起こした。


 カーテンを開けると、すがすがしい朝の陽の光が、ガラス越しに入り込んでくる。窓を開けて換気をすませると、メルローズはキッチンに向かったのだ。


 テーブルの上に、サラダとベーコンエッグ、スープ、色とりどりの果物などの、メニュウが並べられた。


「よし」


 かるくたたんだエプロンを椅子の背にかけて、おそらくは地下にいるだろうザンテを呼ぶために、キッチンを出た。


 その部屋の前を通り過ぎようとしたときだった。


 突然の悪寒におそわれたのだ。


 足がぴたりと止まる。


 動悸が激しくなり、脂汗がしとどに全身を濡らす。


 なにが起きているのか、わからない。


(なんだ………。このドア……書斎?)


 くらくらと今にも膝を折ってしまいそうだった。


 肩で息をつきながら、かすむ瞳で、ドアをにらみつける。


 自分に襲い掛かっている、この不快感の正体を知らなければならない。そんな、なんともいえない強迫観念が襲い掛かってきたのだ。


 恐怖と罪悪感とがないまぜになったかのような、壮絶なプレッシャーである。それをどうにかして追い払いたくて、そのためには、正体を知らなければならないと、メルローズは、内心の葛藤に震える手でドアノブを握り、やっとのことでまわした



 そうして―――――




 足元の床が抜けたような錯覚があった。


 ――おまえは、目覚めてはいけないモノなのだ。


 殷々と直接脳の奥にこだまする、いつか聞いたのと同じ、彼を否定する声。

 耳を塞いでも声は消えず、目を瞑ろうとして、叶わなかった。


 見えないなにものかに無理やりこじ開けられたかのような視界の中にいるのは―――


(あれは、オレだ。いったい、なにをしているんだ)


 薄暗い室内で床にしゃがみこんだ自分の丸めた背中を凝視しつづける。と、突然振り返ったその顔は――――その口に咥えているものは―――――


 !


 ―――――――そうして、メルローズは、すべてを悟ったのだった。




※ ※ ※




 地下室のドアが開く音に、視線を泳がせる。


「メル。起きたのか」


 フラスコやビーカーなどさまざまな実験器具の並んだ部屋である。


「ザ……ザンテ」


 しわがれた声が、落ちて砕けた。


「思い出したのか」


 肩をすくめ手を広げて見せるザンテの前の、大きな実験用の机が、目に飛び込む。べっとりと固まりかけた血に濡れて張りついた短毛の黒犬の腹部は引き裂かれ、骨と脂肪と肉とがぬめっている。


「もう少し眠っていれば、ヴィイもいつもどおりになったのだが」


 ぐらぐらと揺らぐ世界に、堪えきれず膝をつく。


 そんなメルローズの背中を、ザンテがさすった。


「ああ、体力が落ちてしまう。今は調子がいいかもしれないが、じきにまた辛くなる。だから、先に上に戻っていろ。私はヴィイを元通りにしてからいく」


 踵を返しかけたザンテの手を掴み、


「やめてくれ」


 うなだれ、懇願する。


「やめてくれ。もう、ヴィイをよみがえらせるのも………」


 しゃがみこんだザンテの手が、メルローズの顎にかけられる。


 うつろな黒い瞳を、欝金のまなざしが覗き込んだ。


「なぜだ?」


「もう――あんなこと、いやだ」


「あんなこと? ああ、ヴィイを食べたことか。それとも、おまえを殺した男を喰らったことか?」


 隠すことも躊躇することもなく、ザンテが真実を口にする。それに怯みそうになる己を叱咤しながら、


「どっちも―――。………あんな、あんなことをっ」


 口の中によみがえる血と肉との感触に、からえづきがこみ上げてくる。


「ヴィイがいないと困るのはおまえだろう。それに、あの男たちは、おまえを壊して殺した。私がどんなに悲しかったか、おまえにはわからないのか?」


「でも、エリクシルを使ってまで――あれは、不完全だって」


「私は、おまえだけは、なにがあっても失いたくない。失うつもりも、ないな。そこに可能性が転がっているのだ。使って、なにが悪い」


 ことばもなく、メルローズは、饒舌になった恋人を見やる。


「まぁ、さすがに不完全なものだから、不安だった。だから、最初にヴィイで試してみた。うまくいったと思った。だから、おまえを生き返らせた。見た目は完璧だったのだが――――、おまえは、月齢に影響を受ける。月が欠けるにしたがって、ひとの肉を求めるようになる。だから、私は、おまえを傷つけたものを探し出して、おまえに与えることにした。当然の報いだな」


「そんな………」


 ふいに、疑問がわきあがった。


「…………男は、あと、三人いた。けど」


「そうだ」


 ザンテが、クスリと、笑う。


「オレが……三人が死んだ後は」


「そんなこと。おまえが気にすることじゃない。人間などいくらでもいる」


 物騒なせりふをけろりと吐いた最愛の恋人を、メルローズはただ見つめつづける。


「大丈夫だ、メルローズ。おまえが心配することはなにもない」


 そう言うと、ザンテは、メルローズにくちづけたのだった。


「おまえに、こんなところは似合わない。上に戻っていろ」


 ひとを喰らう食人鬼となり果てた自分を見て、なぜそんな睦言めいたささやきを口にできるのか。


 甘いことばは、今の自分に向けられているのではないのだ。


 それは、きっと、殺される前の自分にだけ向けられているのに違いない。


 階段を上るメルローズの足取りは、鉛よりも重いものだった。




※ ※ ※




「またか――――」


 足元に横たわるメルローズを見下ろして、ザンテは独り語ちた。


 キッチンの床には、包丁が転がっている。


 よみがえったヴィイが、血の気のうせたメルローズの顔を舐めるが、既にこときれているメルローズが愛犬に答えることは、もはやない。


 じわじわと床を侵食してゆくのは、掻き切られた首から流れる血液である。


「勝手なことを。私は、おまえが生きてそこにいさえすれば、それでいい。なぜ、それがわからない」


 抱き上げた恋人をかきくどいても、愛しいものには、もう届かない。




 沈黙が、キッチンに降りつもってゆく。




 どれくらいの間、身じろぐことすら忘れて恋人を抱きつづけていただろう。


 次にザンテが顔を上げたとき、彼の欝金のまなざしには、とろりと暗い熱が宿っていた。

 

「おまえが幾度死を選ぼうと、たとえ死こそがおまえの安らぎだとしても、私がおまえをここに引きずり戻してやろう」


 軋る声でつぶやいたザンテは、メルローズを抱いたままで立ち上がり、地下へと引き返していったのである。


 足元には、黒い犬が、従っていた。




※ ※ ※




 ――目覚めてはいけない。


 なぜ? やっと、彼に会えるのに。


 ――いけない。


 こんなにも会いたくてたまらないのに。なぜそんなにひどいことを言うんだ。


 ――おまえは、目覚めてはいけないモノなのだ。


 それしかことばを知らない、モノマネ鳥が繰り返しているかのようなその声に、無条件に従ういわれなど、ない。


 ――ザンテ。


 恋人の名前を口にする。


 こんなにも会いたくてならないのに。


 愛しいものの名前を、味わうように、口にする。


 あなたに会えるなら、何をなくしてもかまわない。


 だから! 


 からみついてくるモノマネ鳥めいた声を必死になって振り払い、ようやく、メルローズは、長く重怠い眠りから目覚めたのだった。

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