お嫁においで

萬 幸

お嫁においで

 阿佐ヶ谷駅から大通りを徒歩五分ほど歩き、住宅街に続く小道の手前。雑居ビルの一階部分。古さを感じるけれど、どこか清潔感のある佇まいのある場所に、その店はあった。

 喫茶ナポレオン。

 店内はウッドインテリアを各所に配置することで、落ち着いた雰囲気を演出していた。時折漂ってくるコーヒーの香りが上品さを醸し出していて、一見の人間でも長くいたくなるような心地良さを味わうことができる。さらに、壁際の大きな棚いっぱいに収納されている古本や年季の入ったカセットテープ、擦り切れたレコードがこの喫茶店の独特な魅力だった。

 そんな店内の窓際奥のテーブル席。

 僕と彼女は向かい合っていた。

 ナポレオンのなかでも隠れた一等席ともいえるこの場所は、窓から指す光が程よく温かみを感じさせてくれて、日差しの強い時間帯には外に植えられた街路樹の葉が緑のカーテンとなることで、最も居心地の良い空間として機能している。

 なのにだ。これだけ良い席なのに、僕たちを取り巻く空気は気まずいまではいかないまでも、少しばかり重かった。

 先ほどまでの出来事を振り返る。

 休日の昼時。駅前で集合して、昼食を軽くファミレスで済まし、最新の映画を見るために映画館に向かった。そして、映画を見た後は休憩がてら感想の話し合いをするために、ここナポレオンを訪れた。その時まではいつも通りだった気がする。それから、話の流れで映画の中に登場するカップルの話になって、そこから移って結婚の話に――――。

 ――ああ、そうか。

 自分のうかつさに心の中で舌打ちする。

 下のほうに行っていた視線を、ゆっくりと彼女に向ける。

 彼女はすでにこちらの話に興味をなくしたようにスマホに目を通していた。

 ……いままでは、こんなことをする娘ではなかったのに。

 倦怠期、というやつだろうか。

 僕は助けを求めるようにカウンターの中にいるマスターの方を見やった。彼は変わった人物だが、店のひいては客同士の雰囲気を乱すことをよしとしない気遣いの達人であった。

 彼女の機嫌がどこか悪く、デートが上手くいかなかった時は、デザートをさりげなくサービスしてくれたことで、彼女の機嫌を直す一助をしてくれた。僕ら二人が喧嘩して、互いになかなか仲直りできずにいた時は、そんなときのための解決法が書かれている古い小説を遠回しに薦めてくれるなど、随所で僕たちを手助けしてくれた。

 勝手だと思いながらも、期待を込めてマスターを改めて見やる。

 マスターはこちらの様子に気づくことなく、上機嫌そうに鼻歌を奏でながらレコードを磨いていた。

 彼はそのままレコードを一通り磨き終えると、レコードプレーヤーを準備し始めた。レコードに針を落とせば、どこか心を締め付けるような、悲しいサウンドの曲がながれてくる。

 ……その曲は、一昔前に流行った失恋ソングだった。

 肩を落とす。これでは逆効果だ。そんななか、マスターは曲に合わせて小躍りしていた。あの人、よくこんな曲で乗れるな……。

より一層重苦しくなった空気のなか、何も出来ずに十数分が経過する。どんな話をしても、やはり彼女はどこか上の空だった。

 結局、彼女の、帰ろうか、の一言で今日は解散となってしまった。


 ◇


 「妊娠でもしたんじゃないの?」


 帰宅してすぐ、自宅のリビングでソファに腰を落とし、姉に連絡をとった。

 今日の出来事を姉に相談しようか。でも冷やかされそうだ。やめとこう。いや、でもやっぱり話そう。と長い思考の循環を経て、今日のことを電話で姉に相談した。そして返ってきたのは、加速した四トントラックに轢かれたのかと錯覚するような、そんな衝撃的な一言だった。

「あんたみたいな、何をしているのかよく分からない仕事の人間に将来のことを任せることを考えたら不安だったんじゃないの? あんたなんて、知らない人が側から見たら、宿無しの極楽とんぼにしか見えないわよ。暇さえあれば、昼は古いレコード集め、夜はクラブに入り浸っている。どう見てもプー太郎よ。それに、内面にも問題があるわ。捻くれていて甲斐性なし。シンプルに男として魅力度ゼロよ」

