香りたつ隠世

夢星 一

香り

 あれは、夏がまだすこし居残るような、秋の初めの日のことでした。

 よく、覚えています。昼間は夏の日のようにジリジリと暑いけれど、日が沈みやすくなり、夕方には汗が乾くようになる、そんな日でした。

 

 当時、私は病院内のコンビニでアルバイトをしておりました。私は学生で、朝早くや、夜のシフトではなく、昼間のシフトに入っていました。病院内のコンビニですから、お昼時になるとかなり忙しく、患者さんやその付き添いの方、そして看護師さんやお医者さんが一斉にお昼ご飯を買いに来るのです。聴診器を首からぶら下げたり、頭にキャップをつけたまま、急いだ様子でお昼頃を買いに来るお医者さんは何度も見かけました。そうなると私はロボットのように、ポイントカードの有無とレジ袋が必要かどうか、お弁当は温めるかを聞き、必ず何処かで音が鳴っているレンジを何度も開け閉めしていました。大忙しです。


 さてバイトが始まって数ヶ月、ちょっとした都合で店が閉まるのが早くなる時期が訪れました。病院内ですので、元から24時間営業ではありません。それでも夜の11時までは開店していましたが、この時期、閉店時間は6時になりました。

 休日でもあったので、その日、私は昼過ぎからその最後の6時までのシフトに入りました。5時ごろになると、店内の掃除などを始め、閉店の準備をします。時間になれば、今日廃棄すべき消費を回収したりと、する事はたくさんありました。

 休日は人が少ないので、その日店内にいるのは、私とベテランの女性のAさんと2人だけでした。私はアルバイトを始めて数ヶ月が経ちましたが、閉店作業をするのは初めてでしたから、何度もAさんに質問をし、新しい事をたくさん教えてもらいました。

 事務所やレジ後ろにあるゴミ袋を回収し、新しいゴミ袋を設置すると、集めたゴミを捨てに行く必要があります。Aさんは私の首に、関係者を示すカードをかけ


「奥の道を右に曲がってピッてしたらいいから!」


と笑って送り出しました。今までレジしかする暇のないシフトにばかりいたので、ゴミ捨てに行くのは初めてでした。私はかなり不安になりましたが、残りの作業をやってくれている彼女の手をこれ以上煩わせるのは申し訳ないと思い、最悪、申し訳ないが彼女に聞きに戻ろうと決め、軽いゴミ袋をサンタクロースのように肩にかけて歩き出しました。


 奥の道を右に曲がって……ピッてなんだろう?

 

 ピッとまた曲がったりする事を示す擬音かと思いましたが、曲がったところに「関係者以外立ち入り禁止」が書かれたドアがありました。そのすぐ隣に、何かをかざせそうな四角い装置がありました。私は首にかけられたカードを見、それが関係者用だと書いてあるのを確認してからそっと、その機械にかざしてみました。

 もしも違ったら、エラー音が鳴るだろう。そう考えていましたが、一体どんな音が鳴り響くのかは想像がつかず、少し怯えていました。なんせこの扉、扉の上にこの先が何であるかを示す名札が何一つないのです。もし、扉が開いたとしても、その先にたくさんのお医者さんや看護師さんがいたらどうしようかと思いました。そこに突然、コンビニの制服を着てゴミ袋を担いだ小娘が登場するのを想像すると、気まずいどころじゃありません。


 しかし扉はあっさりと開きました。

 すぐ目の前に行き止まりがあり、少々面食らいましたが、右側に行ける道が続いておりました。突き当たりでまた左に曲がるらしく、この通路に部屋は見当たりません。音も、全くしませんでした。院内は暗く、その廊下には明かりがついていましたが、それでもなんだか怖い雰囲気を醸し出しておりました。

 私はここで戻ってAさんに聞こうか悩みましたが、もしかするとこの先かもしれない。そう考えて進む事にしました。鍵を開けたらすぐゴミ捨て場が広がっている、なんて光景はちょっとまずい気がして、だから奥の方に設置されているかもしれない、と思ったのです。

 廊下を歩くと、私のスニーカーの音がキュッキュッと響きました。それはやけに大きく聞こえて、気をつけようと思ってもどうにも出来ない音でした。もしこの先に人がいたら、キュッキュッとなる足音が近づいてくるのはさぞ怖いだろうと思いました。


