第38話

 そのときだ。奥の個室から、ジャーという水洗の音が女子トイレの中にひびいた。


 オレは緊張した。『おくねさん』だ。夏美が言っていたように、オレの最後の女子トイレ罰掃除に合わせて現れたのだ。


 オレが見ている前で、一番奥の個室のドアがゆっくりと開いた。中から白いワンピースの女が出てきた。前髪を長く顔の前に垂らしているので、顔は見えない。右手には包丁を持っている。いつもの『おくねさん』の姿だ。


 オレが『おくねさん』を見るのは今日が三回目だ。しかし、オレは何回出会っても『おくねさん』の恐怖に慣れることができない。今日もオレの足が恐怖で震えた。


 『おくねさん』がオレを見た。すると、『おくねさん』の動きがピタリと止まった。オレは肌色のレオタードと肌色の『スキャンティーピカリ』を身に着けているだけなのだ。だから『おくねさん』には、オレが素っ裸で突っ立っているように見えるのだ。


 しかし『おくねさん』は一瞬、狼狽する気配を見せたものの、すぐに立ち直った。ゆっくりオレに近づいてきて声を出した。地獄の底から響くような不気味な声だ。


 「見たな」


 オレは情けないことに、その声で女子トイレの床に尻もちをついてしまった。足が震えて立てない。オレが手に持っていた掃除用のデッキブラシが、オレの手から離れてカラカラとトイレの床を転がっていった。


 『おくねさん』がオレの前に立った。オレを見下ろしながら、右手の包丁を頭上に振り上げた。


 殺される!・・オレは眼をつむった。


 そのとき、女子トイレの入り口にある個室から夏美が飛び出した。夏美は尻もちをついているオレの横に立つと、背筋をピンと伸ばして高らかに声を張り上げた。


 「古典日本舞踊 扇子・・・」


 日曜日にオレと夏美が道明寺から古典日本舞踊を習ったときは、道明寺は「古典日本舞踊 扇子基本動作 その1 『ちん、とん、しゃん』」と言った。しかし、今日、夏美は『扇子』と『基本動作』の間の『の』は言わずに、こう言ったのだ。


 「古典日本舞踊 扇子(せん) 基本(ほん)動作 その1 『ちん、とん、しゃん』」


 突拍子もない突然の夏美の叫び声に『おくねさん』はビクッと驚いて、動きを止めた。包丁を振り上げたままだ。茫然と夏美を見ている。あまりに驚いたので、思考が一瞬だが停止しているようだ。


 オレの身体が勝手に動いた。オレは尻もちをついていた床から立ち上がった。オレはトイレの壁際に置いてあった扇子と内股練習用の厚紙を手に取った。扇子を広げて右手に持つ。厚紙を太ももの間にはさんだ。


 夏美の声が女子トイレの中に響いた。「ちん」


 オレは扇子を頭の上に持っていく。


 女性が温泉でタオルを頭に載せている仕草だ。胸と股間はがら空きというスタイルだ。オレの足が自然に内にキュッと締まって、太ももの厚紙がブルッと左右に揺れた。


 『おくねさん』がオレの方を向いた。


 素っ裸で、太ももに厚紙をはさみ、扇子を頭の上に持っていったオレを『おくねさん』が茫然と見つめている。何が始まったのか理解できないといった様子だ。しかし、『おくねさん』も何かやらないといけないと思ったのだろう。振り上げている包丁を持つ手を、オレに合わせて頭上に持っていって水平に構えた。包丁を頭に載せたタオルに見立てているのだ。


 これで『おくねさん』に包丁を振り下ろされることはない・・・さすが夏美だ。夏美のお陰で助かった。オレは安堵の息を吐いた。


 続いて夏美の声が飛んだ。「とん」


 オレは今度は扇子を胸の前に持っていく。


 女性が温泉で胸を隠している仕草だ。胸だけ隠して、股間はあけっぱなしというスタイルだ。オレの足が自然に内股になる。オレは内股になるのに合わせて、今度は太ももを上下させた。オレの太ももの厚紙がブルッを上下に揺れた。


