第146話
新薬の開発は十年前に一度止まり、全てはうやむやのまま闇に消えた。
だが、それを掘り起して実用化まで漕ぎつければ、莫大な利権を手にすることができる。
脳科学の権威である江本教授が八割方まで進めて効果を確認し、最終段階にまで入っているのだから、あとは副作用を消すあるいは弱める方法を考え、幾らかの修正を加えるだけでいい。
一から新たに研究を始めるより、ずっと効率がいい。
そこまで考えて、ぞっと背筋が凍えた。
「ねえ、英ちゃん」
およそ彼女にはそぐわぬ沈着な面持ちで、凜は英理の袖を引いた。
「江本さんは、そのチョコを食べてなかったんだよね」
「ああ、多分な」
一度や二度は食べていただろうが、体に合わず吐き戻していた。
それは恐らく拒絶反応だったのだ。
自分にとってよくないものを弾き、受けつけまいとするための。
皮肉なことだ。
開発者の娘が、誰よりも鋭敏な感覚で新薬の危険性を証明することになろうとは。
そして三上保は、彼女と実験を守るために毒を食べた。
「だったら……」
言葉につかえ、口ごもりながら凜は言った。
「だったらどうして、江本さんには感情がないの?」
一瞬の間が空いた。
耳に受けとめた言葉が脳に伝わり、意味を理解して飲み下すまで、英理は唇を半開きにしたまま間抜け面で硬直していた。
凜の瞳には、紛れもない恐怖が映っている。
――本当だ。凜の言うとおりだ。どうして江本さんは……。
投薬実験を受ける前から、彼女は空白だった。
でも、そんなことはあり得ない。あるはずがない。
生まれつき、感情のない人間なんて。
「分からない」
英理は言った。
「でも、新薬のデータのためにここまでやるってことは、十年前の事件は彼女にとって重要なんだと思う。だから、きっと、彼女にも感情がないわけじゃないんだ」
「そうなのかな」
「そうだよ」
「そうだよね」
「ああ、そうに決まってる」
自分に言い聞かせるようにして、英理は言った。
凜は笑おうとしたが、瞳は脆く不安げに揺れている。
手を差し出すと、赤子のような強さで握り返してきた。
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