第6話 商人
洗い物ぐらいはやる、とソルヤが出て行った後で入れ替わるようにイーリスが入って来た。
ソルヤが出て行くタイミングを見計らっていたのだろう。外で話しを聞いてもいたようだ。
「どうするのですか、これ。泣かせた上に仕事の契約まで結んでしまって、いよいよ引っ込みが付かなくなりましたよキザキ」
イーリスが私のテーブルの上から指輪を拾い上げ、それを自分の手にはめる。サイズはちょうど合うようだ。
「元々引っ込むつもりはなかった」
「強気な事ですわね」
「向こうの情勢が動けば、いずれ彼女に狙う価値は無くなるだろうさ」
クーデター政権が倒れるか、あるいは盤石になるか。天秤がそのどちらかに完全に傾けば、彼女が置かれている立場もまた変わるはずだ。
「だったらいいのですけど、あの子が狙われている理由が本当の所は分かりませんからね」
「もう少しクーデター政権の内情、調べられないか?」
「そりゃあ依頼とあらばやってみますけど、何分遠い北欧の出来事な上に現地は混乱の極みですからね。あまり期待されても困りますわ。あの辺りは今の所武器密売の需要も低いですからあまりワタクシ足場を作っておりませんの」
指輪を外して放り出すように私に投げ返し、イーリスは肩をすくめた。
「いっそ、お前がエルヴァリに入ってサクッとクーデター首謀者のリュトゥコネン将軍を弾いてきたらどうです?それで色々全部片付くかもしれませんよ?」
「やってやれない事は無いかも知れないが、海外での要人暗殺は入念な準備がいる。その間、ソルヤが無防備になるな」
お互い、冗談の口調では無かった。南米での事であれば、政府首脳級を暗殺した経験もゼロではない。
「それじゃあ、結局守りに全力を注いで情勢の変化を待つしかありませんか。それまでこっちの命が持ちますかね」
「お前に付き合えとは言わんよ」
「そりゃあワタクシは命を懸ける気はありませんけどね。少しはお前の気紛れに付き合ってもいいかもしれない、と言う気分にはなっていますよ」
「雇われる気は?金払いは中々の物だったぞ」
「少し悩んでいますね。情報屋としてならまあ雇われても構いませんが」
「俺を挑発したな、お前。ソルヤを助けさせるように」
「さあて、何の事やら」
「まさかお前、自分の過去とソルヤを重ねた訳じゃないだろうな」
私の言葉に、イーリスは今日初めて素の感情を見せた。不快そうな表情を作る。
「笑えない冗談はやめて頂けませんかしら?ワタクシとソルヤ殿下を重ねるなど不敬も良い所では?ワタクシの父親は死んで当然の人間でしたよ」
どうやら図星を突いてしまったらしかった。部下の裏切りによって父親を殺され、祖国を追われた。その点では、イーリスとソルヤは同じ境遇だ。
「すまん」
私は素直に謝った。長い付き合いだが、それでも互いに触れられたくない所は残している。
「分かって下さったのなら、いいのですけど。それにしても、甘い物ですわね。ワタクシがトラブルに巻き込まれた時は、いつも冷たい態度なのに」
「お前は大抵、自業自得だろうが。そして大抵、自分で何とかする」
「自分で何とかしようとしない女は嫌いな癖に、良くもまあ」
「それはまあ、そうだな」
イーリスが自分から私に助けを求めて来た事は、今まで一度も無かった。
「何か今の時点で必要な物は?」
「取り敢えず.357マグナムを五十発ほど。ベネリM3と散弾、ゴム弾を三十発ずつ。スタングレネードを三、四個。後ソルヤに合うサイズのインナーで着れる防弾装備とガスマスク二つ」
「おやおや、まさか非殺傷を目指すおつもりですか?本職の諜報員達を相手に?」
「相手の内情が分からん。捕まえて口を割らせる必要もあるだろうさ」
「そう言う言い訳もありましたか」
「何を言いたい?」
「昨夜は随分簡単に撃退したようですけどね。恐らく向こうの状況が落ち着くにつれてどんどん質の高い連中が送られてきますわよ?」
「相手を甘く見てはいないさ」
過去に一度だけ、マトモに政府が機能している国の諜報機関を敵に回した事がある。
個人の能力ではどうしようもない完成された組織の力、と言うのを味わう事になった。その時切り抜けられたのは、ほとんど幸運に恵まれたからだ。
エルヴァリの対外諜報局、と言う物がどの程度かは分からないが、少なくとも相手が全体で継ぎ込めるリソースは、その辺りの犯罪組織とは比べ物にならないだろう。
「ま、王女殿下に慮ってなるべく人を殺さないようにしようとか、そんな甘い事を考えている訳で無いのなら良いのです」
「俺がそんな事を考える人間だと思うか?」
「亡国の王女を守るなんて事をやり出す人間だとも思っていなかったので」
イーリスは自分の荷物の中から本を何冊か出すと私の本棚に入れ、それから入れ替えるように何冊かの本を抜き出した。
彼女はこうして私の本棚から、いつも勝手に本を持って行く。
「ま、今頼まれた物ぐらいなら倉庫にほぼ在庫がありますので、後で受け取りに来てください」
イーリスが手に持った本の一つを私に見せながら言った。ウンベルト・エーコだ。
「すまん、一つ忘れた」
「何でしょう?」
「ソルヤの着替えも頼む。と言うか生活に必要な物について、相談に乗ってやってほしい」
下着の替え一つとっても、私が相手では相談しにくい、と言う事があるだろう。
「そう言う事でしたら」
イーリスが身を乗り出してきた。
「三人で買い物に行きません?せっかくですから少し遠出して」
「何?」
明らかに何かを企んでいる顔だった。
「県外のアウトレットモールとかはいかがですか。車で一時間半ほどで手頃ですわね」
「何を考えているんだ?」
「現状、待つだけでは不利になるだけですからね。相手の体勢が整っていない内に動くのも手かと」
「なるほど」
少し考えて私は頷いた。
情報を流してこの街から離れた所に敵を引き付け、そこで先手を打って何人か捕えよう、と言う事か。
「情報、流せるか?」
「何しろ事実を流す訳ですからね。問題無く」
「いいだろう、乗ろう」
時間を置けば相手の体制も人員も整う可能性が高いのは確かだった。
「だがいいのか?」
「何がでしょうか?」
「それについて来れば、お前も直接関わる事になるぞ」
「どうせお前の身元が割れれば遠からずワタクシも目を付けられますわ。お前が一緒にいれば大抵の事はどうとでもなるでしょうし、本当にヤバイ事になったらその時はさっさと雲隠れしますのでお構いなく。さっきも言ったように命を懸ける気はありませんから」
イーリスが本当は死ぬ事を恐れているのかどうかは、いつも良く分からなかった。
自分から必要も無いのに危険に近付いていく節はある。私のような人間と半端に関わり続けているのも、恐らくその一つだろう。
自分はどれだけ危険に踏み込んでもギリギリの所で大丈夫だと信じながらそのスリルを味わっているようであり、一方で本当は死ぬ事を何とも思っていないように思える事もあった。
それは彼女が実際に死に掛けるような目にあっても、変わらない。
私自身は、自分が死ぬ事など、明らかに何とも思っていなかった。死ぬ時は死ぬだけだ。自分が死ぬ事で、その瞬間に死と言う物が何なのか分かるなら、それもいい。
「じゃ、上手い言葉で王女殿下を誘ってくださいね」
イーリスはそう言うと、手に持っていたエーコの本を鞄に仕舞い、部屋から出て行った。
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