第98話

予想だにしなかった斜め上からの回答に、英理はまごついた。


冗談を言っているのかと思ったが、見つめ返す保の表情は真剣そのものだった。


「俺が?」


「うん」


「……買いかぶりすぎだよ」


着替え終わった英理が更衣室のドアを開けようとすると、その前に回り込んで保は立ちはだかった。


「いいや、絶対だ。三百円賭けてもいい」


英理は吹き出した。


「三百円かよ」


嬉しかった。


言葉の真偽はどうあれ、今までそんな風に誰かから期待をかけられたことなどなかったので。


そういうふうに仕向けてきたのは自分だし、波風立てない生活を望んでいたのだから、それはそれでよかったのだけれど、本当は心のどこかで求めていた。


保のように何のてらいもなく人を信頼し、人に信頼されるような人間になることを。


「保」


ドアを開けて礼を言おうとした矢先、「しっ」と保は唇に指を当てて制した。


張りつめた表情で何かを窺っている。


緊張が伝染して、英理も思わず息を殺す。


放課後の散文的な空気を透かして、どこかからささやかな音色が転がってくる。


「聞こえるか?」


問われて英理は頷いた。


「ピアノ?」


「ああ」


懐かしく、優しく、美しい旋律だった。


ともすれば儚く消えてしまいそうな音の欠片を、保は目を細めて一心に聞き入っている。


――誰が弾いてるんだろう。


演奏者を、保は知っているに違いない。


まろやかな調べは円を描くようにゆっくりと、糸のように細く消えていく。

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