弁財天の嫉妬

DITinoue(上楽竜文)

前編

 フハハ、フハハハハ。

 弁財天は神社を抜け出し、弁天橋を飛び越えて井の頭池のボート場までやってきた。

(わしは神なのだ。全てが思い通りになるハズなのだ)

 着物が秋風に当たり、ヒラヒラとなびく。今日も弁財天は“天誅”へと出かけるのだ。

「くっ、今日も居やがる。そんなにわしが恨めしいか……おのれ……!」

 彼女は毘沙門天に恋をしていた。あの方は絶対に自分に思いを寄せているはずだ、と会うたびにアピールを続けている。

(なのに、なのにじゃ! あの方は中々わしを見てくれない。気恥ずかしいのだ。お優しい方なのだから)

 そう自分に言い聞かせていても、目の前の若者を見ると苛立たしくなってくる。

(わしは毘沙門天様と結ばれないのに、なぜ庶民に恋ができるのだ。この世の中はおかしい。奴らを分からせてやる……!)

 弁財天は今日も“天誅”を食らわせるべく、静かに池の真ん中へ飛んでいくのだった。


 今日も池にはたくさんのボートが浮いている。ほとんどはサイクルボートとスワンボートだ。

 あの白鳥のキラキラした目が、弁財天は腹立たしくてならないのだった。

 と、あるスワンボートが目についた。中には三十代くらいの男と二十代半ばほどの女。

「お、漕ぐの上手いね、アキちゃん」

 男がそう言い、なんと突然、アキちゃんと呼ばれた女にキスをしかけたのだ。

「クソッ。天誅を下してくれる……!」

 弁財天はそっと目を閉じた。そして、右手を勢いよく前に突き出した。

「……ワ、岸さんツバが」

「は? 知らん。水が飛んできたんだろ」

「いや、タイミング的にツバでしょ」

 実際は、弁財天の神通力で水が跳ねただけなのだが、女に勘違いさせるには十分だった。

「もういいですよ、岸さん。これから家に来ないでください」

「いや、違うって。ホントに」

(フハハ。いい気味じゃ……!)

 弁財天にとって、カップルを別れさせることは天誅であり、一種の快楽なのだった。




 ハァ、ハァと荒い息が聞こえてくる。

 色黒で結構整った顔立ちの男子と、大きな瞳のポニーテールの女子がボート乗り場へ近づいてきた。

「ちょっとさ、剛。あんたこんな走らないでよ……」

「ま、武蔵野出身だからな。井の頭公園のことは良く知ってる。都心の引きこもりとは違うんだ」

 色黒の男はつんと、ポニーテールの女子の額に人指し指を当てた。

「ハァ?これでもアタシ、テニス部の優等生ですけど? サッカーしかできないバカとは違って、勉強もできるし、水泳も野球も体操も出来るんですけどぉ」

 ポニーテールの女子は色黒男の日本代表のユニフォームをぐいとつかんだ。

「んだと? もう一回言ってみろ。誰かバカだ。てか、俺の大切なユニフォームから手離せ」

「冬場で半袖半ズボンってバカじゃないの?」

「ワンピース着てるやつと大して変わらんだろ」

 彼らはああだこうだ口論しながらボート場へ足を進めた。


「お名前を書いてもらっていいですか?」

 ボート場で、ぽっちゃりした男性スタッフが訊ねた。

「ええっと、武市剛たけちつよし綾田あやたかな……」

 綾田かなが紙に書き込む。

「はい、ありがとうございます。スワンボート三十分、お二人で八百円になります」

「八百か……俺、金持ってきてねぇんだけど」

 武市剛が言った。

「ったく。あんたはこういうのだから大学の成績が上がらないんだよ。あ、これ八百円です」

 かなは剛を人睨みすると、スタッフに八百円を手渡した。

「はい、ありがとうございます。それでは、楽しい三十分をお楽しみください。お二人はお付き合いされているのですか?」

「一応そうなんすけど、彼女はかなり口悪くてね……」

「うるさい」

 かなは剛の服の襟をつかみ、白鳥の体内へ引きずり込んでいった。




 それからも、弁財天はスワンボートを転覆させ、岸に衝突させ、池に落ちたもみじをボートの中に入れてと、カップルへの“天誅”を続けた。

 ほとんどのカップルはこれで嫌気がさして、ほとんど何も言わずにボート乗り場へ帰ってゆく。

 これを三十分の時間が始まってすぐのカップルにけしかけると、嫌な空気が流れているまま三十分ボートに居なければならないという罰を課すことができ、弁財天にとっては最高に快いのだった。


 七井橋というボート乗り場がすぐ見えるところでスタンバイしていると、何やら騒がしい声が聞こえ始めた。

「かなが漕げよ!」

「なんでよ! そこはサッカー部の男が漕ぐでしょ!」

「ドラマじゃねーんだしよ、俺試合終わりだぜ? 無理に決まってるだろーが」

 何やら、色黒の男と瞳が大きな女子がもめている。

「その言い方はないでしょ! ここまで走って来てるんだから試合終わりでも行けるでしょうが!」

「お前こそそれはねぇだろ! 運動不足解消に漕いどけよ」

「はぁ?!」

「……クック、ク、フハハ」

 どちらも漕がずにちょっかいを出し合うカップルを見て、弁財天はクスクスと笑いを漏らしていた。

(こんなちょろいカップルなら、簡単に別れさせてやることができるな……)

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