【伍】嘘吐いてて、ごめんな

 満月の夜は、狗型の物ノ怪が凶暴になり易い傾向にある。《反転邪視》を使えば相手の身体能力が高くとも、最小限の動きで仕留める事が出来る為、毎月私の担当となっていた。

 天満月という名も、それが由来だ。

 初めて酢漿さんと会った時も、満月の夜だった。

 あの夜とは違い、今晩は雲が出ていて、視界が悪い。

「この辺りって、夜になるとやっぱ雰囲気変わるんだな」

 今晩は外で仕事ですと告げてから、酢漿さんは自分で売り物を背負い箱に詰めて楽しみにしていた。

 好奇心が旺盛なのだろう。初めての仕事の前は、いつも湧々わくわくしている。

 私は物部様に命令された日から、ずっと今日の事を考えていた。

 命令に罪悪感を感じたのは、今回が初めてだった。

 今まで私達人間と同じ形をした者を、『私にしか出来ないから』という理由で、何人も駆除ころしてきた。

 昔、未だとしてここに来る前に、一人殺した。

 物部様に買われてから、瞳の能力の訓練として、五人駆除ころした。

 本格的に仕事を始めてからは、途中で数えるのを止めてしまった。

 そんな私を、化物だと云われ続けてきた私を、瞳なんて関係無しに接してくれたのは酢漿さんだけだった。

 物部様の云う通り、彼は嘘を吐いているかもしれない。

 ――でも。

 優しい貴方を、巻き込みたくない。

 その綺麗な心を、汚したくない。

 私の醜い姿なんて、これ以上、知られたくない――。

「……ごめんなさい」

「天満月?」

 俯いたまま酢漿さんの袖を掴んで、歩みを止めた。

 緊張で喉が渇き、掠れた声を振り絞ると、心配した様子で顔を覗き込まれた。

 早く伝えなければいけない。

 出来る限り、時間を稼がなくてはいけない。

 物ノ怪が出てくる前に。夜が明けて、店に戻る前に。

「今なら未だ間に合います! 物部様に見つからない内に、遠くへ逃げてください! でなければ私は、貴方を……っ」

「……? …………!!」

 行き成り腕を引っ張られ、酢漿さんの胸に抱き寄せられる。

 そのまま抱えられ、広い路地まで走って向かった。

 丁字の道で壁にぶつかる寸前、右に曲がったところで、ドンッ、と硬い物が壊れる音がした。

 瓦礫が崩れる音と共に、影が揺らぐ。

「チッ……女だけでいいのによォ……。男は邪魔ダなァ……どうすっカ……」

「……!!」

 顔の半分が毛で覆われ、白髪が交じった栗色の毛が逆立っている。

 駆除命令を出された、狗型の物ノ怪の特徴と一致している。

 男は壁を素足で壊したにも関わらず、痛み等感じていない様子で、ぎょろりとこちらを向いた。

 ――近付いてきていた事に気が付かなかった。

 酢漿さんがいなければ、背後から襲われていた。

「……あいつが、天満月が対処していた『物ノ怪』?」

 地面に下ろされながら問われ、こくりと頷く。

 逃がす時期タイミングを逃してしまった。

 こんな状況なのに、『天満月わたし駆除ころしていた』とは云わずに気遣われてしまった。

 悔しさに唇を噛む。鉄の味が、仄かに広がる。

「……危険と判断され、国から駆除命令が出ている者。今晩の本当の仕事は、この男の駆除です」

 こんな時に、りにって、最悪な対象者だった。

