第144話

辿りついたウィークリーマンションには、つい先ほどまでいたであろう誰かの気配が残されていた。


ベッドの上ですやすやと眠っている少年を連れ、停めておいたタクシーを使って病院へと向かう。


苦悩と重圧に耐え続けてきた両親は、シュンの姿を見るなり顔を歪めて走り寄ってきた。


息子を抱きしめ、何度もその名前を呼ぶ。


英理はそっとその場から立ち去り、ガラスの自動扉をくぐって外に出た。


「ありがとな、凜」


「どういたしまして」


眠っていたシュンをおんぶして運ぶ間、タクシーを停め、シュンの両親と連絡を取ってくれていたのは凜だった。


「あの子がピコだったの?」


「多分な」


プラタナスの並木道を歩きながら、英理は澄んだ空を見上げる。


「あの子の持ってたタブレットで確認した。他のゲームもダウンロードされてたけど」


「ひどいことするね」


抑揚のない声が言った。


「誘拐って罪、重いんでしょう」


「ご両親は告訴しないと言ってた。息子が戻ってくれば、それでいいって」


「何で」


「シュン君は多分、自分が誘拐されたことを分かってない」


英理の目は深淵に沈む。


「友達と会う約束をして、その友達についていっただけだ。何か危害を加えられたわけでもない。部屋には吸入器も薬も揃ってた。発作を起こした様子もなかった」


「だから?」


「警察沙汰になれば、余計な心の傷をつくることになる。ストレスや負荷がかかれば、体にも悪影響があらわれるかもしれない」


それに、と英理は慎重な口ぶりで付け足した。


「江本弥生を訴えて法的に決着をつけようとするなら、彼女はここぞとばかりに十年前の事件の全容や新薬のことを持ち出すだろう。たとえそうでなくとも、事件のことが明るみに出るのは避けられない。入院中の楠方教授は容疑をかけられ、地位も名誉も剥奪されて責任を問われるだろう。


そうなれば妻や子供がどんな目に遭うか、楠方和久さんはよく分かっている。訴え出ることはしないよ」


そこまで言って目を上げ、英理は不意に立ちどまった。

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