第136話
「シュン君は小児ぜんそくだ。快方に向かっているとはいえ、発作が起きたら大変なことになる。そんな子を勝手に連れ出して」
すると弥生は人差し指を自分の口元に当て、かすかに微笑んだ。
英理が虚を突かれてたじろいでいると、
「もう少し静かな声で喋らないと、天使が逃げていってしまうから」
意味不明な発言に、英理は気色ばんだ。
「何だよそれ。ふざけるな」
ジュラルミンケースを床に置き、腕を掴んで捻り上げる。
憎らしいほど弥生は冷静なままだった。
ピアノの前の椅子に腰かけたまま、透きとおる目でこちらを見上げてくる。
彼女と対峙しているときだけ込み上げる、あの焦燥にも似たやるせなさが、じわじわと胸の奥を侵食してくる。
埋み火として灰の中に隠しておいたはずの怒りが、心の表層で尖って目が痛い。
手を離すと、弥生は勝手にジュラルミンケースを開け、中身を調べ出した。
「AG207」
英理は投げやりに言い放った。
「開発途中にあった新薬の研究資料、あんたが欲しがってたものの全てだ。楠方教授の研究室から持ち出してきたものを、俺と和久さんで確認した」
そう、と弥生は呟いたが資料をめくる手は止めなかった。
他にもCD-ROMやUSBメモリがあり、用意していたノートパソコンでそちらの内容も確認している。
濃い苦い疲労感に苛まれ、英理は目頭に指を当てた。
「どうして俺だったんだ」
ジュラルミンケースの蓋を閉じ、立ち上がった弥生に問いかける。
「何も言わないくせに、何で毎回俺のこと巻き込むんだよ。もう、いい加減にしてくれよ」
言いたくて言いたくて、けれど決して口に出せなかった言葉を口にしたとき、堰き止めていたものが決壊して感情が溢れかえった。
三上保を、父を、全てを奪っていく弥生が憎かった。
「あなたのお父さんは医薬局監理課の課長でした」
「分かってる。俺も無関係じゃないと言いたいんだろう」
英理は強い口調で遮った。
「でも実際、実験を主導してたのは江本教授、あんたの父親だ。脳科学研究推進プロジェクトを隠れ蓑に、チョコレートに新薬を混ぜて秘密裡に実験を行っていたんだ。違うか」
詰め寄ると、弥生は小さく頷いた。
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