 よくもまあ、リホちゃんみたいな、しっかりしていて優しい娘があんたを好きになったわよね。

 姉はこちらの心を容赦なく鋭角から削ってきた。

「……でも、リホにはちゃんと仕事のことを言ってあるぜ? ライブには何度も来てくれたし、収入も今のところはそれなりには安定しているし」

「馬鹿ね。それでも将来的に安定した仕事じゃないでしょ? その――トラックメイカー――だっけ? アーティストなんていつ、仕事がなくなるなんてわからないじゃない。リホちゃんの不安なんて、もっともでしょうよ」

「うっ」

 言葉に詰まる。

 姉の言っていることは正しい。クラブでのライブ演奏や他アーティストへの曲提供を繰り返してきたことで、その界隈ではそれなりに有名なのだが、それでも知名度はメジャーアーティストとは程遠い。僕のアーティストとしての需要なんて、いつ無くなってもおかしくはない。

「……まあ、妊娠は冗談みたいなものだけれど、リホちゃんとのことを考えるなら、いい機会なんだし、これからのことを腰を据えて話し合う覚悟を決めたら? あんた達付き合ってから、ずいぶん経つでしょう?」

 姉はそう言い残すと、じゃあね、と言って電話を切った。

 まだ三歳ほどの子供がいる身だ。こちらの電話に長々と付き合っていられないのだろう。

 息を吐きながら、通話状態の切れた電話を眺める。

 姉の言葉が脳内を繰り返リフレインしていた。

これからのことを話し合う?

――それは、結婚のこととか?

 すぐそばにあるチェストの奥から、ある物を取り出す。

 珊瑚でそれを眺めながら、ぼんやりと考える。

 ヒットしているのは無料配信曲ばかり。地方営業のために地方をどさ回り。ドキュメントにしても稼げない。今まで、優しさでごまかしてきたけれど、彼女を安定して養えるほどの金もないし。

 そんな男と結婚となったら。

 おやじに殴られたことないけど、彼女のおやじに先に殴られそうだ。

 そんな風に前も思って、やめたんだっけ。

「やめだやめ」

 それをもとあった場所に仕舞う。

 こんなところで途方に暮れていても仕方がない。

 友人から依頼された仕事がまだ残っている。とりあえずは目の前の案件を終わらせなければ。

 僕は全てを忘れるために仕事部屋へ向かった。


 ◇


“――――――。”


 何か、懐かしいような音を聞いたような気がして、ふと目が覚めた。

 どうやら、仕事部屋で寝てしまっていたようだ。

 机に伏している体を起こす。

 骨や筋肉が軋む感覚が身体中を走る。

 

“――――――。”


 そこで、部屋の外から、かすかに流れてきている音に気がついた。

 まるでこちらを呼ぶかのように響く音色。

 部屋を出て、音の所在をたどっていくと、祖父の部屋の前に行きついた。音はこの部屋からだった。

 扉を開けると、懐かしい匂いに鼻がむせる。

 あの頃から変わっていない、祖父のものだった。

 部屋を進むと、奥の介護用ベッド脇に置かれた年季もののレコードプレーヤーが動いているのが確認できた。

 そこから流れている音楽は、昔、よく祖父が聞いていた曲。


“もしもこの舟で” 

“君の幸せ見つけたら”

“すぐに帰るから”

“僕のお嫁においで”


 レコードから針を上げる。

 ここ一年ほど、仕事で忙しいときや地方へ営業に出ているときが多く、姉に掃除を頼んでいた。昨日も姉に頼んだばかりだ。もしかすると、その時に姉がつけたままにして忘れたのかもしれない。

 姉には今度しっかりと言わなければ。

 そう思い、部屋を出ようと扉の方へ振り向く。

「――っあ」

 そこには、誰かが、立っていた。

 どこかこちらをたしなめるような、悲しんでいるような、怒っているような表情をした人物。

 もう会えなくなって何年も経っていて、記憶の中にある顔も朧気になってしまった人。

 もう少しで、その人が誰だったかを思い出せそうで。

 その名前を呼ぼうとして。

「うっ」

 身体から力が抜ける感触。

 糸の抜けたマリオネットのように、足からゆっくりと床に伏してしまう。

 身体が横になると同時に強い眠気が襲ってくる。

 耐え切れず、とじかけたまぶたの隅。

 その人はこちらを申し訳なさそうな顔をして覗き込んでいた、ような気がした。

 その姿に、幼いころの暖かな記憶が蘇るようで。

 気が付けば、何カ月か振りに深く眠り込んでいた。

 

 ◇

 