 あまりチンタラしていられないと思い、諦めて早歩き気味に進み、突き当たりを左に曲がりました。

 すると奥の方に大きな扉があるように見えて、そこに向かう廊下の左右に扉が二つずつ付いていました。私は目が悪く、そのくせメガネをつけていなかったので、その扉のようなものに文字が書かれているかは遠すぎて分かりませんでしたが、きっと期待できると思い、その奥の部屋に向かって進みました。


 静かで、明かりがあるのに何故か薄暗く感じる廊下を歩きました。ここが何の場所なのか確認するために、廊下の途中にある扉にも目を向けました。


 そこには「霊安室」と書かれていました。


 私は心底驚き、目をかすかに見開いて、思わず立ち止まってしまいました。慌ててその隣の扉も見ると、そこにも霊安室と書かれています。今度は後ろに振り返りました。後ろの扉には「廃棄室」と書かれていました。


 霊安室の前にある廃棄室なんて、一体何を廃棄しているか分からない。そう思いました。ゴミ捨て場をオブラートに包んだのかもしれないその言葉は、霊安室の文字の前では、様相を変えてしまいます。私は急に寒くなった気がしました。


 間違えたかな、と思いました。やっぱりここじゃ無かったのかもしれない。戻ろうかと悩みました。しかし、まだ奥の扉を見ていなかった事を思い出し、恐る恐る進んでみました。

 その扉は両開き式で、名札は何もありません。固く閉ざされ、さっきのようにカードをかざすところもありません。私ではどうしようもない扉に思われて、私は諦めました。


 しかしゴミは捨てなければなりません。ここにくるまで時間が少しかかっていますから、また戻るとベテランのAさんに迷惑をかけてしまいます。私が終わらないと、閉店作業は終わらないのです。

 

 私は廃棄室の前ーーそれはまた霊安室の前でもありましたがーーを彷徨きました。ここにもカードをかざす所があります。戻るにしても、可能性がある部屋、しかも1番可能性が高いここを確認せずに戻るわけには行きません。だけども背後の部屋の空気に気圧されて、私は何度も足踏みをしました。


 ガツン! と霊安室の中から叩かれるような音はしませんでした。誰かの足音だとか、謎の呻き声もしません。中に眠って人がいるかは確かではありませんでしたが、いないという保証もないのです。

 でも人が来たら怖いなと思いました。一体どんな人が、遺体を運ぶ以外の理由で霊安室に行くのかは分かりませんが、急に後ろの扉が開いて、お医者さんなどが現れても、きっと悲鳴をあげるくらい怖がると思いました。もしくは、自分が通ってきた廊下を通って、遺体が運ばれてくるというのも、心底恐ろしい気がしました。もし出くわしたら、こんな所で何をしてるのか、と空気を読むよう目で伝えられてしまいそうです。


 暫くウロウロして、私は意を決してカードをかざしました。ピッと音が鳴り、扉が開きます。飛び込むように中に入った私の視界に広がったのは、広い部屋に置かれた沢山のゴミ袋でした。

 ここで合っていたのです。

 奥まで暫く歩けそうなほど大きな部屋で、変な所に仕切りが置かれていましたが、その中身に差は見られませんでした。生ごみ以外のゴミが集まっているのでしょうが、ゴミ捨て場特有の、紙やビニール袋などが集まった、トンとした匂いがかすかにしました。部屋の奥に行こうとすると、背後で扉が閉まる音がしましたが、きっとまたカードをかざす所があるだろうと思ってそのまま進みました。右に曲がれそうだったので、先に顔をひょっこりとだすと、やっぱりそこには沢山のゴミがありました。特に分別をする必要は無さそうに思えたので、私は適当な所にゴミ袋を置き、早く店に戻ろうとドアまで行きました。


 ドアは閉まっていましたが、他の事に私はとても驚きました。カードをかざす所がなかったのです。

 軽く手で開けてみようとしましたが、固くて出来ません。でも、何処かに何かしらの仕掛けがないと、この部屋から誰も出られなくなってしまいます。半ばパニックになって、ウロウロしました。他の出口がないかと部屋の奥にまた向かい、閉まったシャッターを左側に確認しては、早歩きでまた戻ってきました。


