第5話 呼び出し
深夜零時を過ぎ、辺りは暗闇に包まれている。
カイルの私室にはウォールナットカラーの重厚な造りのデスクがあり、その卓上には火を灯す一本の蝋燭が置かれていた。
時折、黄色ともオレンジ色ともつかないその炎がゆらゆらと揺らぐ。
その原因は、時折部屋に入る隙間風ではなかった。
カタカタ……カタカタ……
微かに揺れ動くガラスの小瓶が、小さな音を立てる。
蝋燭の傍に置かれたその小瓶には、人外の者が閉じ込められていた。
その頭の左右にはねじれた角が生え、瞳はキリキリと釣り上がり、瞳孔は紅く、角膜は金色、結膜は闇を表わすかのような黒。
小瓶の中の者が持つ特徴は、魔族と呼ばれる一族のものだった。
その魔族の放つ力が、蝋燭の炎が時折揺れる原因だ。
カイルは細長い人差し指で小瓶を揺らしながら、碧色の瞳を細めて閉じ込められている小さな魔族を見つめている。
「……狭くて悪いけど、少しの間我慢しておくれ」
カイルはゆったりとした口調で、瓶の中の魔族に言う。
小瓶の中の魔族は為す術もなく、やがて動くのをやめ観念したように天を眺めた。
そして後悔するように、脳裏に捕らえられた時の光景を思い浮かべる。
強力な魔法陣に引っ張り出され、誰がこんなことをと驚き気がついた時には、既に小瓶の中だった。
「主を呼べ」
術者である碧眼の男は、ただ一言だけを短く命じた。
通常、魔族や妖魔、アヤカシなど魔の領域に棲む者達と取引をする時は、等価交換が原則だ。
望みを叶える代わりに、報酬を得る。
ところがこの男の場合は、取引ではなく脅しだった。
この男は、神だ。
神という超越した存在でありながら、自ら下界に降り人に紛れて生きている。
その存在は、魔族間でも有名だった。
しまったと後悔しても、もうどうにもならなかった。
この男の目的が自分ではなく、自分が忠誠を誓う主にあるのはわかっていたし、やすやすとこの男の命令に従いたくはなかった。
だから、無駄だろうとは思ったができる限りの抵抗をしてみたのだ。
しかし、それは予想通り全く無意味だった。
「君が主を呼ばないなら、他の子を捕らえるからね」
金髪碧眼の男はさらに追い打ちをかける。
このままなにもせず、小瓶にいようかと考えていた魔族の男はうなだれ、深いため息を吐いた。
主よ、どうかお許しを……
魔族の男は諦めと嘆きの表情を浮かべ、主である上位の魔物に救難信号を送る。
後ほど、主からこっぴどく叱られるだろう。しかし今回は相手が悪すぎる。
静寂の中、壁にかけられた時計のカチコチという音だけが響いた。
カイルはゆっくりと椅子から立ち上がり、窓から見える夜空を見上げた。
新月の細い月が、流れる雲に覆われていく。
その瞬間、デスクの上の短くなった蝋燭の灯りがふっと消えた。
黒い芯から流れる細長い煙が、床に描かれている魔法陣に引き寄せられるように流れ渦巻いていく。
「……来たね……」
穏やかな笑みを浮かべ、カイルは床に描いた魔法陣が赤い炎をあげるのを見つめた。
その中央に人影が現れたのを確認すると、カイルは消えてしまった蠟燭に再び火を灯す。
そのゆらめくオレンジ色の光の中に、魔法陣に立つ人物の姿が浮かび上がった。
銀色の整えられた髪。銀縁の眼鏡。嫌味のない、白い口髭。
その瞳の色は、ブルーグレーだ。
執事服に身を包んだその初老の男は、一見よい家柄の屋敷に仕える執事に見えた。
だがその鋭い眼光は、執事より戦士という言葉がぴったりだった。
初老の男は、無言で卓上の小瓶を見る。
その視線に同情や憐れみの空気は皆無だ。
小瓶の中の魔物は、主から向けられたそれに震え上がった。
部下のその様を見た初老の男は小さくため息を吐き、金髪碧眼の男カイルに向き直った。
「……これはいったい、どういうおつもりですかな?」
低い声音で、初老の男は問う。