「連続婦女殺害、死体損壊、遺棄……全ての女性からが無くなっていましたが、これで納得しました」

 ぎらついた瞳、麻痺した右腕。不規則な痙攣に、極度の興奮状態と攻撃性。

「彼女達の

 麻痺が進行し、顔面まで及んでいた。左手を痙攣させニタリと歪んだ表情で嗤う。――この物ノ怪は、狂犬病を罹っている。

「此の間喰ッた吉原ノ女は全然効果が無かッたナあ……売れてネえ女は瘦せテてチッとも効かネえ」

「吉原の……って、小野雪やで話してた、あの……!」

 遊女達が『野犬に襲われた』と話していた、あの女性。

「そこラの女は全く駄目ダッたケド、普通じゃネえ手前の肝なら治るかもナあ! 其の虹色ノ瞳、〝盈月堂〟の化物女ダろ」

 薬として生き胆を喰べる民間療法があると、以前に物部様から聞いた事があった。

 一昔前なら未だしも、西洋医学が定着してきたこの時代に真逆と思っていたが、時偶そういった猟奇事件の記事が報じられる事がある。

 地方や山間部等では信じられている事も少なくなかった。

「私の肝を喰べたところで、何も変わりません。迷信です。――貴方は助からない」

「ンなモン、やンなきゃ分かんネえだろうガあああァァアア!!」

 叫び声に空気が震える。

 だらりと舌を出し、涎を垂らしながら、ひくりひくりと痙攣をしている。

 かなり症状が進行している様子だった。

 悪化していくにつれ、もう手遅れかもしれないと、何処かで感じ取っているのかもしれない。それでも、不確かな情報に一縷の望みを託したかったのか。

 一人殺し、肝を喰べ、『病が治る』と信じ込むようにして、また一人と殺人を繰り返した。

 こちらが何を云っても、聞こうとはしない。信じたくないのだろう。

 だが、狂犬病は人間にも感染する。

 焦点の合わない瞳に、《反転邪視》が効くのか分からない。

「女を喰ウ前に、先に男ヲ殺す……手前からはずッと、気色悪イ臭いがスる……」

 タンッと地を蹴り、こちらへ飛び掛かってくる物ノ怪を避けるように、酢漿さんを突き飛ばして離れる。

「咬まれたり引っ掻き傷をつけられないように逃げてください! 人間でも発症すれば、治療法はありません!」

 酢漿さんが背負い箱を下ろして、物ノ怪との間に挟むようにして咬み付かれるのを防ぐ。近付いた物ノ怪は、鼻を鳴らして周囲の臭いを嗅ぎ、顔を歪めた。

「手前……何だ?」

 物ノ怪は右腕をだらりと垂らしたまま、左手で背負い箱を奪い取り、投げ捨てる。

 ガシャンッと盛大に音を立てて地面に落下した。

 箱自体は頑丈な造りだが、中に詰めた陶器類はもう売り物にならない。

「ぐっ……!」

 左手で着物の合わせを掴まれ、己の身長以上に持ち上げられた酢漿さんが空を蹴り藻掻く。辛うじて肌に爪は食い込んではいないが、首が締まり、顔が紅潮していく。

 あまりにも、分が悪過ぎる。

 物部様は用意周到に、必ず仕事を成功させる為に出没率の高い場所の推測から僅かな情報まで調べる人だ。

 そんな人が、狂犬病に罹っている等という重要な情報を知らせない筈がない。

 最悪の仮説に、冷や汗が背を伝う。

 物部様は私が酢漿さんを殺せなかった時の可能性を考えて、物ノ怪に殺させる為にのではないか?

