第五話 フェンリルとニャンリル

 この世界にはきっと過去にも僕のような〝てんせいしゃ〟がいたんだと思う。

 翼を持つ馬がペガサスと呼ばれているのもそう。彼らがフェンリルと呼ばれているのもそう。


 ルモント国の獣騎士団を訪れる前。ペガサスである僕の背中にまたがって高い高い山を越え、船に揺られて広い広い海を渡り。うきうき、わくわく、ハァハァしながらクリスはそう言っていた。


 フェンリル――。

 前世のクリスがその名前を見たのは〝ほくおうしんわ〟にまつわる本の中。〝じゃしん・ろき〟の子供で巨大な狼の姿をしているのだそう。

 団長さんの後ろでおすわりしているフェナはまさに〝ほくおうしんわ〟に出てくるフェンリルそのものだ。


 おすわりした状態で、立っている団長さんよりも頭一つ、二つ、大きい。夜を思わせる艶やかな濃紺の毛。賢そうな金色の目。

 にも関わらず、ふっさふっさと振られるしっぽには人なつっこさがにじみ出ている。〝撫でて? 遊ぼ?〟オーラがにじみ出ている。

 なんて言うか……。


「フェンリルたんのしっぽが僕を誘惑している! なでなでしなくては! もふもふしなくては! ペロペロしなくてはーーー!」


 ただのクリスホイホイだ。


「…………」


 無言でクリスを見つめる団長さんの表情に気が付いて僕はぎょっとした。


『やめて、クリス! 団長さんの顔がすっごいことになってるから! ドラゴンさんだったら火を噴いてるし、ユニコーンさんだったら角で串刺しにしてるくらいの形相になってるから!!!』


 クリスの洋服の首根っこをくわえてグイグイと引っ張る。副団長さんもオロオロオロオロしてる。

 いろんな人の板ばさみにあい、社会や集団という荒波にもみくちゃにされ、胃をキリキリさせてそうな副団長さん。本当にごめんね! もし、クリスの変態行動のせいで団長さんに叱られて、胃がキリキリしちゃったら僕がヒールをかけてあげるから!!!


 なんて思ってるうちに――。


「ハァハァ……フェンリルたんもなでなで、もみもみ、ぺろぺろしたいけど……」


 クリスの視線がニコニコ顔を引きつらせ、胃をキリキリさせてそうな副団長さんへと向けられた。


「フェンリルはわんリルではなくフェンリルなのにニャンリルはニャンリルなのにゃんでだろうとか思うけど、それはさておき……!!!」


 正確には、副団長さんの後ろにおすわりして顔を洗っているニャンリルのリーネへと――。

 副団長さんの引きつったニコニコ顔がさらに引きつった。きょとんと目を丸くしながらもしっぽをふりふり振っていたフェンリルのフェナと違ってリーネは警戒したようにすーっと目を細くする。


「ニャンリルって名前からしてきっと大きなお猫様だろうとは思ってたけど……ニャンリルたん、最っっっ高!」


『クリス、止まって! 落ち着いてーーー!』


 シュバッ! と俊敏な動きで、今度はリーネに飛びつこうとするクリスの首根っこをくわえて必死に踏ん張る。


「コイツ、本当に高名な動物画家とやらなのか!?」


「ここまで門番が案内してきましたし、入り口で身分証明書を確認したと聞いていますので、恐らく……!」


『団長さん、団長さん! クリスは本当にすごい動物画家なんだよ! ただ、ちょっと……だいぶ……致命的に変態なだけで! 変態なだけで害はないから!』


「恐らく……? 恐らくとはなんだ、ヨハン副団長!」


「も、もうしわけありません! フーベルト団長!!」


『ごめんね……ごめんね、副団長さん! クリスが変態なばっかりに! あとでヒールしてあげるから! キリキリの胃にヒールしてあげるからぁぁぁ!』


 ピリピリ空気の団長さんと副団長さんを見て、伝わらないとわかっていても僕は叫んだ。

 団長さん、副団長さんと同じ人間で、同じ人語を喋れるはずのクリスはと言うと――。


「ヒョウに似た、がっしりとしなやかを両立した体! ライオンのような黄褐色の毛! ヒョウよりもライオンよりもずっとずっと大きな体! 我、関せずと言わんばかりのマイペースなあの表情! あーまさに巨大お猫様! ニャンリルたん、ハァハァ! ニャンリルたん、ハァハァ!」