 翌日、目が覚めると寝室のベッドで、しっかりと布団をかぶり横になっていた。

 とてつもなく鮮明な夢を見たような気がする。

 いや、気のせいかもしれない。

 なんてことを思いながら、軽く支度を済ませるとナポレオンに向かった。

 ナポレオンでは、マスターが僕を待っていた。

 今日は、たまにある休日の飲みの日だった。

 お互いにレコードに関する趣味が一致することから、よく飲む仲になったのだ。

「結婚?」

 マスターは丸メガネの向こうの瞳を不思議そうに歪めると、こちらを憐れむようにじっと眺めた。

 僕はマスターにそれとなく尋ねることにしたのだ。

「悲しいことにね。例えば著名で有名な哲学者達も名言をたくさん残したけれど、これに関してはあまり良い言葉を不思議と残していない」

「そんな」

 レッドブルウォッカの入ったグラスを互いに掲げ乾杯する。

「多分あいつらも自分の趣味に恋いこがれちまったんだろう結局。偉いやつもここじゃお子ちゃまなのさ」

 マスターはそう言って、グラスの中身を呷る。

「それに。裸でぶらついたり、ヒドい音でゲップをしたりもできない。連れ込み宿も店じまい。自分のタイミングでアレも出来ない!」

 赤くなった顔でマスターは畳みかける。

 マスターの左手薬指に光る指輪を見る。彼は恐妻家ではなかったはずだけど、それでも奥さんとの生活には思うところがあるようだった。

「でも」

 マスターは続ける。

「キミ、そのままだと『何も無いちゃらんぽらんな日々』が、女房になっちまうぞ!」

 マスターは肩を大きく揺らしながら息を吸う。

 気が付けばカウンターの上にはレッドブルの缶がいくつも転がり、大きなウォッカの瓶も空になっていた。

 少し飲みすぎたみたいだ。

「ううう」

 息を整え終えると、マスターは口元を抑えてトイレに駆け込んでしまった。

 一人残されたカウンター席で考える。

 マスターはああいう風に言っていたけれど、普段から高い頻度で奥さんのことを楽しそうに話している。

 その姿はとても幸せそうで。

 じゃあ、なぜ、一歩を踏み出せない?

 仕事だって、今ある仕事が終われば、安定したものが見込めるのに。その内容をしっかりと伝えれば、理解してくれるかもしれないのに。

 ……きっと僕は、何気ない日々に小さな幸せを見つけるのが怖いんだ。

 心の中で見えないふりをしていた理由を自覚する。

 こんな気持ち、どうすればいい?

 

“――――――。”


 そんな風に途方に暮れてるとき。

 脳裏に浮かんだのは、いつだかに聞いたじいちゃんの部屋から流れてきたあの曲。

 それは、僕の背中を優しく押すように語り掛けてきているようだった。

 ああ、きっと。

 じいちゃんは励ましてくれていたんだ。

 そう思うと、どこか気持ちが軽くなった。

 男なら覚悟を決めるときなのかもしれない。

 僕は意を決して、ちょうどトイレから戻ってきたマスターにあるお願いをすることにした。

 