 私も負傷して病に罹るか、仮に駆除が無事に済めば、その後で幾らでも処罰出来る。死んだ処で、誰も気が付かない。

 仮に尋ねてくる者がいても、『好い人が見つかり嫁いだ』『郷里に戻った』と伝えればいい。

 戸籍を持たないという事は、こういった事態が起こった場合、

 書類上でも存在しない者に、死は無い。

「……物部様の命令は、絶対……」

 耳鳴りが徐々に大きくなっていく。

 じわり、じわりと、頭と目に血が集中し、くらりと眩暈が起こる。

 上手く呼吸が出来ず、ひゅうひゅうと空気の漏れるような音がする。

 嗚呼、痛い。いたい。イタイ。

 クルシイ。

 キモチガワルイ。

 それ以上に。

 酢漿さんを傷付ける者が許せない。

 避けられても、軽蔑されてもいい。

 全て、酢漿さんと会う前に戻るだけだ。

 嫌われるのは、慣れている。


 ――《呪體》反転邪視


 酢漿さんを助ける為に、この物ノ怪を

 物部様の命令だからではなく、これは私の意志だ。

 淡々と、楽になんて駆除ころさない。

 そこまで私を化物だと云うならば、望み通り心まで化物になろう。

 視界は今まで視た事がない程、暗く、紅く染まっていた。

「ダメだ」

 宙にぶら下がったままなのに、首を絞められているのに、酢漿さんの声がはっきりと聞こえる。

「それ以上は、死んでしまう」

 何を云ってるのか、一瞬理解出来なかった。

 死にそうなのは酢漿さんの方で、私はこの男を――

「……っ……ぁ」

 何かが込み上げてくる。

 嗅ぎ慣れた、鉄の臭い。……気持ち悪い。

 ごぽっ、と抑え切れなくなって、口の端から溢れ出してくる。

 掌が、着物が、赤黒く染まっていく。

 内側から侵され、抱え切れなくなった呪詛は血となって吐き出される。――ここ迄酷い反動は初めてだった。

「天満月が、苦しむ必要は無い……。俺は死なない……」

 今まで空を覆っていた雲が、徐々に晴れていく。

 満月が現れ、光で辺りが一気に明るくなる。

 物ノ怪と酢漿さんの影が濃くなり、ぐにゃりと揺れ始めた。

「……今まで嘘吐いてて、ごめんな」

 ぎし、ぎし、と、何かが軋む音。

 脚の形が変形していき、髪と同じ焦げ茶交じりの黒毛が長靴ブーツのように生え、草履を落下した。

 大きく広がる耳。

 黒く円錐上の爪。

 少し口を開いただけで分かる大きく鋭い犬歯。

 顔は原形を留めている為、人間に近い。

 だがあの姿は、身体の特徴は、狗型の物ノ怪だ。

 目を見開いて状況を呑み込めていない物ノ怪に対し、酢漿さん人は、隙有りと笑った。

 着物の合わせを掴んでいた物ノ怪の腕に爪を立て、大きく後ろに反り、両足で物ノ怪の腹部を蹴り飛ばして退ける。

 だが、適格しっくりこない様子で、むむ、と首を傾げる。

「やっぱりこの姿でも難しいかあ。ちょっと頑丈過ぎない?」

「此の、糞餓鬼ガあ……ッ!!」

 肋骨を押さえ、蹌踉よろよろと立ち上がる物ノ怪に溜め息を吐いた。

 平気かとこちらを視ずに声を掛けられ、私は大丈夫と掠れた声で答える。

 なら良かったと、ほっとしたように笑いながら、掌握動作を繰り返し、ポキポキと手首の関節を鳴らす。

 どう声を掛ければ良いのか分からず、俯いて血で汚れた着物を見詰める私を察してくれたのか、飽くまでも独り言として酢漿さんは口を開いた。

「俺には人間の血も物ノ怪の血も混じっているから、夜には物ノ怪になってしまう。そのせいで、小さい頃から人間からも物ノ怪からも『普通じゃない』って疎まれてきた」

 何故、『普通』を押し付けられる事を嫌っていたのか。

 酢漿さんも、私と同じだったから。

「……ヒヒッ……嗚呼、だかラか……! 変な臭いは出来損ないノ所為か!!」

「ああ、出来損ないだ。たとえ物ノ怪この姿になっても、アンタと互角にり合える程の力は無い。だから……」

 酢漿さんは耳飾りに触れ、爪でぱちんっと弾いて取り外す。

 ちゃりん、と微かに音を鳴らし、飾りの房が揺れた。

「俺は、自分にまじないを

 そのまま、小銭を指で挟み、を前に突き出す。

 小銭が月明かりに照らされると、黄金色に光り、生暖かい空気が漂い始めた。

狐狗狸こっくり様、狐狗狸様。何卒甲某なにがしが方へ、御傾おかぶき下され」


 ――《呪具》狐狗狸こくり


狐魂ここん降霊」

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