木村課長の受難

霞(@tera1012)

第1話

 眠れない。


 ベッドの中で、俺は歯噛みする。

 ほとんどまんじりともできずに夜明けを迎えるのは、今日で二晩目だ。


 カチッ。


 アラームが鳴り始める直前の、かすかな機械音が耳に入ると、俺はすかさず頭上に手を伸ばし、目覚まし時計のスイッチを切った。


 何とか上体を起こす。体が異様に重い。

 頭はもやがかかったようで、まともにものを考えられない。

 俺はのろのろと立ち上がり、出社のための身支度をする。





「あの、木村課長……」


 本日2本目の缶コーヒーをあおり、目頭をもむ俺の前に、華奢な人影が立った。


「どうしたの、ええと……佐伯さえきさん」


 俺は、デスクの前に立つ、やや固い顔をした若い女子社員を見上げる。

 彼女は、俺の直属の部下ではない。隣のシマに今年入った新人だ。小柄でほっそりとしていて、小動物を思わせる顔立ちをしている。髪はいつもゆるくウェーブしてふわふわと揺れていて……この会社の若手はほとんどが狙っているだろう、とにかく、かわいい子だった。


 まあ、仕事を離れれば俺には縁のない人種だ。


「少し、お話が」

「話? なんだろう」

「ちょっと、ここでは……」


 さりげなく、フロア中の注目が俺たちに集まっているのを感じる。


「できれば、少々内密に、お話したいことなのですが」

「うーん……」


 俺は唸った。新人の、しかもこんなかわいい女子社員と二人きりで別室で話をする、というのは、俺の保身上あまり望ましくない気がする。


「誰か、同席させちゃダメかな。ほら、君んところの鈴木課長とか……」


 言いかけてから、新人が直属上司以外の管理職に相談することなど、その上司がらみの話以外ないだろう、と思い当たり、俺は思わず顔をしかめた。


「いや、それは、まずいのかな……」

「ええと、その、……かまいません」

「え、いいの?」


 俺は思わず聞き返す。上司とのトラブルでないなら、いったい何の話なのだ。




「霊が、ついている……」

「はい。あの、小さな女の子の霊が」

「女の子」

「私が気がついたのは今朝のことなので、本当に最近のことだと思うのですが」

「最近……」


 俺と鈴木は顔を見合わせる。

 これはヤバイのひいちゃったかもな、と鈴木の顔には書いてある。

 申し訳ないが、とっさに俺の頭をよぎったのは、彼女が自分の部下でなくて良かった、という考えだった。

 ちなみに鈴木と俺は同期で、よく飲みに行く仲だ。


「んーと、佐伯さん? 君は、何かそういう、その、霊能力? とかを持っているってことなのかな? これまでも、こういうこと、あったの?」

「信じていただけないのは、ごもっともです。その、私はいろいろ見える人間ですが、普通なら、人に話したりはしません。特に、会社の人になんて」

「んー……その方がいいだろうねえ」


 俺は思わず本音を言ってしまった。


「でもその、木村課長についている霊は、そのあたりにいる霊とは力の強さとか意志の強さが段違いで。何か、もうすでに課長に影響が出ているのではないかと心配で……。課長、具合がよくなさそうですし」