 『おくねさん』もオレに合わせて、包丁を持った手を胸に持っていく。オレにつられて、温泉で胸を隠す仕草をしているのだ。


 もう一度、夏美の声が飛んだ。「しゃん」


 オレは扇子を股間に持っていった。女性が温泉で男性にうっかり股間を見られてしまったので、あわてて股間を隠す仕草だ。オレの内股になった足がさらにキュッと引き締まった。オレは内股でひざを大きく回した。オレの太ももの厚紙が大きく円を描いた。


 『おくねさん』もオレに合わせて、包丁を持った手を股間に持っていく。うっかり男性に見られた股間をあわてて隠す仕草だ。『おくねさん』が内股になって、モジモジとしながら、オレにもう一度言った。


 「見たな・・・」


 すると、夏美が再び背筋をピンと伸ばして、高らかに声を張り上げたのだ。


 「古典日本舞踊 扇子(せん) 基本(ほん)動作 その2 『平家物語』」

 

 オレの背筋がピンと伸びた。『おくねさん』も夏美の声にビクッとなって、背筋を伸ばす。


 夏美の声が飛んだ。能の謡曲を謡うような節回しだ。「ィィおんンンンンン」


 オレは立ったまま片手で扇子を動かして大きなキノコを描く格好をした。


 古都京都のシンボルの京都タワーだ。


 『おくねさん』はオレの手の動きに驚いて眼を見張っている。なんでキノコがでてくるのか分からない様子だ。だが、あわててオレに合わせて、包丁を持った手でキノコを描く仕草をする。なんだか特大のキノコを包丁で切って、料理の支度をしているようだ。


 再び、夏美の声が飛ぶ。「しょうゥゥゥじゃァァァ のォォォ」


 オレは、厚紙を太ももにはさんだまま、内股でしゃなりとその場にしゃがみこむ。そして、扇子を刷毛はけに見立てて障子のさんに糊を塗る格好をする。それが終わると、扇子を垂直にして『障子紙』に見立てた。『障子紙』を貼る仕草だ。


 『京都祇園にある障子屋の娘』が障子を貼っているのだ。実に女性っぽい仕草だ。


 『おくねさん』もオレと同じように内股で床にしゃがみ込んだ。そして、同じ高さにあるオレの顔をのぞき込んだ。このために、オレが扇子を刷毛はけに見立てて糊を塗ると・・・まるで、『おくねさん』の顔に刷毛でファンデーションを塗っているようだ。次いでオレが『障子紙』を貼ると・・・まるで、『おくねさん』の顔にパックをしているようだ。


 オレと『おくねさん』は並んで内股になって、床にしゃがんだままだ。まるで、女子二人が、二つ並んだ和式トイレで、内股にしゃがみ込んで『連れション』をしているような格好だ。


 『おくねさん』が眼を白黒させてオレを見ている。『おくねさん』がしゃがんだままで声を出した。


 「お、お前は、いったい・・何者だ?」


 オレの口からも声が出た。内股になってしゃがんでいるので・・思わず女性言葉になってしまった。


 「京都祇園にある障子屋の娘よ」


 『おくねさん』の声が裏返った。


 「き、京都、ぎ、祇園にある、し、障子屋の娘ぇぇぇぇぇ・・・?」 


 まるで、女子二人が、二つ並んだ和式トイレで、内股にしゃがみ込んで『連れション』をしながら、おしゃべりをしているようだ。


 夏美の声が響く。「鐘ェェェェ のォォォ 声ェェェェェ」


 オレは立ち上がると、扇子を釣り鐘を突く木の棒に見立てて、前後に動かす。


 障子を貼り終わった『京都祇園にある障子屋の娘』が、近所のお寺に行って、お寺の釣り鐘を突く格好だ。


 『おくねさん』も立ち上がると、オレの扇子に合わせて、頭を前後させている。オレが『扇子の突き棒』を突くと『おくねさん』が頭を後ろに下げて、オレが『扇子の突き棒』を引くと今度は頭を前に突き出すのだ。その頭の動きが、まるで、キツツキが木をつついているようだ。


