第35話




フロアに戻る階段の手前で、気配もなく弥生が立っているのを見て、英理は足を止めた。


「ありがとうございました」


非の打ちどころのない優美なお辞儀をされる。


「えっと。俺、何かお礼言われるようなことしたっけ」


弥生は答えず、じっと英理の目を見つめてくる。


限りなく透明な瞳の中に、彼女だけの国がある。


吸い込まれそうで、英理はおののいた。


「江本さんはさ」


強いてぐっと足を踏ん張り、歯を噛みしめて言う。


「何でうちの会社に入ろうと思ったの」


弥生は奥ゆかしくまばたきをした。


ほんの数秒の沈黙でも、相手によっては数十倍長く感じられることがある。


英理にとって、弥生はそういう存在だった。


気づけば、近づかなくていい理由ばかり探している。


「好きだから」


「え」


と英理が聞き返すと、


「ピアノが好きだから。いつか、ピアノ教室を開きたいと思ってるんです」


その途端、脳内で何かが弾けた。


撃鉄が起こり、記憶の引き金を引く音がする。


――忘れてた。そうだ、あの時……。


放課後の音楽室、弥生の奏でていた調べ。


思い出した瞬間、追憶が一気に溢れ出す。


我知らず、英理の足は震え始めていた。


――駄目だ……思い出したくない。思い出したくない。

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