 ◇


 あの日から、一週間経った。

 夕時のナポレオン。

 マスターには特別にお店を貸し切りにしてもらった。

 彼女といつもの窓際の席で話す。

 今日の彼女はこの前のようではなかった。

 その様子に安堵する。

 それからは、いつものようにいろんなことを話した。

 最近なにがあったとか。職場のあの人がどうのこうのとか。あれが美味しかったとか。そんな他愛のない話のなか、タイミングをうかがい。

 上手いこと間の空いたベストなタイミングを見つけた。

 彼女にわからないように、マスターにこっそりと秘密の合図を送る。

 彼はそれに合わせて自然に音楽を流してくれた。

 それは若大将という愛称が特徴的なアーティストの曲だった。

 雰囲気の変わった店内に不思議そうにしている彼女に改めて向き合うと、僕はあるものを取り出した。

 その昔、“何億枚もコピーされた紙切れに契約するなんて”と言って怒られたっけ。

 でも、この捻くれた感性が選んじゃったのは、どうやら君なんだ。

 間違えてしまったり、どんくさいこともするけど。

 誠実にいれば大丈夫だと教えてくれたのも君だ。

 一息吸う。

 僕は彼女に珊瑚で装飾された指輪をささげ、結婚を申し込む。


 結果はもちろん――。


 ◇


 すべてが終わったあと。

 現実味のない、どこか浮ついた気分で彼女を駅まで送り届けた。

 夕陽のさす帰り道。僕は姉に連絡をとっていた。

「なによ?」

 電話の向こうはせわしなさそうな様子だった。

 きっと夕飯の準備をしているのだろう。

 いらだった様子の姉に、すぐ終わるから、と伝える。

「リホにいろいろ話したの、姉ちゃんだろ?」

 姉の声の詰まる音が聞こえる。

「あら、バレちゃった?」

「リホが教えてくれたよ。リホと協力して、こっちを焚きつけよう、という作戦だったらしいね」

 考えてみれば、僕のことをよく理解した作戦だったと思う。

 リホはこちらが結婚を切り出そうとしていて、出来ずにいるのを薄々察していたし、彼女自身もそういう気持ちが強かった。

 彼女はそのことを僕の姉に相談した。

 姉はそれを聞いて、あることを思い出した。

 それは、僕の部屋を掃除しているときに見つけた、紅い珊瑚でこさえた指輪。

 姉は僕がどういう状態にいるかを理解し、彼女に作戦を提案。

 それが、僕を追い込んでケツを叩こうというものだった。

 まずはリホが意味深な様子を見せる。その後、僕は絶対に姉に相談するだろうから、そこで姉がさらに追い打ちをかける。

 そうすることで僕は危機感を覚えて、ついに腹をくくる……。

 そんな作戦だった。

 ちなみにだが、ナポレオンのマスターにも、デート帰りのあの時、演出として、悲し気な曲を流すように、と頼んでいたらしい。マスターはその意図を聞かずに、二つ返事で了承したようだ。内容を聞いていれば僕に隠し切れない、と判断したのだろう。

「……怒ってる?」

 姉が不安そうに尋ねてくる。

「まさか。リホにも言ったけど、僕が不甲斐ないせいで二人にこんなことをさせたんだ。怒ってなんかないよ。むしろ感謝しているぐらいだよ」

「よかったあ」

姉は安心したように息を吐いた。

「その様子だと、上手くいったのね」

 よかったよかった、と姉は何度も繰り返す。

 電話の向こうで姪が、どうしたのー、なんて聞いていた。

 おじさん結婚するんだって、と返しながら、こんなことを言った。

「おじいちゃんも喜ぶわね」

 ああ、と姉に同意する。

 僕らを育ててくれた偉大な祖父だ。

 きっと、天国でも、あのたくさんのしわの刻まれた顔で喜んでいてくれているに違いない。

 ――そういえば、じいちゃんと言えば、部屋のレコードが回りっぱだったはずだ。

「おじいちゃんの部屋のレコードプレーヤー? そんなのいじってないわよ。そもそもあの部屋の掃除は私いつもしてないわよ。あんたが、あそこだけは自分でやるって言ったんだから」

 姉は困ったように、そう言った。


 ◇


 夕陽も暮れてきたころ。

 自宅に帰宅すると、僕は緊張した気分をほどくように、洗面所で顔を洗っていた。

 その時。こんな曲がまた、じいちゃんの部屋から聞こえてきた。

 

“もしもこの舟で”

“君の幸せ見つけたら”

“すぐに帰るから”

“僕のお嫁においで” 


“月もなく寂しい”

“くらい夜も”

“僕にうたう”

“君の微笑み”


“舟がみえたなら”

“ぬれた身体で駆けてこい”

“珊瑚でこさえた”

“紅い指輪あげよう”


 幸せだなア。

 なんて今のご時世じゃそう言えたものじゃないけど。

 蛍光灯に照らされてる洗った顔は、もうそんなに若くない。

 けど、落ち着いたらナポレオンみたいな喫茶店をやって、ランチはカレーだけ。そんなのいいかも。

 きっとなるようになるさ。多分ノリさ。

 鏡越しに浮かんだ老齢の男に向かって言う。

「ドープにスワッグにヒップに彼女を幸せにするよ」

 なんてこの歳で言えたものじゃないかも、しれないけれど。

 それでも。

「絶対に幸せにするよ」

僕の言葉に、鏡越しの、その人は皺くちゃな顔を崩して、優しく微笑んでくれた。




使用楽曲


お嫁においで 2015 / 加山雄三 feat. PUNPEE

https://youtu.be/gLS_4iPoZ40


tofubeats -Keep on Lovin' You

https://youtu.be/ixAprGm8MZk


C.O.S.A. × KID FRESINO - LOVE (Prod by jjj)

https://youtu.be/4TRM3cps2Jo


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