第2話 王女

「まだ終電には間に合うな。どこか駅に送って行ってやろうか?それとも警察に行くか?警察で被害届を出すんなら、俺は証言には付き合えないが」


 そう言いながら横目で少女の顔を観察した。


 金髪の髪は長く伸ばして後ろでリボンで括っている。大きな瞳とツンとした鼻が強い意志を表に出しているが、同時にわずかに垂れた眉が人の好さを醸し出していた。


 美しい、のだろう。だが私の心には容姿の美醜その物よりも、その気丈な表情の方が何か心に訴えかけて来る物があった。

 過去の女の記憶を束の間、掘り返す。似た女など、いなかった。しかし、私はその面影に何かを思い出していた。


「警察……警察には、行けないかな。多分行けば、向こうも困ると思う」


「警察が困るってどんな厄介ごとの渦中にいるんだ……あー……」


「ソルヤ。ソルヤ・イルタ・アハティサーリ」


 少女がそこだけとても流ちょうな発音で言った。


「アハティサーリ?」


 どこか聞き覚えのある姓だった。最近、ニュースで聞いた気もする。


「君は?」


 少女……ソルヤが訊ねて来る。明らかに年上の、しかも一方的に助けられた相手を君呼ばわりするのは高飛車と言ってもいい態度のはずだったが、不思議と少女には傲慢な雰囲気は全く無かった。


城崎きざきけい


 名乗った。普段であれば行きずりの相手に本名を名乗ったりはしない。ダミーの名刺や身分証もいくつか持ち歩いている。本名を名乗った理由は、自分でも分らなかった。


 キザキケイ、とソルヤは私の名前を復唱している。


「警察が無理なら、誰か頼れる相手は?」


「今はいない、かな。大使館から逃げて来たんだし」


「大使館か。思い出した、アハティサーリ。少し前にエルヴァリでクーデターが起こったな。それで殺された国王の姓がそれだった」


 エルヴァリは北欧の小国である。昔一度だけ滞在した事があった。自然の豊かさと厳しさが両立した、居心地のいい国だった。


 東西の勢力がそれぞれ介入し、内戦状態になっているらしかった。しかしニュースの扱いとしては、日本では小さな物だ。


 クーデター、内戦、武力侵攻。そんな以前はアフリカや中南米、アジアの一部だけの物だと思われていた事件が欧米でも頻繁に起こるようになった事に、日本人も馴れ始めている。

 エルヴァリは親日国だったらしいが、冷淡な物だ。


「そうだね。私はその国王の娘。王女って事になるかな」


「それはご愁傷様だったな。とするとあの連中はクーデター側の諜報員か何かか」


「多分、そう。表向きは大使館の職員だけどね。クーデター直後にこの国に逃げて来たけど、段々大使館の人間が入れ替わって行ってね。大使に、逃げるように言われたんだ」


 大使館がある東京から地方都市であるこのN市まで、あてどなく流れるように逃げて来た、と言う事だった。ほとんど何も考えず、追手の気配から必死に逃れて来たのだろう。


 今までの二十四年の人生でそれなりに厄介ごとには首を突っ込んで来たが、その中でも飛び切りの厄介ごとの気配がした。


 クーデター政権は強硬な反東側の政策を掲げており、ほとんどの西側諸国はクーデター政権を承認する方向にまとまりつつあるらしい。


 十年前ならいざ知らず、現在では非合法な政権だろうとなんだろうと、自分達を支持するのならば西側も承認するだろう。


 それほどにここ数年で東西の新冷戦は激しさを増している。


 エルヴァリのクーデター政権と日本政府の関係が今具体的にどうなっているのかは知らないが、この情勢でエルヴァリの大使館から逃げて来た諜報員に追われる王女に駆け込まれても、警察が困るだけなのは確かだろう。


「捕まったら、どうなるんだ?」


「本国まで連れ戻されて、良くて軟禁、悪くて処刑。クーデター派の正当性強化のために強引に政略結婚と言うのもあり得るかも知れないね。あるいは意外とその場で殺して死体はどこかに埋めるだけかも」


