第33話
オレが部室の横のあの女子トイレの罰掃除をはじめて二日が過ぎた。山西に言われた罰掃除の期間は一週間だから、そろそろ中盤に差し掛かるところだ。
オレはダンス部や他のクラブの女子部員たちが練習を終わって、女子トイレを使用してからトイレ掃除を開始するようにしていた。この前は夏美がいたので、掃除中に女子が入ってきても問題はなかったが、今度はオレ一人だ。男子のオレが女子トイレを掃除しているときに、誰か女子に入って来られると何かと説明が面倒なのだ。
先日の山西のお説教のときに、オレが夏美をかばったので、夏美はオレに大いに感謝してくれた。夏美はオレに「私も女子トイレの罰掃除を手伝ってあげるわ」と言ってくれたが、これはオレが言われた罰掃除だ。夏美に手伝ってもらっているところを山西に見つかったら、また面倒なことになる。それで、オレは夏美の申し出を断った。その代わりに夏美は、毎日、オレがトイレ掃除を終わるまで、女子トイレの隣のダンス部の部室で勉強をしながらオレを待っていてくれていた。
『おくねさん』はオレたちの前にまだ現れていなかった。
今日は罰掃除の三日目になる。ダンス部の練習が終わってトイレ掃除を開始する前に、オレはずっと気に掛かっていたことを夏美に話してみた。女子トイレの入り口だ。オレは手にトイレ掃除用のデッキブラシを持っている。ダンス部や他のクラブの女子部員たちはもうみんな帰宅していて、オレたちの周りには誰もいなかった。
「倉持。『おくねさん』なんだけど・・・また、オレたちの前に現れるだろうか?」
夏美は首をひねった。
「それなんだけど・・・さあ、どうかしら? この前、小紫君が『おくねさん』を、『どじょうすくい』でやっつけたじゃない。だから、あれに懲りて『おくねさん』はもう私たちの前に現れないかもしれないわ。だけど・・・そうなると、ちょと困るわねえ」
「困る?・・・そうかなあ? 『おくねさん』がオレたちの前にもう現れないのなら、オレはそれが一番いいんだけど・・・」
「小紫君。何を言ってるのよ。『おくねさん』が私たちの前にもう現れないなら、私たちは『おくねさん』をやっつけることができないじゃない。そうなると、いつまで経ってもダンス部の女子たちが安心して隣の女子トイレを使うことができないのよ。『おくねさん』が私たちの前に現れないと、私たちダンス部が一番困るのよ」
「でもなあ、オレはもうあんな怖い思いをしたくないなあ・・」
オレの脳裏に、この前『おくねさん』がオレたちに包丁を振り上げたシーンがよみがえった。オレの背筋に冷たいものが走る。
夏美はオレを見て笑った。
「大丈夫よ。安心して。小紫君には私がついているわよ。この前『おくねさん』が女子トイレに現われたときは、小紫君が私を助けてくれたわね。それに、先日の山西
先生のお説教でも小紫君は私をかばってくれた・・・」
そう言うと、夏美は小首をかしげてオレをのぞき込んだ。眼を大きく見開いて、ウフフと妖しく笑った。その仕草にオレはキュンとなった。
すると、オレが持っているトイレ掃除のデッキブラシを指さして、夏美が勇ましく言った。
「だからね、今度は私が小紫君を助けてあげる番なの・・・もしね、『おくねさん』が現われたら・・・小紫君を襲う前に、私がそのデッキブラシで『おくねさん』をぶっ飛ばしてやるわよ・・・小紫君、私はずっとダンス部の部室にいるからね。もし『おくねさん』が女子トイレに現われたら、『助けて~』って大声で叫ぶのよ。私が部室からすぐに女子トイレに駆けつけて、助けてあげるからね・・・さあさあ、小紫君。無駄話をしていないで、さっさと女子トイレのお掃除を済ませてしまいなさい」
そう言うと、夏美は隣のダンス部の部室に入っていった。
オレはいつものように女子トイレの掃除を開始した。この前の罰掃除のときと同じように、オレは奥の個室から順番に掃除をしていった。掃除の仕方は前に夏美に教わっていたので、オレにはとまどいはなかった。トイレ掃除はスムーズに進んでいった。
奥の個室から掃除を進めて・・・最後にトイレの入り口側の個室の掃除を終えたときだった。
女子トイレの奥から、あの「ジャー」という水洗の音がひびいたのだ。
オレの動作が一瞬止まった。オレはトイレの奥を注視した。心臓がドキドキと大きな音を立てている。
すると、一番奥の個室のドアがゆっくりと開いて・・・中からあの白いワンピースを着た女が現われた。長い前髪を顔の前に垂らしているので、顔は見えない。そして、また、包丁を握っている・・・
『おくねさん』だ。オレは女子トイレの中で固まってしまった。オレは夏美から「もし『おくねさん』が女子トイレに現われたら、『助けて~』って大声で叫ぶのよ」と言われていたが・・・包丁を見ると、オレは恐怖で声を出すこともできなかった。
『おくねさん』は奥からゆっくりとオレの方に歩いてくる。そして、オレの前で立ち止まった。『おくねさん』の口から声が出た。地獄の底から響くような声だ。
「見たな」
