満月の下で

 志遠がまだこの後宮に宦官として居る理由。

 それは皇帝陛下の細々とした所はまだだろう? という所からだが、何だか今日はそわそわとしている。

 浮光の所に皇帝陛下が行くことになっているからだろうか。

 旭にはドキッとしたと言いはしたが、実の所は違う。

 前世以前と同じように初めて見た瞬間に衝撃が走った。

 彼女こそが! と雷に打たれたような閃きと共に目を見張り、高ぶる気持ちに焦ったものだ。

 それを旭は『あんなに反応するから』と言っていたが、違わないと言わなければ気が変になりそうだった。

 旭と浮光、どちらがより美しいかは分からない。

 この後宮に居ると誰もがその一定水準より高い美貌を誇っているから感覚がおかしくなるが、それは女人に限ってではなく、宦官で美貌を併せ持つのもそうはいない。

 旭はその代表だ。

 誰もがそれに慣れてしまっているから何ともなく終わっているが、陛下にその趣味もない。

 陛下に手を付けられない者達は時々現われる旭に目を奪われ、溜め息を吐いてはこれは夢なのよ……と言い聞かせる顔を見て、志遠が居ることに気付き、恥ずかしい……と逃げて行く。

 私より旭の方が好かれる後宮で、何の手出しが出来ようか。

 私は皇帝陛下の異母弟だ! と言えば、一瞬でちやほやされるだろうが、そんな事許されない。

「月が出て来たな……」

 志遠は何の目的もなく、散歩と偽り歩き回る。

 でも決して浮光の側には行かなかった。

 こんな悲しい事はない。

 またしても、誰かに取られてしまうのか――。

 前世は宦官だった。そして、彼女は女官かそれ以上の存在だったと思う。

 こうしてまた自分は――そう思っていた所で静風宮に続く道にまでやって来ていたことに気付いた。

 ここにはあの宮女と妃が居る。

 出会わないようにして行こうと歩みを進めると、とんでもない所でとんでもない物を見る羽目になってしまった。

「何をやってるんだ?」

「は~~~~~~~~~~~~~~ハッ!!」

 彼女はそれにばかり集中し過ぎているようで全然答えなかった。

 またしても気を集中させ、何やら怪しい儀式の続きをしようとした。

「春鈴! 聞いているのか? 何をしているんだ? と訊いているんだが?」

 大声で言ってやると、やっと気付いたのか。

「あら! 志遠様ではないですか?! 今は大事な時、しばらく黙っていてくれませんか?」

 とんでもない事を言って来た。

 こいつ、俺の正体を知らないからって、あまりにも!! 怒ってやろうとしたが、それをするのも億劫おっくうになって、彼女のするがままにさせた。

 手作りらしき台の上に小さな平たい白い皿、そこには見覚えのある茶菓子が数個並んである。

 その茶菓子に月の光と自分の気を混ぜ、どうするのか……。

 何やら気も紛れそうで面白く、嫌な事も忘れさせてくれそうな催しだった。

「ハーーーーはっ!」

 溜めがよろしくないのか、勢いがない。

「どうした? さっきの方が全然良かったぞ?」

「いいえ、あの、いつから? いや、いつまでここにられるのですか? 気が散ってしまって出来ません」

 突然そんな事を言い出して、しゅんとした。

「それは良かった。怪しい事を止めることが出来て、私は嬉しい」

「ひどいです! 大事な事なのに!」

「何をそんなに真剣にしているのかと聞いているのに答えないからだろ?」

 怒るというより話を聞く姿勢で志遠は春鈴が話すのを待つことにした。

 彼女はこうしていると絶対その答えを言う。

「……こ、今夜は満月ではないですか?」

「ああ」

「だから、この月の光たっぷり浴びせた菓子を波妃様にあげようと思って」

 それが何になるのか志遠には分からない。

「それが答えか?」

「はい。先日、志遠様の所から頂いた茶菓子を有効活用致しまして、縁起の良い物にしているのでございます。志遠様はそういう力をお持ちな気がするので」

「それはどういう意味だ?」

「だって、志遠様は……」

 ごにょごにょと言いもせず、目を逸らした。

「何が言いたい?」

「だって、皇帝陛下に通ずる男の方ではないですか! 正真正銘の!!」

「また!! そう言って!」

「そうだからこそ、私を食べ物で……あの時の事、お忘れですか? そうじゃなかったら変なのです! 私に食べ物をやたらくれるのは志遠様と波妃様も時々、あと思思スースーも……」

「たくさん居るようだが?」

「いえ、ほんの一握り! とにかく、私は自分で食べたいのを我慢して、この時を待ち望んでいたのです!!」

「それは、今夜の浮光のようにさせたい為か?」

「はい! それ以外に何があるのです?」

 当たり前のように春鈴は言った。

「やはり、お前は愚かだ」

「何が愚かなのです? 主の為、尽くすのが役割。他の者だって、きっとどうしたら気を収められるかと躍起になっているはずです。表面上は穏やかでも内心はそうではない。志遠様こそ、どうしてここにおいでなのですか? その浮光様の所に居なくてはいけないはずでは?」

