第41話 獣人の王国リュコス
獣人王国リュコスが、無くなった
その知らせは、獣人たちの口に乗ってあっという間に広まっていく。混乱の最中、町や村から続々と避難する民衆の流れができた。エルフの里が女性と子どもの受け入れを発表したことで、最低限の秩序は保たれている。強さを誇る肉食獣たちは――武器を取ってはいるが、指揮をするものがいない。移動する民衆をなんとか守ろうとするだけで精一杯だ。
【……レーウめ。もう少し王の座に
フォーサイス領にある宿屋。店主はとっくに逃げていて、いない。
セル・ノアは一人、大きく放たれた窓の前で、このまま人間の国ソピアが滅ぶのを見守るつもりだった。
――
幼心に植え付けられた人間への恐怖と、恨みを
父と母からも【人間は汚い。獣人こそが正しい】と言われて育ってきたし、自分がされたことで【その通りだった】と思っている。
人間が生み出す魔王は、
望み通り、眼前に人間の終わりが迫っているのに。
なぜか、心が晴れない。理由は分からないが、得られるであろうと期待した達成感が、ないのだ。
【父上……】
会うことが許されず、手紙のやり取りだけをしていた、思慕の対象。
世界の終わりに会える、と言っていた。
――魔王を、倒そう!
ウネグに付けた腕輪から漏れ聞こえる、ガウルたちの会話からは、力も希望も失われていない。
それどころか、次々に新たな仲間を得ている。
そのことがセル・ノアの焦燥感を掻き立てていることに、彼自身は気づいていない。
今ある財力も権威も根こそぎ奪った。人間は絶滅する。あとに残るのは、純粋な獣人のためだけの世界。
【なんだか、疲れたな】
ベッドサイドに置いてある、黒霧が渦巻いている水晶玉へと、セル・ノアは視線を移す。
【危機迫る、か】
黒豹の耳が、バタバタと近づいてくる足音を捉える。
――バンッ!
扉が無遠慮に蹴破られた。
【宰相はっけーん!】
セル・ノアは大きく息を吸い込み、目を細め、それを泰然と迎える。
【はん。銀狼の犬めが】
【ウー、ワンッ! ボク、犬だもーん】
クロッツは、首をコテンとして
その後ろで耳を垂れ、遠慮がちにしているのが
【何をしている】
狐の獣人、ウネグだ。
【犬一匹始末できず、しかも連れてくるとは……】
【もうしわけ、ございません】
【まーまー。ね、なんでこんなことしたのか、教えてよ】
【なに?】
クロッツは、やれやれと大げさに肩を竦めて見せる。
【このままだと、ほんとに世界滅亡するよ。いいの?】
【魔王は人間のみを滅ぼすのだ】
【えぇ~そんなのほんとに信じてるの? 見なよ、外】
【川の向こうの話だ……!?】
がば、と思わずセル・ノアは窓枠から体を乗り出した。
【な、なんだあれは!】
【魔獣だよ。こっちにも来てる。強いよ~。ねーウネグ?】
【閣下……獣人も襲われ始めています……】
黒い長毛、赤い目、弓なりの背骨に鋭い牙と爪。
大きな顎に敏捷な足を持つ大小様々な異形が、何体も何体も眼下で湧いている。
【そ……んな、馬鹿な!】
伝承では、魔獣は魔王の眷属で、魔王の居る場所にしか湧かないとされていた。
いくつもの文献と記録で裏付けされたし、父もそう言っていた、とセル・ノアは目の前の光景を受け入れられない。
【うっそお。宰相閣下ってそんな馬鹿だったの? 前の魔王がそうだったからって、今回もそうとは限らない。当たり前でしょ?】
セル・ノアは窓枠を握りしめた姿勢のまま、動かない。
【本気で魔王は人間しか滅ぼさない、魔獣は川を渡らないって、信じてたの? ……なんで?】
【私の、父はっ! 獣人たちのために!】
だん! と窓枠を叩くセル・ノアの背中へ、クロッツは心底理解できない、という視線を投げた。
【……人間を滅ぼせっていつ頼んだっけ?】
【心の中で思っていただろう!】
【いやぁ、正直あんま知らないし? 向こうに住んでるなーぐらいよ】
セル・ノアはようやく室内を振り返り、クロッツに蔑む視線を返す。
【無知は罪だ。男爵ともあろうものが、無能め。あれほどまでに醜悪な生き物……】
【ボクがよく知ってる人間はね、か弱い女の子と、おじさんと、青年だけだけどね】
クロッツは、そんな侮蔑に反応せず、淡々としている。
姿勢も変えず、声も低い。
【初めて会った時から獣人に好意的だったし、一生懸命だし。ボクが他人に侮辱されたら、ゴメンって言って寄り添って謝ってくれるんだよ? 同じ獣人でも、こうやって
【
黒豹が狐を見据える様は、まるで狩りだ。
【何をぼけっとしている。こいつをさっさと始末しろ】
【閣下。獣人はどうなりますか】
【あ?】
【この責任は、どう取るおつもりですか】
ちっ、とセル・ノアは舌を打つ。
ウネグは、ゆっくりと黒豹に近づいていく。
【本当に、兄を殺したのは人間なのですか】
【……はああ。貴様には失望した】
【っ、まさか、個人の恨みで、世界を滅ぼそうとでもいうのですか!】
【貴様もだろう!】
びくっ、とウネグの肩が揺れる。
【殺された兄の仇だと、人間を絶滅させたかったのは、貴様もだろうが!】
【……はい。私が、無知で愚かでした】
――ぼたり。
クロッツは、突如として鼻先を襲った鉄の匂いに驚く。
【ウネ……】
短剣を抜刀したかと思うと、あっという間にセル・ノアの喉仏に突きつけるウネグは、その左手首から尋常でなく出血している。
クロッツは、制約の腕輪が発動したことを悟った。
【フォーサイス伯の腕輪を外せ!】
【……なんだと?】
【獣人王国を立て直すには、伯爵の力がいる!】
【くく、今更】
【魔王は、団長が必ず倒す!】
ウネグは窓枠にセル・ノアの体をぎりぎりと押し付け、鬼気迫った。
【これは、獣人のためだ!】
【クハハ、兄の仇はいいのか】
セル・ノアが心底面白そうに目を細めて言うが、
【いい。兄ちゃんならきっとこうする】
ウネグは揺るがない。
――ごうるるるるるー
が、そこへやってきたのは、大量の魔獣だ。
【……血の匂いに誘われた、かなー】
クロッツが部屋の入口を振り返りながら、サーベルを二本するりと抜き、体の前で交差して構える。
【!!】
動揺したウネグの、拘束が
【あっ! くっそおお!!】
【気持ち切り替え。すぐ倒しておっかけるよん――セルの匂いって独特だからね~】
【!】
【ふたりじゃキツイけど、がんばろ?】
【はい!】
クロッツは、口蓋を一周ぺろりと舐めてから、にやりと笑った。
【本気出すの、久しぶりだなあ】
――ウネグの寒気が止まらないのは、出血のせいか。はたまた……
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