そのときだ。『おくねさん』の前髪に隠れた眼と口が同時にピカリと赤く光ったのだ。その瞬間、女子トイレの中が真っ赤に染まった。女子トイレの中のピンクの天井や壁が真っ赤になっている。トイレの中の何もかもが赤い・・・女子トイレの明るい白の照明が、『おくねさん』の眼と口から出る赤色の光に取って代わられたのだ。
『おくねさん』の白いワンピースが赤色に染まっている。『おくねさん』の顔も真っ赤だ。オレの身体も真っ赤になっている。
オレは狼狽した。
何が起こったのだ? この赤い光は何だ? しかし、オレはそれ以上考えられなかった。
『おくねさん』の顔がオレに迫ったのだ。オレの眼に、『おくねさん』の眼と口から出る赤い光が揺れた。オレの耳にゴーという音が聞こえた。そのとき、オレの顔が熱くなった。
熱い?・・・すると・・・オレは戦慄した。
これは?・・・この赤い光は?・・・炎だ。
オレの身体を恐怖が貫いた。『おくねさん』の眼と口から炎が出ている・・・『おくねさん』がさらにオレに近づく。赤い炎がオレの顔に迫る。もう『おくねさん』の顔はオレの眼の前だ。『おくねさん』の長い前髪がオレの顔に触れた。ゴーという音がさらに大きくなった。オレの顔がさらに熱くなった。
オレの眼の前が真っ赤になった。このままだと、オレは『おくねさん』に炎で焼き殺されてしまう・・・
オレは恐怖で・・・気を失って・・・掃除のデッキブラシを持ったまま、女子トイレの床に倒れてしまった。
*********
誰かがオレの身体を揺すっている。声が聞こえた。
「小紫君。小紫君。大丈夫?」
夏美の声だ。オレは眼をあけた。ピンクの天井が眼に入った。
ここは?
オレは身体を起こした。夏美がオレの身体を支えてくれる。周りを見ると、女子トイレの中だ。オレの記憶がよみがえった。そうだ。『おくねさん』が現われて・・・『おくねさん』の眼と口から炎が出て・・・オレはもう少しで炎で焼き殺されるところだったのだ。
オレは立ち上がった。あわてて身体を探る。幸いどこも怪我はないようだ。それにどこも焼かれていない。オレはやっと安堵した。
夏美が心配そうにオレの顔をのぞき込んだ。
「隣の部室でお勉強をしていたら、女子トイレから何かが倒れる大きな音が聞こえたのよ。それで、私、びっくりしてトイレに駆けつけたの。そうしたら、小紫君が掃除のデッキブラシを持ったまま、トイレの床の上に倒れていたのよ」
オレが女子トイレの床の上で倒れていた?・・そうだ!・・オレは『おくねさん』の恐怖で気を失ってしまったんだ!・・そう言えば、『おくねさん』はあれからどうしたんだろう?・・・オレは急いで夏美に聞いた。
「あっ、そうだ。『おくねさん』だ。それで、倉持。『おくねさん』は?」
「ええっ・・『おくねさん』ですって? 私が女子トイレに駆けつけたときには、トイレの中には誰もいなかったわよ。小紫君、いったいどうしたのよ?」
オレは夏美に『おくねさん』が現われたことを話した。夏美は真剣にオレの話を聞いてくれた。
「『おくねさん』の眼と口から赤い炎がでたのね? それは間違いないのね?」
「ああ、あれは確かに炎だっかよ。『おくねさん』がオレに近づいたときに、ゴーという音がして・・・それから、オレの顔がカッと熱くなったんだ」
「・・・」
オレは疑問を口にした。
「倉持。『おくねさん』はやっぱり幽霊なんじゃないのかなあ?」
「えっ?・・・どうして?」
「この前、『おくねさん』が女子トイレに現れたときは、白いパンティを履いてたし、100円という値札のついた包丁を持っていたので・・・オレはてっきり『おくねさん』は誰か人間が扮装しているんだと思っていたんだよ。でも、さっきの炎を見たら・・・やっぱり幽霊なんじゃないのかなあ?」
「小紫君、何を言ってるのよ。幽霊なんて、この世にいるわけがないじゃないの。絶対に『おくねさん』は人間よ」
「でも、倉持。生きている人間の眼と口から炎がでるわけがないじゃないか・・・」
「それは・・そうだけど・・きっと、これには何かトリックがあるはずよ」
夏美はそう言うと、女子トイレのピンクの壁にもたれて考え込んでしまった。
やがて、夏美がぽつりと言った。
「必ず、何かトリックがあるのよ・・・そのトリックを暴かないといけないわね。これは、警察の
オレはびっくりした。牧田だって? どうして?
オレは夏美にたずねた。
「でも倉持。これはダンス部の隣にある女子トイレの話なんだから・・まずはダンス部顧問の山西先生に相談した方がいいんじゃないの?」
「だめよ。山西先生は『か弱い』女性なのよ。こんな危険なことに巻き込めるわけがないじゃない。こんな話は男の先生が一番いいのよ。牧田先生ならきっと『おくねさん』の謎を解いてくれるわ」
山西が『か弱い』だって? オレはお説教されるときの、山西の恐ろしい顔を思い起こした。それにしても、また、スキャンティーの牧田かぁ? 大丈夫かなぁ?
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