「……まあ確かに、ひどい顔色してるよな」


 俺を振り返り、鈴木は眉を寄せる。


「お前、何か心当たりでもある?」

「……」


 話すべきだろうか。俺はつかの間逡巡したが、佐伯さんの瞳の、狂気とはかけ離れた冷静な光に、覚悟を決めた。


「確かに、おとといの人間ドックで、胃カメラで出血して、一泊入院させられた。……昨日は、病院からの帰り道でひったくりにあって、今、俺、すっからかんなんだ」

「えええ……1万円貸してくれって言ってきたのって、そういうことかよ」

 鈴木がドンびいた顔をした。


「もっともっと、良くないことが起こる気がします」

 佐伯さんは細く息をつく。


「お祓いに行かれた方が、良いと思います。なるべく早く」

「……そうするよ」


 鈴木はまだ半信半疑の顔で、俺と佐伯さんを交互に眺めている。


「あの、鈴木課長。このことは……」

「口外しないから心配しなくていいよ」


 鈴木は計算高いところはあるが、基本的にはいい奴だ。あえて彼女の立場を悪くするような行動は、控えるだろう。


「ありがとう、佐伯さん」

「いいえ。……あの、お大事になさってください」


 俺は無理やりに笑顔を作ると、会釈をし会議室を出て行く佐伯さんの後姿を見つめていた。





 そうはいっても、そうホイホイと気軽にお祓いなど受けられるものではない。

 とりあえず、その日の午後は半休をとり、比較的自宅に近く、ネットでの評判の良い神社に相談に行くと、1週間後にお祓いの予約が取れた。

 ひとまずそれまでは、おふだを購入し自宅に貼っておくことを勧められ、俺はなけなしの持ち金をはたいておふだを購入した。

 初詣以外で神社に足を向けることなど、数年前の旅行の時以来だ。


 まさか自分がこんな目に遭うとは、想像したこともなかった。


 家に戻った俺は、壁に貼ったおふだを横目で眺めながら、帰り道で買ったウイスキーをストレートで流し込む。そうでもしないとやっていられない。

 その日は、3日ぶりに夢も見ないでぐっすりと眠れた。





 キキーッ。


 鋭いブレーキ音にはっと顔を上げた時には遅かった。俺の眼前に、軽自動車が迫る。目の前の映像はスローモーションになり、運転している中年女性の引きつった顔までが、はっきりと見てとれた。

 

 身体に鈍い衝撃を感じた瞬間、俺が最後に思ったのは、お祓い、間に合わなかったな、という陳腐な感想だった。



 佐伯さんに霊がついていると指摘され、神社でおふだを買った翌日の朝、俺は交通事故に遭った。道端を歩いていて軽自動車に突っ込まれる、という、完全なる他責事故だった。

 幸いと言うかなんというか、けがの程度は命に別条はなく、右の足首が折れただけだった。しかし、手術が必要な状態ではあり、念のため、手術日までしばらく入院することになった。



 朝の検温も終わり、ぼんやりと見慣れない天井を見上げる。糊のきいたシーツのよそよそしい感触、ぱたぱたと過ぎていく慌ただしい足音。懐かしい感覚だった。


 その時、遠慮がちに、巡らせたカーテンが開かれる音がした。


「よう」


 顔を出したのは、会社の同期の鈴木だった。


「災難だったな。大丈夫か」

「ああ、……悪いな」

「いや」


 そこで、鈴木が後ろを気にするそぶりをする。彼の背後からひょこりと姿を現わしたのは、小さくてかわいい新入社員の佐伯さんだった。


「木村課長……」


 あまりに弱弱しい声に、俺は動転する。


「本当に、すみません。……私のせいです」

「いやいやいや。どう考えても、君のせいじゃないよ」


 俺は焦って首を振る。


「いえ。昨日、お二人にどう思われようと、あの場で除霊をすべきでした」

「除霊……」


 おっさん二人は、その単語にさすがに気圧されて顔を見合わせた。

 佐伯さんは唇をかみしめたまま、ポケットから透明な小さな球が連なった数珠のような物を取り出すと、それを手にかけ、厳しい視線で俺を見つめた。


「木村課長。少々、お身体に触れさせていただいてよろしいでしょうか。除霊を、させて下さい」


 そう言うと、彼女は俺の左手を両手で握る。あまりに真剣な様子に、手、握られちゃった。ラッキー、などと思う余裕はなかった。


 佐伯さんは微かにうつむき、目を閉じて微動だにしなくなった。握られた左手から、微かに温かみが流れ込んでくるような感じがする。


 ひどく長く感じたが、おそらく数分しか経過していなかっただろう。

 ふいに佐伯さんの顔が苦し気に歪んだ。

 次の瞬間、弾かれるように俺の左手を離すと、彼女はベッド上の俺の傍らに突っ伏した。


「え、え、佐伯さん?!」


 身に沁みついたセクハラ教育の賜物たまもので、俺たちは彼女に触れることもできずただオタオタする。


 しばらく荒い息をついた後、佐伯さんはゆっくりと顔を上げた。にじみ出した汗に、額のファンデーションがやや崩れている。

 彼女はふうう、と細く長い息を吐いた。


「木村課長、……すみません、失敗しました」

「失敗……」


 俺はとにかく、彼女が無事そうなことにほっとした。


「ここは、彼女・・の領域だったみたいです。とても力が及びませんでした」

「領域」

「彼女は、ここで亡くなって霊になり、ずっとここに留まって力をつけていったようです。彼女の周りに、彼女をかわいがる無数のお年寄りたちの霊が渦巻いていて。彼女に触ることすら、できませんでした」

