第36話

分かっていた。自分は、凜に嘘をついていたことを。


本当は、理由はあったのだ。


江本弥生を忌避きひする感情がどこから生まれくるのか、ちゃんと知っていた。


知っていたけれど認めたくなくて、だから、あんな風にぼやかした言い方しかできなかったのだ。


「向井君は、覚えていますか」


弥生のおとなしやかな声が、背後から忍び寄る。


「……何を」


声に出して初めて、喉がからからに乾いていることに気づいた。


三上保みかみ・たもつ君を」


痛烈な一撃がもたらす効果を見逃すまいと、弥生は英理の顔に視線を注いでいる。


叫び出したい衝動と逃げ出したい気持ちが、ない交ぜになって英理の胸に押し寄せた。


堪えるのが精一杯で、ぎゅっと硬く目をつむる。


背中に冷たい汗が噴き出すのが分かった。


「いたいた。何してるの、向井君」


慶子の声が横合いから飛んできて、金縛りが解けたかのように英理は体の自由を取り戻した。


「四時から会議って言ってたでしょう。部長、かんかんに怒ってるよ」


「すいません」


慌てて階段を一段飛ばしで駆け出した英理の背後で、ひとひらの言葉が風に舞う。


「ごめんなさい」


――え?


肩越しに振り向くと、弥生の姿はもうそこにはなかった。


聞き違いかと思い、特に心に留めず聞き流し、英理は業務へ戻る。


その言葉の意味を思い知ることになるのは、ずっと後になってからのことだった。























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