灰被りの街
虹の見え方は国ごとに違うらしい。有力な一説に拠ると、言語、特に色を表す語の数に依拠して数が増減するという。英語圏に「微妙」をそっくり表現する語が素直に出てこず、故に米英の人間に日本人の精神性が奇特に映る、というのもよく聞く話であるが、これと類似した事例と言えなくもなさそうだ。
……知識は視界を、ひいては世界を捻じ曲げる力がある。私はこれを信じて疑わない。
例えば今、「私が珈琲を飲んでいる」という状況がある。無知(ここでは敢えて語弊を招くような表現をする)な人間はそれを見て、そのありのままというべき状況を認識する。だが仮にそれを見たのが多少なりとも詳しい人間であれば、机上のミルを視界に入れたとき「ああ、この人は豆を手挽きするのか」とか、そういった副次的な情報を手に入れることが出来る。知とは力であり、目に映る雑然の中の何かを明確な「個」として認識することのできる武器である。
ぼんやりとした頭で窓の外を眺める。窓の隙間から少しずつ漏れる冷気が、室温を奪い静かに空間へ侵攻しているのを感じる。曇天は目覚めた頃から表情を変えず、終いには泣き出しそうな気配すら醸している。私は冷えを厭う。故に、電子式の暖炉にて這い寄る零下を残らず駆逐する。よって一先ず、書斎の平穏は守られた。吐いた息は透き通ったままである。
この世界を知れば知るほど、世界は明るくなるのだと考えていた時期があった。知れば知るほど無数の色が私を出迎えてくれて、知り尽くす頃には極彩色の世界が広がっているのだ、と夢想していた。そうではなかったのは、語りの切り口からして明らかなわけだが。事実、知は見える色を更に広げるのではなく、既に見えている色を細分化するのみであった。元々見えていた色が白と黒であったとして、そこからあらゆる事象を知ったとして、見えるのは赤や青ではなく、より明瞭化され強調されたグレイ・スケールなのである。今顧みれば当然の帰結であるのだが、過去のある地点の私はその事実に酷く落胆させられた。御目出度い頭をしていたと、思い出すたび思うわけである。
ひとたび人間関係にこの理論を振りかざせば、全てが終わるのは明白であった。然し悲しいかな、思考は社会と切って離せぬものである。今まで何か分からないので許容できていた行為が、意図を理解してしまった為に許容できなくなる。「この人間を上手く使ってやろう」という先方の思考を見抜いてしまえば、「ではもう程々でよかろう」となる。思うに、知は時に、他者との繋がりにおいて邪魔となりえるのである。一つの行動から得られる情報が嵩むたびに、私は周りに置く人間を減らしていった。生憎、得られる情報の容量が増えたとて、私の脳のキャパシティは有限のままなのである。そうして益々日々の色彩は失われ、やがて浅く狭くなってしまった人間関係に、安堵と落胆を同時に感じる日々だ。望んでそうしたのであろうと訊ねられればその通りと応えるほかない。浅く狭く、ゆるやかな繋がりが欲しい、その意図を共有できる人間となら仲良くやっていけるのだろうか、と思うが、そんな都合のいい考えに賛同する人間なぞいるわけもなく、そも、ではこちらも良いように使ってやろう、そう考える相手に私が嫌気を感じることなく接せられるかと問われれば首を傾げるしかない。独りでは生きられないが、二人で生きて逝く気は更々もない。一と二分の一なら、いや然し、等と夢想する日々である。……世にある言葉を借りるなら、「考えるだけならタダ」、である。無論それを望んではいないし、当然、望むべくもない。
気付くと、いつの間にか雪が降り始めていた。窓枠の向こうにうっすらと積もっているのが見える。モノトーンで統一されていて、物もさほどなく寒々しいこの部屋の窓から見る灰被りの街は、それはもう、全てひっくるめて、いっそ清々しいほどに物悲しい。せめてもの抵抗として作業台の上に置かれた暖色灯に手を伸ばした私は、その後に少し冷めてしまった珈琲で喉を潤した。この生活に、淋しさはないでもない。然し、何処まで行こうが己を満足させる方法は己が一番よく分かっている。故に他人に依拠しない生き方はそれなりに心地好い。但しそれなりである。思うに、人間関係とは博打である。少額の賭けなら負けたとて気楽に切り替えがきくが、大博打を外せば路頭に迷う。賭けねばそれなり、賭けて当たればそれなり以上(ただし外したときは……、それは博打であるので、皆まで言うまい)。ちなみにここで言う賭博の資本は時間と金である。そう考えると、人と深く関わらぬのは一種の恐れであるのかもしれない。しかしながら、緩やかな破滅とでも呼ぶべき停滞は、時に平和と見紛うほどに素晴らしく見えるのである。
やがて、結露と降り頻る雪で窓の外が見えなくなった。玄関先から呼鈴を鳴らし続ける冷やかな絶望を無視して、私は陶磁器に二杯目を注ぎ入れる。立ち上った湯気は、すぐに大気に撹拌されて消えた。この後は特段何に役に立つわけでもない仕事をこなし、まるで無い存在価値を、せめて無駄にした酸素と同じだけ有意義にせんと本日も努力する所存だ。正直、それを虚しくないと言うと嘘になる。
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