「ここで、亡くなった……」


 確かに、この病院は、数年前に建て替えられ建屋はきれいになったが、かなり古くからある病院だ。霊というものが本当に存在し、それが死んだ場所に留まるなら、それは大変な密集地帯だろうと思う。


「もうしわけ、ありません」

 唇をかみしめる可愛らしい佐伯さんの顔を、俺はのぞき込む。


「いや。こちらこそ、俺のために、ほんといろいろ、申し訳ない。……君の体に害はないの?」

「大丈夫、です。ここの霊たちは、基本的には善良な方たちなので」

「善良……」


 佐伯さんは、ふう、と息を吐いた。


「恨みつらみでこの世に留まっている方たちでは、ないようです」

「そうか……」


 どうとらえたら良いものか、戸惑いながらうなずく俺の顔を、佐伯さんがまっすぐに見た。


「彼女の言葉で、ひとつだけはっきり聞こえたものがあります。『約束を守って』と、彼女は木村課長に言っていました」

「約束を、守って……?」

「はい」


 一体なんのことだろう。俺には見当もつかなかった。





 鈴木と佐伯さんが見舞いに来てくれた翌日の夜、俺は悪夢に襲われた。部屋中をネズミのような小さな動物や虫が這いまわり、その虫は俺の肌の上までを這いまわる。俺は夜中叫び声をあげ、もだえ続けた。


「……木村、昨夜はだいぶ大変だったようだな」

「すまん……」


 翌朝、俺の前で口を引き結び苦い顔をしているのは、白衣を着た幼馴染だった。齋藤。小学生からの同級生で悪友で、今はこの病院で精神科医をしている。


「斎藤。信じてもらえるかは分からんが、俺、どうも、霊に憑かれているらしいんだ……」

「霊」


 齋藤の渋面はますます深くなる。

 こいつは幼少時から、徹底的な科学主義者だ。信じてもらえないかもしれないが、俺に起こった一連の出来事を説明するには、そこから始めるしかなかった。

 俺の話を、斎藤は最後まで黙って聞いていた。


「木村」


 すべてを語り終えて息をつく俺に、斎藤の奇妙に静かな声がかかった。俺の聞いたことのない響きの声だった。


「霊がいるかいないかは、俺にはわからん。だが、それとは別に、俺はお前に言わなきゃならんことがある。――昨晩のお前を襲ったのは、振戦せん妄と言う症状だ」

「シンセン……?」

「昨晩お前を苦しめたのは、霊障でも呪いでもない。アルコール離脱症状の一つだ。お前は、アルコール依存症……アル中だ」



 確かに、酒量は年々増えていた。数年来、酒を飲み深く酔わなければ、眠ることはできなくなっていた。

 それでも、幼馴染から告げられたその言葉は、俺に、人生でも一、二の衝撃をもたらすものだった。


「アル中……」

「お前の術前の血液検査の結果、確認した。肝臓の障害は大分ひどい。それ以外にも、もろもろ、栄養障害の一歩手前のデータだ。ろくに食ってないな。はっきり言って、お前の身体、ボロボロだぞ。アルコール依存症としては大分進んだ状態だ」


 齋藤の声は沈痛だった。


「アル中ってのは、ダメ人間がなる病気じゃない。お前みたいな、真面目で手抜きできないような奴が、知らない間にはまる落とし穴なんだ。……気づけなくて、悪かった」





 俺は、足首の手術後2週間で退院した。ギプスのはまった足での生活はそれなりに不自由だが、仕事も日常生活も、何とかこなせないことはない。


 入院生活では、アルコールの離脱症状にはしばらく苦しめられたが、ある時突然楽になった。それ以前も以降も、入院中に、いわゆる霊障と思われる出来事はなかった。


 そして俺は今、改めて調べなおして予約を取り直し、除霊の力の評判の高い神社に来ていた。蛇の道は蛇と言うのか、そこの神主はそういう業界では有名な人物らしく、佐伯さんも太鼓判を押してくれた。そして、佐伯さんと何故か鈴木が、除霊当日、俺に付き添ってくれている。


「ふむ」


 初回の除霊の失敗の経緯を、佐伯さんから簡単に聞き取り、神主さんは俺の背後を透かすように眺めた。

 彼は、上下黒色と言う、あまり見たことのない装束を纏っていた。


「あなた様も、若い身空で相当の力をお持ちとお見受けする。そのあなたが、相手の領域内とはいえ霊体にかすりもできないとは、尋常の力の霊ではないですね。……できれば、ご協力いただきたいのだが」