 そう言ってからソルヤは、肩に担いでいたスポーツバッグを下ろし、大切そうに膝に抱えた。


 口調自体は、何でも無いような物だ。同情を誘ってるふうでも無ければ、自己憐憫に浸っている訳でもない。

 ただ、肩は小刻みに震えている。


「キザキは、何の仕事を?」


「私立探偵」


「へえ。日本の探偵は強いんだね。アニメのキャラみたい」


「たまたま、さ」


「あの三人は、あれでもプロだよ。それを一人で倒してしまった。それに、相手が銃を持っている事に目ざとく気付いて、すぐに逃げを選んだよね。あの判断の速さも、たまたま?」


 状況は冷静に見ていたようだった。男に噛み付いたのも、反射的にではなく、私を援護しようとしてやったのだろう。


「銃を持っているなんて分かれば、そりゃ飛んで逃げるさ」


 私をからかっているのか、探りを入れているのか、ソルヤの口調からは判別が付かなかった。どちらでもいい事だ。


 夜の街を、走り続けていた。他に車はほとんどいない。背後から追って来る車の気配もなかった。


 適当な所で車を停め、降りろと言う。

 それで、自分と彼女の関係は終わりのはずだった。助けた恩を返せと言う気も無ければ、これ以上関わる気もない。


 それでも私は、彼女を助手席に乗せたまま、車を走らせ続けている。


「助けてもらったお礼、何かしなくちゃいけないね」


 思い出したようにソルヤはそう言い、スポーツバッグの中から何かを出してきた。

 ダイヤの指輪だった。1カラットはあるか。私には詳しい鑑定は出来ないが、安い物では無いだろう。


「これは特別な物じゃないけど、価値はあると思う。国を出る時に、宝石と貴金属はたくさん持って行くように言われたんだ。失礼じゃなかったら、貰ってほしい」


「いらんよ。俺が好きで助けただけだ」


「優しいんだね、君は」


「そうかな」


 自分が優しい人間だと思った事は一度も無かった。同じ場面に次に居合わせても、気分次第で平気で見捨てるだろう。


「お礼を受け取ってももらえないのに、これ以上お世話になるのも悪いから、そろそろ車を停めてくれるかな?」


「車から降りて、行くアテがある訳じゃあるまい」


「それはそうだけど、それは君には関係が無い事だよ」


「取り敢えず、今夜は面倒を見てやる。ウチに来るといい」


 私がそう言うと、ソルヤは初めて戸惑ったような表情を見せた。何度か瞬きをする。


「それは、もう迷惑じゃすまないよ。君の身も、危ないかも知れない」


「道で野良猫を見付けて、一回だけ餌をやって後は放っておくような真似は、したくない」


 私がほとんど口から出まかせに放ったような言葉に、ソルヤはしばらく戸惑ったような顔を続け、それからどこか呆れたように首を振った。


「やっぱり、優しい人。それはそれとして、女の子を野良猫に例えるのは、どうかと思う」


「贅沢を言えた立場か」


 私の言葉に、ソルヤは微笑んだ。

 自分の置かれた辛い状況も、ここまでに味わったであろう悲しみも、全てのみ込んだような笑顔だ。


 我ながら馬鹿な事を始めている、と言う自覚はあった。


 正義感なのか、好奇心なのか、同情なのか、あるいはヒロイズムなのか。どれにしても、安っぽい感情だった。

 ただ、ここで目の前の少女を見捨てれば、何か大切な物を無くしてしまう。そんな気がしていた。

 その大切な物が何なのかは、分からない。それもただ、過去の記憶の中から曖昧な感覚としてだけ訴えかけて来る、何かだ。


「それじゃあ、助けてもらってばかりで心苦しいけど、ひとまず一宿一飯の恩義にも預かります」


 そう言ってソルヤは頭を下げた。


「妙な日本語知っているな、お前」


「日本の映画もアニメもコミックも、大好きだから」


 顔を上げたソルヤは、また微笑んでいた。

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