第10話 哀れむな

「朝茶子様、おはようございます」


 佐々木夕月にとって、朝に片桐朝茶子に挨拶をするのはとても大切なことである。

 そもそも、人間関係に言葉をかけることは大事であるが、それより何より朝茶子は忘れっぽい。

 少し気にしている程度の相手なんて翌日の記憶にすら残らないなんてのも、ままあることだった。

 だから、自分が忘れられるという絶望を味わう前に、先んじて思い出してもらうために挨拶をするのは夕月に必要なルーチンだった。


「あ、夕月ちゃん、おはよー」


 果たして、今日この日。足代わりの高級車から現れた朝茶子は何気にすることなく振り返って夕月に対して理解の色を浮かべて挨拶を返す。

 その見目は、明らかなこの世を惹き付けて放さないかえしまで付いた恐るべき棘。声色は、そんなものから出てきたのだから、容姿に劣っていても魔性の域。

 勿論、美に理解の及ばない凡愚だってそれなりにいる。だが、それらにすら、ああこれはスゴイなと感動させてしまうのだから、朝茶子は抜群に過ぎていた。


 さあ、朝の挨拶の一幕すら、見てはいられない誘惑に。ただのひと言で残花の運命すら破壊してしまいかねない、そんな恐ろしいものに対して、夕月はにこやかに声をかけ続ける。


「朝茶子様は、今日もお美しいですね」

「えー、なら、夕月ちゃんなんてあたしもびっくりするくらい可愛いよ!」

「驚いて、なら目覚めは十分ですか?」

「うん! 今日も頑張れるよー」


 頑張る。そして、何を仕出かす気だろう。恐ろしくて、愛おしい。

 この世を犯す美しさに自信を殺されてしまった夕月は、縋りつくものを絶対な他者に切り替えてしまっている。

 そう、自分よりも大切な他者として、彼女は彼女を規定した。だから。


「ああ、今日もたんまりとありますね」


 自らの名前の付いた下駄箱に溢れんばかり放り込まれた沢山の嫉妬からくる罵詈雑言や狂気からくる意味不明を認められた手紙の数々をごみ袋に詰め込み、その手をときに画鋲の先端で傷つかせながらも。


「ワタシなんかで、あの人に向かう感情を留められているのだから、幸運ですね」


 何も知らない、知らせていない朝茶子のために自分がなっているという幸福に、今日も彼女は身震いすらするのだった。


「ここに投じてそれだけなのは、皆、あの方に並んで死にたくないから、なのでしょうね」


 納得の、そんなひとこと。

 ぱたり、と手にしていた袋から上履きを地に落とし。夕月は使いもしないレターケースのような下駄箱から、背を向けた。




 桜牙女子校。それは、朝茶子と夕月が通う女子校である。

 県下においても稀なくらいに閉じた校風は、ものを知らない者たちの好奇を呼び、桜牙を真似した読み物などが流行ったこともあった。

 ましてや、彼女らが包む衣服の多き白は無垢のようであり、綺麗を自ずと彷彿させる。

 お嬢様校として知られ、それ以上になんか女の子同士が仲良くしている本の制服ってこんな感じだよな、といったくらいに、この世の女子の象徴に近いアイコンにすらなっていたようである。