「私でよろしければ、喜んで」


 佐伯さんは、少し勇んだ様子でポケットから数珠を取り出した。鈴木がなぜか含み笑いをする。


 神主さんも目元を緩ませると、俺を、祭壇内の椅子へと誘った。

 


 結果から言えば、除霊は、またしても失敗に終わった。

 相当長い時間、祝詞のりとと言うのだろうか、呪文を唱え続けてくれた神主さんの声は枯れていた。きっちりと結い上げた鬢がわずかにほつれて、額に落ちかかっている。

 かすれた声で、彼は心の底から申し訳なさそうに俺に謝った。こちらの身が縮こまるような時間だった。


「本当に申し訳ない。私の、力不足です。彼女・・の周囲を固める霊たちは、佐伯さんが引きはがして下さり、私は彼女・・と一対一で渡り合ったのですが……負けました」

「はあ……」


 俺は現実感なくうなずく。


「初めに申し上げると、彼女は、決して悪しき存在ものではありません。そこも除霊を難しくしている点ではあるのですが。一般的には、守護霊といったものに近い。しかし、何よりも彼女は、その見た目とはかけ離れた、恐ろしく強い精神を持っている。幼少のみぎりより、想像を絶する過酷な経験をして来たものと思われます。そして、今その精神力の全てをかけて、あなたをまもろうとしている」

「まもろう、と……?」

「そう、あなたにとっては害でしかないように思われるかもしれないが、彼女があなたにもたらしているものは、全てあなたを思っての事柄ことがらのようなのです。そこから先は、あなたに考えていただくより他はない。……いくつか、私が知りえたことを、お話します」


 そこで水で口を湿らせて、神主さんは続けた。


「彼女は、名は『みお』と名乗りました。やはりお話の病院で息を引き取り、そこに留まっていたようです」

「みお」

 口にした瞬間、俺の脳裏が朱色に染まった。


「その子は、ボーイッシュな短髪でしたでしょうか。小柄でやせていて……」

 

 神主さんは目元をほころばせた。


「はい。……嬉しそうだ……」


 俺は目を閉じた。そうしないと、涙がこぼれ落ちてしまいそうだったからだ。

 俺は彼女を知っていた。かつて、おそらく、俺は彼女に、幼い恋をしていた。





「何で、よりによって俺にそれを頼むんだ。立場からすると、真逆だぞ」


 齋藤は渋い顔で俺を見つめている。

 H病院の精神科外来。俺は、患者として彼のもとに通っていた。


 交通事故からは数か月が経過し、右足首は無事にギプスも取れ、ボルトは残っているものの、日常生活には支障ない状態まで回復していた。しばらく、整形外科外来への通院予定はない。

 

「頼む。なんとか、彼女を成仏させたいんだ」

「……」

 

 俺の必死の懇願に、斎藤は何とも言えない顔で宙を睨む。


「だって、『霊』、だろ……」

「そうだ」

「凄腕の霊能力者でも、『除霊』できなかったんだろ……」

「そうだ。だが、おそらく彼女は、俺が心配で憑りついたんだ。アル中なんかになった俺が。だから、何とか彼女を安心させてあげられれば、彼女はきっと自由になる。また、好きなところに留まるか、成仏できるはずなんだ」

「……」


 齋藤は右の指をすり合わせる。考え込んでいる時の、彼のクセだった。


「……やってみるか」


 つぶやくような彼の言葉に、俺は弾かれたように顔を上げる。


「昔からさ、そういうものと精神科医っていうのは、因縁深いものなんだよ。“狐憑き”なんて、ほとんどは統合失調症の妄想だ。だが、患者との交流に深くのめり込んだ偉大な先人たちの一定数は、最終的にはスピリチュアルな世界に足を踏み入れていく……。俺は書物でも実体験でも、そういう人をたくさん見て来た」