 夏美が謡う。「しょォォォォォ ぎょうォォォォォ」


 オレは腰をかがめて、扇子は脇にはさんで、両手を腰の前で揉み合わせる。オレの口から「まいどあり〜」と声が出る。


 『京都祇園にある障子屋の娘』が、障子貼りを依頼しに来たお客さんに、揉み手をして「まいどあり~」と言う格好だ。


 『おくねさん』もオレに合わせて、揉み手をしながら「まいどあり~」と声を出した。しかし、すぐにオレを見て「なんでやねん!」と言った。


 夏美が続ける。「無常むじょうォォォォォ のォォォォ 響きィィィ ありィィィィ」


 オレは顔の前で扇子を立てて振る。オレの口から「タダなんてできると思とんのかい。顔でも洗って出直してこんかい。このボケ!」という迷セリフが出る。


 障子貼りを依頼しに来たお客さんが「無償にしてくれ」、すなわち「タダにしてくれ」と言ったので、『京都祇園にある障子屋の娘』がそれを断る格好だ。


『おくねさん』がオレの声に驚いて「タダはあかんのか!」とつぶやいた。


 夏美の声は終わらない。「沙羅しゃらァァァァ 双樹そうじゅのォォォォ」


 オレは扇子を広げて皿に見立てた。片手で『扇子の皿』を持って、片手に持った布巾ふきんで拭く仕草をする。皿に息を吹きかける。


 『京都祇園にある障子屋の娘』が丸い皿を拭く格好だ。


 オレは『おくねさん』の顔に息を吹きかけた。以前、山西の顔に『窓ふきダンス』で息を吹きかけたのと同じような仕草だ。


 オレの息がかかった『おくねさん』が顔をしかめた。そして、激しく咳き込むとオレの顔を見た。口がポカンといている。その口から声が出た。


 「姉ちゃん。餃子のニンニクの匂いがしてるで・・」


 そうなのだ。オレは昨日たっぷりとニンニクが入った餃子を腹一杯食べたのだ。


 『おくねさん』がぽつりと言った。


 「若い娘がニンニクぷんぷんやて・・」


 オレは『おくねさん』の顔にもう一度息を吹きかけた。


 夏美の声が続く。「花ァァァァ のォォォォ 色ォォォォ」


 オレは右足を一歩前に踏み出す。それにかぶせるように右肩を大きく前にかがめる。すると、レオタードの背中にプリントされた桜吹雪が丸見えになった。オレから「てめえ、この背中の桜吹雪が見えねえのかい! このボケ!」という決めセリフが出た。


 『京都祇園にある障子屋の娘』が背中の桜吹雪を見せる格好だ。


 『おくねさん』が「ははぁぁぁ。恐れ入りました。お奉行様。このボケ!」と言って、女子トイレの床にひれ伏した。


 夏美の声はさらに続く。「盛者じょうしゃァァァァァ」


 オレは扇子を上げてタクシーを止めて、そして、次に片足を順に上げてタクシーに乗り込む格好をする。太ももに厚紙をはさんでいるので、内股で大きく腰を振る格好になった。オレは自分の仕草にうっとりとなった。う~ん、色っぽい・・・


 『京都祇園にある障子屋の娘』が京都市内でタクシーに乗車する格好だ。


 『おくねさん』も包丁を持つ手を上げてタクシーを止めて・・・内股でタクシーに乗る格好をする。内股で右足を上げると、白いワンピースのすそが乱れて、パンティーの右側が露わになった。思わずオレの口から声が出た。


 「おっ、今日は赤色だ」


 前回の『おくねさん』は、白いワンピースの下に白いパンティーだったが・・・オレは首をひねる。白いワンピースの下に赤いパンティーを履いたのでは・・赤色が白いワンピースに映って透けて見えてしまうじゃないか! オレはそう思ったが・・オレが口を出すことではない。