「それは……」

 言い淀んでしまった。

「大丈夫ですか? 顔色がよろしくないような……」

「触れるな!」

 初めて、春鈴の手を払ってしまったような気がする。

 どうして些細な事でこんなにも動揺しているのか、自分でも気掛かりで何より春鈴のその顔を見ることが出来なかった。

「志遠様……、申し訳ございません。出過ぎた真似を致しました」

 時にこの宮女は身の丈に合った言動をするから、困る。

「春鈴……何か面白くなる事はないのか?」

 何故、そんな宮女にこんな頼みをするのか志遠自身も分からなかった。

 慰みを求める相手ではないのに。

「面白い事ですか?」

 またいつもの春鈴に戻り、考えてくれる宮女を志遠は抱き締めたい欲望に駆られた。

 何故、こんなにも――彼女にそう思うのか不思議だ。

「お前は前世を知っている人物が現れたらどうする?」

 不思議な問いに春鈴は顔をしかめたように見えたがすぐに答えた。

「どんなお話か聞いてみたいですね。それで心が晴れるなら、お聞きする価値はあると思います。私も私の食欲についてお話致します」

「そうか」

 少し笑えた。

 春鈴の食欲について語り合えたら、さぞ面白いだろう。

「良い気晴らしにその話をしてくれないか?」

「気晴らし前にやりたい事を終わらせたいのです。満月は今日しかありません」

「またやって来るだろう?」

「やって来ても、今日と言う日は今日しかありません。いつまでもというのはないのでございます。だからこそ、この時に賭けるのでございます。きっと一瞬でも出会えたら、それだけで波妃様は幸せにございます」

「それだけで良いのか?」

「はい。何故なら波妃様はもうお疲れになっていて、少しでも楽になりたいと思っているから。だから、私が少しでも役に立って、その御心おこころを晴らして差し上げたいのです。これは私の勝手なものなので波妃様を怒らないで下さい」

「分かった」

 一応そう心得ておこう。

「時に志遠様」

「何だ?」

「陛下はどのようなお方なのでしょう?」

「お前、知らないのか?」

「はい、私が波妃様の所に来た時にはすでに陛下は来なくなっていましたし、一度も目にしたことはございません。誰に似ているのでしょう? そう考えるなと言われても、どなたなのか分からないから何も出来ないのです。志遠様に似ていらっしゃいますか?」

「何故、そこで私になる?」

「だって、志遠様ぐらいしか、そういう方を知りませんし……」

 じと~っと見て来る。

「何だ? その目は」

「いえ、似ているとおっしゃるなら、ちゃんと見ておこうと思いまして、何かになるかも」

「何になるんだ?」

「分かりませんが、志遠様のように優しい感じですか?」

「いいや、あの方はお強い。勇ましい……とも言うのかな」

「そうですか、逞しいのですね!」

 人の言葉を聞いていない。

「それで! 志遠様のように笑いますか? にこやかに」

「いいや、あの方はムスッとしている。自分の思い通りになった時にだけニヤッと笑う」

「それでは好印象になりませんが?」

「そうだな」

 そこから導き出される顔を見てみたいと思い、志遠は春鈴に言ってみることにした。

「その絵を描いてくれないか? お前の中のその方を見てみたい」

「え? そんなの恐れ多くて出来ません!」

「では、私の顔では?」

「そうですね、実物が目の前にある以上、失敗はしないでしょうが……」

 言葉を詰まらせた。

 何を考えているんだ? こいつ。

「やっぱりやめておきます。通ずる方も描かない方が良いです。下手に描いたら怒るでしょう?」

「いや、お前の実力を見たいだけだ。何かの役に立つかもしれない。少しはあれから上達したのか?」

「一度だけお見せしたような気もしますね……志遠様には」

 そう言って、服の中から紙の切れ端と小筆を出し、さらっと描いたのは満月。

「この月か?」

「はい。お月様はいつも優しく見守ってくれていますから怒りません」

 ふ……。良い所に逃げた。そう思ってついつい志遠は顔に出して笑ってしまった。

「何がお笑いの原因に?」

「いや、お前がしっかり成長していて安心した。ほら、月が満ちている間にするんだろ? それ」

「あ! そうでした! こんな事をしている場合ではないのです! でも、変ですね。ここはいつもは静かで人は絶対に来ない場所なのに」

 だから来たのだ。

 この森のようになっている木々は視界を遮ってくれるから何をしていても気にならない。

 なのに、どうしてこの宮女に出会ってしまったのか。分からない。

 まさか、こいつが? ――そんな事はあり得ないと自分の確信部分がそう言い聞かせる。

 こいつはせいぜい、前世で何かしらの縁があっただけのやつで大してそこまで大事な何かではないだろう。

 だから、こんなにも気楽でいれるのだ。

 あの人の時とは大違いに。

 そんな志遠の心など知らずに春鈴はまたしても気を送り始めた。

 それは月の光を自分を通して茶菓子に送る方法だそうで、呆れながらも志遠はそれを最後まで見守った。

 そうしている間に陛下と浮光が良い感じになるのは想定済みなのだから別に気にはしない。決して、兄上に嫉妬もしない。それがこの宦官の服を着続ける答えだ。

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