 齋藤の目が俺を向く。


「俺は彼らとは違う。だが、その『霊』とお前が言うものへ、精神科医としてアプローチをすることは、恐ろしく興味がある。……催眠療法を使わせてもらう」


 古臭い手法だがな、斎藤は自嘲的に笑う。



 催眠療法を使いこなせる精神科医、あるいは心理療法士は、日本では本当に限られた者しかいない、らしい。幸運なことに、俺はその貴重な施術者の治療を受ける機会を得た。


 しかし、結論から言えば、除霊はまたまたまたしても……失敗だった。


「木村、今日は間違いなく、俺の精神科医人生で、一番忘れられない日だよ……」


 俺が目覚めた時、俺の横たわるリクライニングチェアの隣で、椅子の背もたれにぐったりと背を預けながら、斎藤は楽しげに笑っていた。


「ミオさん、凄い子だったな」

「……美緒と話したのか!!」

「ああ。話したっていうか……ずっと説教されてた。やべーよな、医歴15年の医者が、小学生に診療態度についてひたすら説教されるってさ……」


 齋藤はふふ、とシニカルに笑う。


「俺はある意味イネイブラーだって、言われたよ。返す言葉もなかったわ。俺にとってお前はどうしても友達でさ、突き放しきれないんだよな。あの子、俺たちのアルコール依存症の勉強会にもよくもぐり込んで、勉強していたらしい。全部、お前のためにだぜ……」


 俺は齋藤の言葉を聞きながら、もう一度、目を閉じていた。





 美緒に初めて会ったのは、この病院の院内学級だった。俺はそのころ、腎臓の病気で入院が長引いていて、一時的に院内学級に転校することになったのだった。


 そこは、様々な病気で長く入院を続ける子供たちが集まる、独特の空気の場所だった。

 美緒は、俺と同学年の女の子だった。消化器の病気を持っているらしく、小柄でやせぎすで、ひどく顔色が悪い子、と言うのが、俺のはじめの印象だった。


 だが、彼女は恐ろしく屈託なく豪快で、周りまでを明るくする太陽のような心を持った少女だった。

 彼女に出会って、俺のただひたすらに窮屈で退屈だった病院での日々は、突然黄金色に輝きはじめた。そのくらい、彼女は特別な力を持っていた。


 小学6年生の1学期が過ぎた頃、俺の退院が決まった。退院予定の前日の夕方、俺と美緒は、夕飯前にこっそりと、屋上に登った。


 周りに遮るものもない吹きさらしのそこは、暮れかかる夕日ですべてが真っ赤に燃えていた。


「木村君、退院だね」

「うん」

「いいね。私は、当分無理かな」

「美緒だって、……いつかは、帰れるんだろ」

「そうだねえ、いつかは。……肝臓移植、できたらかな」

「イショク?」

「うん。私の病気、……治らないの。でも、誰かから、肝臓の一部をもらえたら、もしかしたら普通に生活できるかも、しれないんだって」

「もらうの、誰からでもいいの? ……それなら、俺の肝臓をあげるよ」

「ふふふ……」


 沈みゆく夕日を眺めながら、美緒は笑った。大人のような、諦観のにじんだ声だった。


「木村君は子供だから、だめだよ。それに、テキゴウしないと、無理なんだ……」

「じゃあ、俺が大人になって、テキゴウしたら、俺の肝臓を美緒にあげる。だから、それまで、待っててよ」

「……うん、……ありがと。木村君、肝臓、大切にしてね」

「大切にするよ!!」

「約束だよ」


 夕日に茜色に染まった美緒の笑顔。柔らかい、夏の夕暮れの風。

 約束を、守って。佐伯さんに伝えたという彼女の言葉が、俺のみぞおちに突き刺さる。




「なあ、木村。お前、彼女に憑かれたまま生きていけよ」


 齋藤の声に、俺の意識は引き戻された。


「アルコール依存症ってのは、一生終わらない闘いを続けなきゃならん病気なんだ。極端なことを言えば、何年酒を断っていたって、たった一杯の付き合い酒で、最悪のループに引き戻される。死に至る病なんだよ。身体が限界になる人も、それ以上に、自分に絶望して命を絶つ人も、恐ろしく多い……」


 齋藤の声には、俺には窺い知れない深い闇の響きがあった。


「彼女、お前に酒を飲ませないためなら、何でもするだろ。それこそ車を突っ込ませたり……。生身の人間には、到底真似できないアプローチだわ。絶対、一生、断酒できるだろ」

「……」


 俺は黙って、リクライニングチェアに投げ出した自分の右足の傷あとを眺める。


 幼いころから、この限られた箱の中で生きて死んで。死んだ後もここに留まり、人間ドックでここを訪れた、ずだぼろの、約束を忘れた俺を見つけて。全てをかけて俺を救おうとした、俺の初恋の相手の魂の感触を確かめる。


「ああ、そうだな……」


 俺は、窓に切り取られた、茜色の夕日を眺める。

 微かに、美緒の、底抜けに明るい笑い声が耳をかすめた気がした。

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