真昼間の報せ

 そのしらせが届いたのは真昼間だった。

 皆ざわざわとし、浮光の懐妊を嬉しく思い、泣く。

 それは良いのだろう。

 だが、志遠は違う。

 悔しいのも腹が立つのも違う。

 悲しいから泣くのだ。

 浮光は顔色一つ変わることなく、陛下に全てを許した。

 そうして出来たのは未来への良い兆し。

 それと同時に志遠はそれらを全て失う。

 あの衝撃は何だったのか?

 今生ももうこれでおしまいだ。

 一人になれる所を探し、歩き回り、行き着いたのは本当に静かな鬱蒼うっそうとしている鳥も居ないような場所だった。

「ここなら良いか……」

 そう呟いたのと同時に自分でも驚くほどに涙が勝手にぽろぽろと流れて落ちて来た。

 おかしい……と志遠が思ってもその涙は止まらない。

 次第に鼻水まで出て来た。

 嗚咽まで?! ――驚きだった。そこまでだとは自分の心の叫びが勝手に出て来ているのだろう。いくら待ってももう来ないような恋を、愛を待つのはやめるべきなのにそうできない。これは違えられない契りか? どうして仲を引き裂かれたのかさえ、もう忘れてしまったというのに。その出会いだけは期待しているとか。

 こんな所を誰かに見られたら最悪だ……と思いつつ、志遠は自然にそれが止まるまでそうしているつもりだった。

 あとは何して暮らそうか?

 前世の記憶では寂しさを紛らわす為か一匹の猫を飼っていたように思う。

 雄か雌かは関係なく、とぼとぼと後ろを付いて来るようになり、餌をくれとねだるようになり、懐いたので仕方なく飼うようになったその猫の色を思い出そうとすると何故だかあの食に走り過ぎる宮女、春鈴が思い出された。

 いや、違うだろう。春鈴がそんな猫の生まれ変わりなわけがない。

 それに可愛い猫ではなかったはずだ。普通の一般的なよく居る猫だったはず。

 しばらくして、近くに小さな湖があるのに気付いた。

 その水面を遠くから眺めていると今の自分の泣き顔を見ろと言われているような気がした。

 きっと酷い顔だろう。女々しいと笑われるくらいにはずたぼろだった。

 それでもその水面を見る為に座り込んでいた足を立たせ歩いた。

 そうしていると少しばかり気が休んで来た。

 どうしてそんな水面を見たかったのか、分かったような気がする。

 その時が来たら浮光はその名から湖妃こひと呼ばれるはずだからだ。

 その彼女を思うと、また泣けて来る。

 どのくらい泣けば良いのか……と困っていると、何だかカサカサという音がした。

 何かの動物か? と思い、振り向いてみれば、うわ! と驚いた声を出した宮女が居た。

「しゅんりん?」

 何故、こんな所に彼女が居るのか分からない。

「どうなされたのです?」

 さっと人の顔を見て言うことか。

「それはこっちの言い分だ。ここはお前の居場所なのか?」

「いいえ、私はずっと志遠様を探していたのです。謝らなければいけない事があって」

「何だ?」

 涙はいつの間にか引っ込んでいた。宦官になるからだろうか。感情は無意味だ。仕事をしよう。

「その顔は、何とも言えませんね……。私、また後で永庭宮の方に行きますね」

 そう言って引き返そうとする彼女に志遠は言ってやる。

「そんな気を遣わなくて良い。これは、嬉し涙だ」

「え? そうなのですか?」

 きょとんとする彼女を見て、あまり説得力がないのか? と思ったが、構わず志遠は春鈴に促す。

「言え」

「はい、先日の事で波妃様に怒られたので謝りに来たのです。私は志遠様にまるで波妃様が陛下に会えるようにして下さいみたいなことを言ってしまったので、図々しい奴だと思われたに違いない! ああ! あなた、少しは反省して外に出ないでちょうだい! 等と申されまして……」

「それで、わざわざ?」

「はい。人に訊けば、こちらの方に行ったと言うので、聞いた通りに来たら、ここに着いたのでございます。どうか! 波妃様を卑しいだとか思わないで下さいませ! 私が勝手に言ったのでございます! 私は全然分かっておりませんでした。陛下の夜伽の相手は運任せだと。だから、お願いします! 志遠様! 波妃様には何も落ち度はございません! 罰するなら、私を罰して下さい!」

 土下座を平気でするくらいには本気らしい春鈴を見て、志遠は思ったことを正直に告げた。

「別に罰する事でもないだろう。あの日、私はその仕事をしていなかった。だから、それには何とも言えない。こんな所を見られたし、お相子あいこでどうだ?」

「それでよろしいのであれば良いのですが、志遠様も目を赤くして泣く事がおありだと知って、何だか親しみを感じます」

「そうか……」

 ふと笑みがこぼれそうなのを堪え、思い付いたことを言ってみた。

「春鈴、今の気分はどうだ? 何か一つ、絵を描いてはくれないか?」

「は、い……」

 唐突な事に面を食らったような顔を春鈴はしたが、やがておもむろにその手に服の中から取り出した紙の切れ端と小さな筆を持つとさらさらと何やら時間を少し要する物を描いた。

「出来たか?」

「はい」

 見せて来たそれは二匹の金魚だった。

「幸福か……」

「はい、そうでございましょ?」

 にっこりと春鈴は微笑んだ。

 やっと出来た明るい兆ししか彼女は見えていないのかもしれない。

 他の誰もそうだ。

 自分以外は。

「それをくれないか?」

「え?」

「欲しいんだ。駄目か?」

 その懇願するような志遠の声に春鈴はある提案をした。

「これに赤を塗りましょう。そうすればもっと幸せになりますよ!」

 志遠はその通りにさせた。

 楽しみというのはこうした所から出来るのかもしれない。

 春鈴は翌日それを渡しに永庭宮にやって来た。

 昨日見た物より赤や黒の他にも金玉満堂きんぎょくまんどうになるように付け加えられ、立派な物となっている。

 波妃の入れ知恵か。

 志遠がその絵を受け取るとすぐに春鈴は帰って行った。

 珍しいこともある。

 食べ物をねだらないなんて、何かあるとしか思えない。

 そんな不安はすぐに現れ、後宮のちょっとした騒ぎになった。

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