「悪いね……人質をとるなんて卑劣なマネ、本当はしたくなかったんだけどね……だけど、こうでもしないとあなたは来てくれないでしょう?」
カイルは鋭い視線を投げてくる初老の男に、にこりと微笑みかけた。
「あなたは、魔王が一番信頼を置いている側近だ……そして、彼の大事な一人娘のお守り役でもある。私があなたを呼び出したのは、他でもない。そのお姫様がいかがお過ごしなのか、それを聞きたかった」
カイルの通る声が静まり返る空気を震わせる。
それは昼間ルイに向けたような明るいものではない。淡々としたものだ。
「……リアン様とは、面識が?」
少しの間の後、初老の男が口を開く。
その眼鏡の奥の眼光はずっと鋭いままだ。
だがカイルは、そんな視線を向けられても少しも動じていない。
「一度だけね。天上に棲む者でありながら、人間に紛れて生きることを選んだ変わり者を、その目でご覧になりたかったらしくてね。わざわざ会いに来てくれたのさ」
その時の事を、カイルは思い出す。
美しい漆黒の、真っ直ぐな長い髪。見るものを惑わす、魅力あふれる大きな黒い双眸。
人を惑わせるのは、彼女の顔の造りだけではない。その身の内から滲み出るなにかもが、人を惹きつけてやまない。
その様に、さすがは魔王の愛を一身に受けて育った一人娘だと、カイルは感嘆していた。
「あの時、彼女は既に人間に恋をしていた。だからこそ、私に興味が湧いたんだろうね」
キィ、とカイルが腰掛けている椅子の軋む音が部屋に響く。
「神なんてものをやっているとね、色んな噂話が耳に入ってくるのさ……例えば、魔王の娘が人間と夫婦になり、王位継承権を放棄した、とかね」
魔王が、とカイルは続ける。
「どうしても跡を継がせたかったはずの姫君のワガママを受け入れたのは何故なのか……受け入れても構わないと思わせる、代替え案を父王が呑んだからではないか……例えば」
カイルはそこまで言うと、ふと真顔になった。
「孫に跡をつがせる、とかね」
「……くだらない憶測は、やめて頂きたい」
初老の男の冷たい声音がカイルに向けて放たれる。
ゆらゆらと、蠟燭の炎が揺れた。
初老の男から漏れ出た力の圧を受けているのだ。
「……くだらない憶測ついでだけれど、私は今ルイという名の男の子を手元に置いている。高貴な魔族の血をひいた、人間との混血の子でね」
カイルは目を細めて蝋燭の揺らぐ炎を見、次いで無表情を貫く初老の男を見つめる。
「そちらの姫君に、瓜二つだ」
蠟燭の炎が大きく揺れた。
「……それは、他人の空似というものでしょう……我が一族の血筋がどこかに飛び火していようが、こちらは一切把握していない」
銀縁の眼鏡の奥で、ブルーグレーの瞳がぎらりと光った。
「……確かに、腑に落ちない点はある。万が一姫君になにかあったとしたら、父王はまず黙っちゃいないはずだからね。だが、その手の噂話は私の耳に入っていない」
にこっとカイルは笑った。
「なにか、裏工作でもしているのかな?」
「……私はもう、あなたの質問に答えた。私の不出来な部下を返してもらおう」
初老の男は有無を言わさぬ口調で言い切った。
「そうだね……いいよ」
カイルは椅子から立ち上がり、蠟燭の横の小瓶を男に向かって放り投げる。
男はそれを受け取ると、くるりとカイルに背を向けた。
「子供の顔を、見ていかないのかい?」
その背に、カイルは問いかける。
「……必要のないことをしている程、こちらは暇ではない」
低く呟き、初老の男は姿を消した。
後に残ったのは、効力を失った魔法陣のみだ。
その線をなぞりながら、カイルは思い出す。
楽しそうに瞳をきらきらさせながら、想いを寄せる人間の魅力を語る、魔王の一人娘リアンの事を。
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