 『おくねさん』がオレにまた「見たな・・」と言った。


 『おくねさん』はタクシーに乗り込む格好を終えると、今度はオレに「お客さん。どちらまで?」と聞いた。運転手のつもりなのだ。


 続いて夏美の声が女子トイレに響く。「必衰ひっすいィィィィ のォォォォ」


 オレは手の上に扇子を広げ、その上にヒスイを乗せて、前にいる運転手に見せる格好をする。声が出る。「運ちゃん、わての持ってるヒスイを買わへんけ?」


 『京都祇園にある障子屋の娘』が京都市内でタクシーに乗って、タクシーの運転手にヒスイを売ろうとする格好だ。


 『おくねさん』が「ひィィィィ すゥゥゥゥ いィィィィ だってぇぇぇ? なんでヒスイを売ってんねん?」と頓狂とんきょうな声を出した。


 夏美の最後のフレーズが女子トイレの中に高らかにひびき渡った。


 「ことわりィィィィ をォォォォォ あらはすゥゥゥゥゥ」


 オレは、扇子でポカリと運転手の頭をブツ格好をして、それから片足ずつ上げて、タクシーから降りる格好をする。オレの口から「なんや。ヒスイを買う金も持ってへんのんけ。ケチくさいタクシーやな! こんなタクシーに乗ってられるかい。このボケ!」というお上品な言葉が出た。


 『京都祇園にある障子屋の娘』がタクシーの運ちゃんに「ヒスイなんてものを買うお金は持ってまへん」とヒスイの購入を断られたので、娘がタクシーから降りる格好だ。オレは太ももに厚紙をはさんでいるので、降りるときも再び内股で大きく腰を振る格好になった。オレはまたも自分の仕草にうっとりとする。う~ん、色っぽい・・・


 『おくねさん』も内股になってタクシーから降りる格好をする。降りる格好だから、乗る格好をしたときとは身体の向きが左右反対になった。『おくねさん』が内股で今度は左足を上げたので、再び白いワンピースのすそが乱れた。今度は、パンティーの左側が露わになった。思わずオレの口から声が出た。


 「おっ、左は黄色だ」


 なんと『おくねさん』は、右が赤色で、左が黄色のパンティーを履いているのだ。


 オレは絶句する。右が赤色で、左が黄色のパンティーなんて、いったいどこで売っているのだ! 


 しかし、最近はこんなのばっかりだ。牧田の『ドジョウ柄スキャンティー』、道明寺の『肌色で背中に桜吹雪がプリントされたレオタード』、それに『おくねさん』の『右が赤色で左が黄色のパンティー』だ。もう一度、オレは頭の中で叫んだ。こんなのいったいどこで売っているのだ! 


 『おくねさん』が驚いているオレを見て、また「見たな・・」と言った。股間を手で押さえている。


 『おくねさん』はタクシーを降りる格好を終えると、オレに向かって「タクシーに乗ったり降りたりシイナヤ。落ちつかん娘やなぁ」と言った。また、タクシーの運転手になっているのだ。


 オレは『おくねさん』がやっているタクシーの運転手に言った。


 「ヒスイぐらい買わんかい。このボケ!」


 オレの声で『おくねさん』の身体がブルブルと震えた。『おくねさん』から怒りの声が出た。


 「誰がボケやねん! このボケ!」


 まるで売り言葉に買い言葉だ。


 すると、『おくねさん』がオレに近づいた。オレの顔に向かって声を張り上げた。最後はなぜか京都弁だ。


 「おのれ~。私をバカにする気か! わては『京都祇園にある障子屋の娘』には負けまへんでぇ!」


 そう言うと、『おくねさん』の眼と口が赤く光った。赤い光が女子トイレの中に充満する。女子トイレの中が真っ赤になった。


 『おくねさん』がさらにオレに近づいた。ゴーという音がして、オレの顔が熱くなった。


 オレの足がすくんだ。この前と同じだ・・・炎で焼かれる!


 そのとき、夏美の声が女子トイレいっぱいに響いた。


 「スキャンティーィィィ フラッシュゥゥゥ」


 すると、突然、オレの履いている『スキャンティーピカリ』が文字通りピカリと閃光を放ったのだ。周囲が『スキャンティーピカリ』から出た閃光に包まれた。女子トイレの中は閃光でまばゆいばかりだ。


 『おくねさん』が息を飲むのが分かった。無理もない。『おくねさん』から見れば、素っ裸のオレの股間が突然まぶしく光り出したのだから・・・

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