「でも、今やこの学校にて制服の色がキレイと思える人のほうが少数派でしょうか」


 確かに、白とは黒一点すらない無地。それこそ、白ですらうす汚いと思える肌色は、視覚情報の狂いだ。

 そして、感覚に狂気をもたらしているのは、片桐朝茶子という名のバケモノ。

 彼女は親しげに全てに近寄り、そしてふらふらと全ての価値観をバラバラにして去っていく。

 悲鳴は起きない。ただ、諦めの嘆息ばかりが、静かにその場に残された。


「故に、ワタシは孤独ですね」


 隔離された教室にて、遠隔授業中。受けているのは集中している朝茶子一人と、夕月ばかり。だから、彼女の独り言は誰に届くことなく消える。

 そう、それこそ、近寄っただけで心の根っこまで停まってしまいかねない、そんな相手に授業を毎日行うなんて危険に過ぎる。

 しかし、ガッコウであるからには美神の皮を着たバケモノにだって教えを施さないわけにはいかない。

 だから、苦肉の策としての、録画授業。それでも真面目に受けて、低飛行な成績を叩き出し続ける朝茶子の評判自体はまずまず、良かった。


「むしろ、おまけのワタシの方が危うい立場ですね」


 それを思うと、別途組分けされ違う教室で学ぶべきとされているのに隣で朝茶子に見惚れてばかりの夕月の方が、立場として危険である。

 幾ら彼女がトップクラスの成績を続けていようとも、美に虫みたいにひっつき続けるなんて悪いことばかりしていたら、悪印象が残るのも当然。

 しかし、なんだあの分をわきまえないブサイクは、とされた時。夕月はこの上なくおかしくなって、笑ったものだった。


「これでも、ワタシは多くに愛されたのですが」


 凹凸すら飲み込まんばかりのま白い肌に、こぶりな唇、ぱちりとした瞳はあまりに深い色をしている。

 これで、愛されないはずもなく、以前は夕月は当たり前のように親や友達、そして他人からいただく愛を当たり前のように享受していたというのに。

 だがしかし、そんなの朝茶子の前では破って捨てて良い、一枚に過ぎなかった。評価なんて、下らない。


 そう理解をした夕月は、だからこそ今日も好きにする。


「朝茶子様」

「んー? どうかした?」

「いえ。ただ、あなたの声が聞きたかっただけです」

「そっかー」


 頑張って人になろうとする、深部まで真っ白な器物の夢を横目に、彼女は届かない愛を胸に浮かべるのだった。




「ねえ、夕月ちゃん」

「なんでしょう?」


 そして、昨日に朝茶子の口の端からご飯を食んだことに対する憎しみばかりを今だ周囲より向けられる針のむしろの雰囲気の中。

 時折通りすがりに脇腹にぶつけられる上手に隠された痣になる程度の威力の肘鉄を気にもとめず、夕月は朝茶子と食事を続ける。

 勿論、家から持ってきたものでなければ何を入れたものが提供されるか分かったものではないので、夕月はお弁当をいただいていた。


 今日はしかし、幸運である。目を離したすきに、嫌なものを入れられたり、溢されていたりするのが最近多かったから。

 それにしても異性の体液とか、よくもまあガッコウにまで持ってこれたものである。そういうのは確かに嫌いだが、よく下手人も我慢できたものだ。


 想起しつつ、そんなこんなを気にすることもなく、ただ大事な朝茶子の言葉に耳を傾ける、夕月。彼女の前で、ほころびを貼り付けた朝茶子は、喋る。


「夕月ちゃんは嫌がるけど、お友達って、でもどんなのなのかなー」

「そう、ですね……」


 番いたく、一つになりたい。全てを朝茶子に委託している夕月には、彼女に対する同化欲求ばかりが顕著だ。

 しかし、どうしてだか朝茶子は自分を隣に並べたがる。後ろに一歩控えている今だってキツイのに、それ以上前に出てしまったら、きっと心が死んでしまうだろに。


 だが、朝茶子が友情というものに理想というものを持っていて、それに自分を宛てがいたがるのは、嬉しくもあった。

 だから、夕月は、すらりと言葉を吐き出す。特に、深く考えもせず。


「何かあったら変わりますが、そうでもなければ役に立つ他人ですね。距離的には、隣に置くのが正しい運用かと」

「えー」

「違いますか?」


 そうしたら、若干朝茶子が引いた。

 首を傾げているが、これは、当然夕月が悪い。だが、仕方ないとも言えた。

 何しろ、ひとたび朝茶子に絡みついてしまってからは、友情なんていうものは影形もなく消え去って久しい。

 ならば、彼彼女らが心に残した痕から、その形を事務的に語るようになってしまうのもどうしようもないことか。

 結局、あれらに美を超えた愛などない。そう断言出来るから、つまらないものと夕月は断じるのだった。


「うーん。あたしは、もっとこう、ステキで優しくって温かい、そんな抱きついても大丈夫な相手だと思うのだけど……」

「はぁ……まあ、そういう存在と定義するのも、アリ、かと思いますが」

「そうだよね!」

「……はい」


 朝茶子に向けられた、誰かのものまねの笑顔を見て、何故か夕月は奥に奥にこびり付いた記憶を、思い出す。


 それは、自分が助けなければいけないからと、ひどく虐められていた可愛そうな女子に手を伸ばした、過去。

 あの子は確か、瞑った瞳でワタシを見上げて。


『哀れむなですぅ。あんた、いつか地獄に落としてやるですよぉ?』


 そう、強がるでもなく当然のように言った。

 驚いたが、やがて可愛そうでなくなっていったその子のことは、忘れて、今まで記憶に蓋をしていたのだ。


 分からない。確かに今は地獄に近いが、天国のようでもある。なら、彼女の言う地獄にはまだワタシは至っていないのか。

 ならば、彼女の地獄は。そしてひょっとして。


 あの時、ワタシが間違えなかったら、あの子とだけは、友達になれたのかも。



「ワタシは、そんな相手が朝茶子様に出来ることを祈っていますよ」


 だがそんな予想は理想として処理。

 可愛そうな自分の今なんてものは見て見ぬふりをして。


「ありがとう!」


 ただ、愛すべき自分の代わりに対して、恋焦がれ続けるのだった。

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