 私は半ば泣きそうになって、どうしようどうしようと、しきりに呟きました。手を組んで口元に運びながら、ぐる、ぐる、ぐるとその場を回ります。


 ふいに金木犀の香りがしました。


 それは意識した途端に消え失せるような、一瞬だけ現れる、記憶を呼び起こす匂いのようでした。

 ハッと顔を上げても、景色は変わりません。

 さっき部屋に入った時にそんな香りはしませんでした。それに、金木犀が咲くにはまだ早い季節だと思いました。たしかに暦上は秋ですが、金木犀が咲くのは、寒さの影を朝や夕方、時には昼間にチラと見かけるような時期だと思います。あの頃は、まだ昼間には夏がいました。

 それに仮に咲いていたとして、どうしてその香りがこんなゴミ捨て場でするのでしょう。香水などが捨てられているのかとも考えましたが、それならばこの部屋に入った時に香るはずです。この香りは、たった今、突然、現れたのです。

 

 金木犀は鼻が慣れてしまうと、香りが少し弱くなる花です。だけども何度か深呼吸をすると、また香りが復活して鼻腔を通っていきます。なんとなく鼻と口を覆いながら、私はちょっと後退り、扉横の壁にもたれかかりました。背後が空いているよりは、壁で行き止まりがある方が安心したのです。

 浅くなってくる呼吸を戻そうとしながら、部屋の奥を見つめました。まるで部屋の奥から、左に曲がってこちらにくる何かを待ち構えるように。その想像はより鮮明となり、こちらに向かってくる何かの姿のバリエーションは豊かになりました。今にもそれが現実になりそうで、とても、とても恐ろしかったです。

 私は横に動こうとして、背中を壁につけたまま、足を横に踏み出しました。


 すると、足元でピッと音が鳴り、扉が開きました。


 私はすぐさま部屋を飛び出し、霊安室にぶつからないように慌てて立ち止まりました。その背後で、扉が再び閉まる、ガチャンという重い音がしました。何故扉が開いたのか、よく分かりません。それでも外に出られた事に安心して、私は大きく息を吸って深呼吸をしました。


 また、金木犀の香りがしました。


 それはさっきよりも強く、まるで私を包むかのようで。私は香りという布に巻かれた心地でした。


 金木犀が何処かにあるのです。


 あの小さな花弁たちを鼻先に近づけて、ようやく感じられた濃厚な甘い香りが、その時、私を強く抱擁していました。あまりの香りの強さにくらっとしたほどです。


 私は何が何だか分からなくなり、困惑したまま、ヨロヨロと香りを払うように手を振りました。もう戻ろう、と体の向きを変えた私の背後から、ザワザワと香りの風が吹きました。幻とも思えるような優しい手触りで、風が首筋や腕を流れました。


 私は一瞬立ち止まり、チラリと視線だけを後ろに向けました。扉は閉まっていました……おそらく。とても小さな黒い隙間が、扉の間にあったようにも見えますし、単なる影にも見えました。しかし私はそこに、見えぬ何かの目を見たような気がして、弾かれたように小走りで廊下を駆け抜けました。

 最期を迎えた死者の眠りを妨げないよう、足音があまり鳴らないようにと、ぴょこぴょこと跳ねるような奇妙な走り方で、走りました。霊安室から離れると、香りも離れていったみたいでした。


 私は急いで廊下を曲がり、ドア横の機械にカードをかざして、後ろも振り返らずに第二の扉を抜けました。そして店に戻り、少し迷ってしまったとAさんには軽く話して謝罪をし、残りの仕事を終えました。

 今日の廃棄品を回収しながら、私はAさんと軽く話をしました。


「Aさん、ゴミを捨てる所って、あの……霊安室の前の部屋で合ってましたか?」

「ええ合ってるよ。死んだら皆あそこ。ゴミ捨て場もあそこ。部屋から出るには、ドアの左っ側に足をぺいぺいって出すの。そしたらセンサーが反応して開くから」


 Aさんはコロコロと陽気そうに笑っていました。



 以上があの日にあった出来事です。

 特に怪物に遭遇したわけでもなく、何かの声を聞いたわけではありません。あの後取り憑かれたとか、悪夢を見たとか、そんな事も全くありません。



 ただ、ただ、金木犀が香っておりました。

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香りたつ隠世 夢星 一 @yumenoyume

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