電気羊は女神降臨の夢を見るか?

夢美瑠瑠

電気羊は女神降臨の夢を見るか?


 村上春樹氏の「羊をめぐる冒険」を初めて読んだときには、僕はちょっと変わった寓話で、何だか面白い話、と思っただけだった。

 そのあとに村上氏の小説をいろいろと読み漁って、独特のムードや文体に、何というか、惑溺するような完全に同一化させられるような「ハマり」方をして、しかしいろいろな比喩や表現は単なるレトリックとか言葉の綾とか筆のすさびとか基本的に無意味なものと捉えていた。「羊男」とか    とか、幻想的なイメージやキャラクターも、都会の街角のキラキラした陳列棚の中のいろいろな珍しいおもちゃとかを眺めているというような感覚だけだった。


 その後にある時にふと、そうした様々な比喩やイメージがなんだか奇妙な意味を孕んでいるように思えてきた。

 「ネバーエンディングストーリー」という映画の中で、主人公の男の子が図書館の物置に隠れて本を読んでいて、なぜかその本の主人公が自分自身に代わっていることに気づいて愕然とする、という場面があるが、そういう一種のコペルニクス的な?転換が突然起こり、…つまりこの小説の中のあれこれの「よく意味が分からない部分」がことごとくこの私、ごく平凡なその他大勢であるはずの自分という人物に向けてのアイロニカルな当てこすりというか言及、そういうものに思えてきたのだ。

 被害妄想、関係妄想、オブセッション、そうしたものはわかりにくい構造をなしていて、意味とかコミュニケーションとかに宿命的に纏わりついてこざるを得ず、誤解や錯誤、錯覚、精神分析的な意味の投影とか投射とかそうしたものを人間の意識から完全に捨象するのは困難で、カジュアルなデリケートな現象だろう。

 「ノストラダムスの大予言」というのが流行ったときに、「怖いよね~世界の終わりが本当に来るのかな?」とか姉と騒いでいたら、親たちが「私らは大人やから分かるけど、こういうものは何とでも受け取れるように書いているだけやで」ときっぱり言われたことがあった。そうだかどうかはともかく、言葉というものにそういう曖昧さがあるのは事実である。その時の状況による文脈効果もある。

 が、その発見を皮切りに、そうしたオブセッション風の「私への言及」と思われる様々な痕跡や証拠が、堰を切ったように、枚挙にいとまがないという感じに次々と現れだしたのである…


 これはつまりありふれた妄想の病の「発病」なのだろうか?


<この項続く>




























 

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