 団長さんと副団長さんの人語による会話なんて聞いちゃいないし、変態語しか喋らないしでどうにもこうにもならない。


『うぐぅー! うぐぐぐぅーーー!!!』


 人間よりもずっと、ずーーーっと体重も力もあるはずのペガサスを引きずって前に進むなんて。クリスの変態的執念、怖い。本当に怖い。

 て、いうか……もう……。


「ニャ、ニャンリルたんの肉球、何色の肉球!? 見せて、さわらせて、なめさせて、踏んづけてーーー!」


『僕の口と歯が限界だよぉぉぉーーー!』


 僕の口と歯も限界だったけど、クリスの洋服の首根っこも限界だったらしい。


「ハァハァ、ハァハァ……シュワーーーッチ!」


 ビリッ! と嫌な音がするのと同時にクリスがリーネに飛びついた。


「ニャンリルたんのもふもふなお首をなでなで、もみもみ、ぺろぺろ、ハァハァ……!」


 抱きつかれ、撫でまわされ、揉みしだかれ、なめまわされ、変態吐息を吹きかけられ。黒目ごとまん丸にしてびっくり顔になっていたリーネだけど、そのうちに目をつりあげた。黒目も細い筆で描いたみたいにすーっと縦一本線になる。

 かと思うと――。


『シャーーーーーー!!!』


 リーネはぶるりと体を揺さぶってしがみついているクリスを振り落とした。そして、いつもは隠している鋭い爪をクリスの顔面へと振り下ろす。


『言わんこっちゃないよ、クリス! ヒール! ヒール!!!』


「リ、リーネ! やめなさい!」


「ニャンリルたんの三日月お爪、ハァハァ……ご褒美、ハァハァ……!」


 鋭い爪に引っ掻かれて血まみれのこの状況で、いまだにハァハァしているとかどういう神経してるんだろ。ヒールをかけまくりながら床に大の字で引っくり返っているクリスを見下ろして僕は無の表情になった。

 この状況でいまだにハァハァしてるし、ニヤニヤ笑ってるとかどういう神経してるんだろ。このど変態!


『……』


 リーネはと言うとフン! と不機嫌そうに鼻を鳴らすと開いていた窓からひらりと飛び出した。


「リーネ、待て!」


 窓の外には立派な大木が生えている。副団長さんが止めるのも聞かずに窓から飛び出したリーネは太い枝に飛び移った。

 前足を右、左と伸ばし、ガリガリと幹で爪とぎをしたかと思うと器用に枝の上で横になる。前足にあごを乗せて目をつむるようすは眠かったというよりも、もう付き合ってらんないといったようす。

 目を閉じてるリーネの顔と機嫌悪そうにバッタンバッタンと揺れるしっぽを見つめて僕は心の中でごめんなさいしまくった。

 全部、クリスの変態が悪いんです!


 と、――。


「……とりあえず拘束する」


 極太ロープを手に団長さんが床でひっくり返っているクリスを怖い顔で見下ろした。団長さんの話を聞いているのか、いないのか。


「ニャンリルたん、ハァハァ……! フェンリルたん、ハァハァ……!」


『うん、全く聞いてないね』


 変態吐息をもらすクリスを見下ろし、団長さんの怖い、怖ーーーい横顔を見つめ、僕は深々とため息をついた。

 そして――。


『きつめに縛っといてください、団長さん』


 前足でグイッと押して、クリスを鬼の形相の団長さんに差し出したのだった。

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