第5話 「イーアは寝ると起きないからなー」
船はまっすぐに、河の流れに逆らって走る。
イーアは船縁にひっついたまま、流れる景色を放心状態で見ていた。
今イーアの乗っている船は、東の沖合にある東方諸島の所有する、大陸最速の技術を持つ船乗りのものだ。水面を滑るように移動しながら、真っ直ぐに皇都へと向かっている。
帝国の首都、皇都ウルカトゥは巨大な湖に隣接する都市だ。その湖からは大きな3つの大河が流れ出ている。ここは蒼河、三つのうち一番距離が長いと言われている運河だ。
陸路では2ヶ月以上かかる皇都から大公国までの旅も、船を使うと10日程度で済むのが不思議で仕方ない。逆に川を遡るときも日数に違いはない。
魔導具の力だと言うが、東方諸島の船乗りはちょとおかしい。
そこまでぼんやり考えていたイーアだったが、再び込み上げるものがあり身を乗り出す。もはや吐けるものは全部吐いてしまっているので、苦い胃液だけを苦しみながら吐き出した。
「大丈夫か? イーアは船には強かったのになぁ」
背中を心配そうにさすりながら、アルが話しかける。申し訳ないが何も返答は出来ず、イーアはただひたすらえずいた。
なんとか落ち着いて、差し出された水を口に含む。苦しい呼吸をくりかえし、ため息をつく。
「昨日、全然眠れなかったから」
なんとか絞り出すように言うと、アルが口角を跳ね上げた。その深い翠の瞳に好奇心を滲ませて、にやにやと笑う。
「やっぱりそうかー。いやー、男になったなイーア」
「違うそういう意味じゃない‼︎」
変な誤解はしてほしくない。慌てて声を上げると、アルはとたんにつまらなそうな顔をした。
「なんだ。まだかよ」
「……アル、昨日チルが僕の部屋にきたのに気がついていたね?」
「うん、まぁ俺らが寝てる横、登ってたからなぁ」
イーアは再び込み上げるものを堪えながら、思いっきりアルを睨む。
「どうして止めてくれなかったんだ」
アルは困ったように眉を下げる。
「悪い、俺もすっかり寝入っちまって」
嘘だ。
イーアは悪びれた様子もない顔をまじまじと見て、それから深くため息をつく。
結局、チルは夜明けまでイーアの後ろで眠っていた。
そして日が昇ると、来た時と同じようにそっと帰った。
今朝の見送りのチルも何事もなかったように、いつもと変わらない。それがイーアには面白くなかった。
まぁ、それよりもとんでもない事があったのだが。
今朝、ルッソが例のメイド服を着て見送りに出てきた。その姿が、なかなかに衝撃だった。
一瞬、誰かわからなかった、黒い長髪の美女。
腰の辺りまで伸びた黒髪に、しっかりと化粧されたその顔。ぱっちりと開いた目は黒い睫毛で縁取られて、その瞳は綺麗な青玉の色だった。
確かルッソは錆色の瞳だったので、これは瞳の色を変えられる特殊な魔石を使っているのだろう。この魔石の力が及ぶのは、髪の色、目の色などのごく一部だ。体全体を変えることができる魔石は、普通はない。
なのに、今のルッソの姿はどう言う事なのだろう。イーアはひどく混乱する。
顔だけではないのだ。
いかにも、と言ったメイド服を見事に着ていた。長い手足を惜しみなく晒し、短いスカートの下には太ももの半ばまでの靴下を履いてる。
細いウエストに、控えめだが女性らしい胸元。そこにいたのは、いつも細目でへらへらと笑っている男ではなく、ひと目見ただけで強く印象に残るスレンダーな美女だった。
その姿でいつもと違う声で、艶っぽく流し目で。
『いってらっしゃいませ。ご主人様』などと言うのだから。
思い出すだけで、イーアは再び吐き気を催す。
見慣れているのだろう。
チルたちは大笑いしていた。よほどイーアの驚いた顔が面白かったのだろう。
忘れていたが、ルッソも『蒼眼の鷹』の一人なのだ。あの変装が文字通り朝飯前なのだから、相当やり手の方なのではないだろうか。
大公国に、そしてその庇護を受ける形になるイーアの背後に控えているのは、そういう組織なのだ。
そしてチルも。
今後おそらく叙爵後のイーアに仕え、その手足となる。あの甘ったれを、自分が使うことになる。
「まぁ、イーアは寝ると起きないからなー。チルと寝てちょうどいいと思うぞ」
アルの言葉に、イーアは眉を顰める。
「お前が継ぐ場所は、伏魔殿どころではないからな」
イーアは深く呼吸しながら、目を閉じる。
そして自分だけの暗闇の中、小さくつぶやいた。『それが狙いか』と。
船は軽やかに風を裂いて進む。
その鋭い音を聞きながら、イーアはただ自分達が子供でいられる時間が、もう少し長く続くように祈るのだった。
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