第138話

「新薬開発の資料は読ませてもらったよ」


英理は眉をひそめた。


「AG207は前頭前野を活性化させて機能を高め、認知症や自閉症、ADHDといった病気に効果をあらわす、画期的な薬だった。副次的効果として集中力・思考力・記憶

力も高まるとされていた。つまり簡単に言うと、劇的に頭のよくなる薬だった」


言葉を切って弥生を見ると、否定も肯定もせずこちらを見つめている。


「あとは使用に至るまでの最終段階で、人体で作用を確認し安全性を確保する必要があった。中学生なら血液検査はもちろん、学力や知能指数を自然な形で定期的に測ることができる。実験場としてはおあつらえ向きだった。でも」


英理は率直に疑問を口にした。


「どうして実験を公表して被験者を募らず、こんな騙すような形でこそこそと秘密裡に進めたのか」


弥生は睫毛を伏せた。


「日本は治験に対する理解が進んでおらず、治験者を集めるには莫大な費用と時間がかかる。百名以上のサンプルを公に募って集めれば、治験だけで数年かかることも考えられる。その上、規制当局の認可が下りるにはさらに時間を費やすことになる。


研究所内でもたもたしている間にリークされて海外の製薬会社に盗まれたら、莫大な利益がふいになる。日本脳科学研究所としてはできうる限り迅速に事を進めたがったはずだ。手柄を横取りされたくないのは、江本教授としても当然の感情だろう。


そこで表向きは脳科学開発推進プロジェクト、希釈し数十倍から数百倍に薄めた薬剤を甘味料に混ぜたチョコレートを生徒たちに摂取させるという形をとった」


弥生は小さい手毬のような、可憐な溜息をついた。


「新薬を投与されてから半年足らずで、効果は目に見えてもたらされた。全国テストの平均点の著しい上昇、記憶力と思考力の成長、勉強においてもスポーツにおいても発揮される抜群の集中力。

だが、新薬の実験は失敗だった。なぜなら、その薬には恐ろしい副作用があったからだ」


データから導き出された分析結果は、この上なく明瞭にある一点を指していた。


鋭利な刃物で切り裂いた断点から、濁った血は膿のように溢れ出す。


自然と英理の声は低められた。


「実験から半年ほど経ったころ、AG207は前頭前野に働きかけて機能を飛躍的に高めるのと引き換えに、大脳側頭葉にある扁桃体の働きを著しく抑制するということが判明した。中学三年に上がるころから、一組の生徒に異変があらわれ始めたからだ」

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