第8話 「お前がなんとかしてくれ」
次の日の朝。
一瞬自分がどこにいるのか分からず、寝ぼけ眼のイーアは部屋を見渡した。
故郷の自分の部屋でも、この夏仮住まいと決めたアパートの部屋でもない。
「あれ……」
イーアの寝起きは悪い。
いつもは侍従が洗面の用意をしてくれるが、当たり前だがここでは誰もいない。
「あー…チルの家……」
なんとかベッドから出て、イーアは歩き出す。
扉を開けると、細長い廊下に出た。右手には店が、左の奥には台所がある。
その台所のテーブルに座り、アルがひらひらと手を振っていた。
「イーア、おはよう」
「おはよう……。アル、昨日は……」
「悪い、話し込んじまって」
ちっとも悪びれた様子もなく、イーアに座るように促した。自分は立ち上がり、温めたミルクを持ってきてくれる。
「まぁ、チルに任せとけば問題はないだろう」
それには、イーアは素直に頷く。
「信頼、してるんだね」
「まぁな。あいつというか、あいつの親方を信頼してる」
アルはそう言いながら、だいぶ濃そうなコーヒーに口をつけた。
「親方?」
「ああ」
それ以上は言う気がないらしい。
イーアもそれ以上聞くのを諦めて、温かいミルクに口をつける。優しい甘さに、体が目覚めていくような感覚だ。
「そういえば、チルは」
「あいつは忙しそうだな。イーアも行くのか? 例の男爵のお屋敷」
明確な約束はしていないが、おそらく連れて行ってくれるだろう。
頷こうとした時、バサリと頭の上に何かがかぶさった。
驚いてそれを払って、床に落ちたものが一揃いの服だと気がついて拾い上げる。それから慌てて投げられた背後を見て、そしてイーアは固まった。
「いつまで寝てんだよおぼっちゃま。マーナとは6時(午前11時)の約束だ。行くぞ」
声は確かにチルだ。
まだ声変わりする前の、柔らかくて耳に優しい声。なのに、その姿は。
「……え?」
ようやく絞り出した声は、自分でも笑えるほど弱々しかった。
あまりにも、目の前の彼の姿が衝撃的すぎる。
昨日はぼさぼさだった髪は綺麗に整えられ、ハーフアップに結えられている。
昨日はよくこちらを睨んでいた目元にはうっすらと化粧をし、唇はピンク色。ふんだんにレースを使った、上品な薄紫のワンピースを身に纏っていた。
コルセットで搾り上げような、細い腰。胸元にもちゃんと凹凸がある。
そこに立っているのは、雑貨屋のカウンターにいる乱暴な少年ではなく、どこからどう見ても見事に出来上がった貴族令嬢だった。
「えええええーーーー!!?」
イーアは今年一番の大声で叫ぶ。
「あはー。やっぱり気がついてなかったんだなー。イーアは気配読めるのに、そういうとこまだまだだなー」
背後からアルの楽しそうな声がする。
イーアはただ、あんぐりと口を開けたまま、貴族令嬢に化けたチルと楽しそうに笑うアルを交互に見る。
「チルは女の子だよ。ただし『蒼眼の鷹』のひとりだ。しかも子供の頃から大活躍の、超有能株だぜ」
「そんな話は後だ後! 時間ねぇんだから、急げ!」
綺麗に整えられた唇からでる言葉はいつも通りだ。それに妙に安心しながら、イーアは慌てて着替える。
「俺はアガーテ・ゼクト男爵令嬢。実在する男爵家だ。イーアは俺の従者になって屋敷に行く。マーナにはお前が行くと伝えてあるから、そこんとこしっかりしろよ」
従僕のお仕着せらしい洋服に着替えたイーアを隅々チェックしながら、チルは説明をする。
「わ、わかった」
「あと当然だが、俺のことはお嬢様と呼べ。いいな」
こくこく頷きながらチルの後をついて家を出た。通りに出ると、既に貴族がよく使うタイプの馬車が停まっている。慣れた様子で乗り込むチルの後に続く。
向かい合って座ってようやく、イーアは一息ついた。
そして正面に座るチルをまじまじと見る。まだ自分の見ているものが信じられなかった。
「チルは、すごい人だったんだね」
「何もすごくねぇよ。孤児だった所を親方に拾われて、そこから仕込まれただけだ」
投げやりに言われて、そこからは言葉がつながらない。イーアは自分の手元に視線を落とした。
『蒼眼の鷹』。
それはこの北の大公国ワルドに、はるか昔から存在する組織だ。公にできない仕事を担う、大公家の腕の一つ。
隠密から工作、護衛から暗殺も行う。当然のように、他の大公家や帝国の皇家にも同じような組織は存在している。イーアも今までの人生で何度か接触した機会はあった。
だが、今まで関わってきたその者達は皆、大人だった。
自分と二つしか違わないチルがこの仕事についているのは、イーアにはとても衝撃だ。そして少し、悲しい。
「子供の方が都合がいい時があんだよ」
そんなイーアに気がついたのか、チルが言う。言葉の内容はぶっきらぼうだが、その声音は優しかった。
「子供だったら、男でも女でもどっちもなれる。出来ることが多いしなー。まぁあと数年だけだろうけど」
「でも、子供がするような仕事じゃない」
目を伏せたまま、イーアが悔しそうに呟く。
「じゃあ、お前がなんとかしてくれ」
はっと顔を上げるイーアを見るチルの顔は、なんだか泣きそうな、諦めたような、それでどこか期待しているような、そんな顔だった。
「お前はそれができる立場だろう」
その水色の瞳を真っ直ぐ見据えて、イーアは頷く。
そうするとふんわりとチルが微笑んだ。
「期待してる」
その笑顔に魅せられたまま、イーアも微笑う。
「まかせてくれ」
そう言った自分の声が少し、涙に霞んでいる事も気がつかないふりをした。
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