第38話 雷鳴
それは峰越山の裾の道を西に向かって歩いているときだった。どこかで男の笑い声がする。
「お待ちなさい」
前を歩く太郎を呼び止めて耳を澄ます。「やめてぇ」「ご勘弁を」と、女の怯える声がした。
「女が襲われているようですが、寄り道する余裕はありません」
太郎の話が終わらないうちに、雉女は道をそれて声のする雑木林に入った。やれやれといった表情の太郎が後を追った。
ほんの少し坂を上ると2人の男の背中が見えた。別の2人が百姓娘を犯していて、もう1人、しゃがみこんで女の顔を覗きこむ男がいた。
立っている男の1人が侍大将で、他の四人はその
「おやめなさい!」
雉女は一括した。娘に乗っている男たちは凍ったように動きを止め、見物していた3人は刀を取った。「なんだと……」雑兵が太い声で威圧する。
「女を犯すなと、総大将のふれが出ているはず。……どうしても女が欲しいというなら、私が代わりましょう。その娘たちは放してください」
雉女が近づくと、驚いた様子で男たちが顔を見合わせ、それからニヤニヤと相好を崩した。
「ほう、こんな田舎にはもったいない女だ。……見た目だけじゃない。度胸までいい女じゃないか。大人しく我々に抱かれるというのだな。……その言葉、真実なら脱げ」
右の眉の上に赤い痣のある武将が舌なめずりして刀を置いた。2人の雑兵もそうした。娘に乗っている男たちは、相変わらず首だけを雉女に向けて成り行きを見守っている。
雉女は平気なつもりだったが、春を売るようなわけにはいかなかった。命を惜しむ心がどこかに残っているのだ。袴の紐を解く指が震えていた。
袴が足元に落ちる。同時に、懐に入れておいた笏がぽとりと落ちた。
「ん、……お宝か?」
武将の視線が笏に向く。雉女は慌ててそれを拾おうとしたが、彼に襟を握られて動けなかった。
雑兵が笏を拾い上げて武将に渡した。
「ナニッ……」
笏に記された〝祈奥州追討〟の文字に彼が眼を剥いた。
「お返しください。鎌倉さまから頂いたものです」
「な、なんだと……」
武将は眼を点にして水干から手を離した。笏と雉女の顔を交互に見て呆けている。
「祈奥州追討……。御大将のものに間違いない」
顔をひきつらせた武将は、笏を雉女に押し付けるように返して後ずさった。
「女御は、何者だ?」
武将は自分の袴を拾ってはいた。雑兵たちも慌てて自分の
「名乗るほどの者ではございません。ただの傀儡女です」
「噓を吐くな。傀儡女ごときが、源氏の御大将から笏を頂けるはずがあるまい」
雉女は返事をせず、静かに笏を見つめる。話を長引かせるより、彼らが引き上げる機会を作るべきだと考えていた。
「……行くぞ」
鎧を付け直した武将が促し、雑兵と共に逃げるように去った。
「こんな物でも役に立つことがあるのですね」
雉女は笏を懐に戻し、小袖や帯を拾い集めて震えている娘たちに駆け寄った。
「私は雉女という傀儡女。春を売って暮らしています。知っているでしょう?」
気休めになればと教えてやったが、娘たちは着物を身に着けることに必死だった。
その背中を見つめながら、3人の猟師に凌辱された時のことを思い出した。今の彼女たちはあの時の自分と同じで、どんな言葉も届かないだろうと思った。犯されて受ける心の傷はそれほど深いのだ。
「男と交わったことなど恥ずかしがることはないのです。堂々としていらっしゃい」
励ますと、身繕いを終えて人心地したのか、女たちが眼を向けて来る。それは――傀儡女のあなたとは違う……、と言っているような気がした。
「傀儡女のような訳にはいかないとわかっているつもりです。でも……」
「下林の……、佐藤さまの館におられた弁才天さま、……ですね?」
突然、娘の1人が声を発した。
「はい。やっと口を利いてくれましたね」
「……私たちの祖母が、……産婆でした」
雉女はお玉という産婆を思う。龍之介を取り上げてもらう時はほとんど口を利かなかった。沢子を産んだ時は侮蔑的だった。そのことは口にはせず、ただ微笑んで見せた。
「そうでしたか。産婆さまはお元気ですか?」
「いいえ、あの者たちに……」
少し離れたところにお玉の遺体があった。年寄りだから殺されたのだ。
頼朝は、百姓を殺すな、女を犯すな、と目の前で命じた。それなのに……。人の世の危うさを思い知らされた。お玉の遺体に両手を合わせ、彼女の魂が無事に天に昇ることを祈って娘たちと別れた。
「雉女殿は、どうして頼朝の笏など持っているのです?」
歩き始めるとすぐに、後ろを歩く太郎が訊いた。その声はざらついている。
「私は傀儡女ですよ。男に奉仕して命の糧を得ています。この笏は、数日前に立ち寄った武将からもらったもの……」雉女は胸元を押さえた。「……赤ん坊が出来たら、笏を持って来いということでした。子供の父親になってくれるそうです」
教えると太郎が怒りで顔を赤らめた。
「俺たちが命をかけて戦っている時に、雉女殿はそんなことをしていたのですかっ!」
「武将は戦の時だけ命をかける。傀儡女は、日々誰とも知らぬ男を相手に戦っているのです。さらおうとする者もいれば、無理心中しようとする者もいる。いつも命を的にして、男の遊び道具を務めているのです」
雉女は出来るだけ穏やかに話した。
「そんなことを言うのなら、猟師は熊や狼に殺されるかもしれないし、漁師は舟がひっくり返って溺れ死ぬかもしれません。百姓だって、畑を耕している時に雷に撃たれて死ぬかもしれない」
太郎がふくれっ面で反論した。
「太郎さまは理屈が上手なのですね」
「雉女殿には負けます」
勝ち負けのつかない話をしながら歩いていると大勢の百姓男たちと出会った。皆汚い姿をしているものの、大怪我をしている様子はない。
「雉女殿ではないか?」
年かさの男が声を上げた。サトの父親だった。
「ご無事でしたか……」
胸をなでおろし、改めて男たちを見回した。中には見知った若者の顔もあったが、勝之介の顔はなかった。
「勝之介さまは一緒ではないのですか?」
「それが、乱戦の中で見失ってしまった。勝之介殿は弓が上手い。ずいぶん活躍していたのだが……」
「そうですか……」
胸の中を嫌な予感が走る。活躍したのなら、沢山の敵を作っただろう。
「……ご家族が心配しています。早く帰ってあげてください」
そう告げて、男たちと別れた。
蒸し暑さの中、生臭い空気が濃くなる。遺体が所々に転がっていた。太郎が遺体をつつく烏を追い払い、それが勝之介ではないことを確認して進んだ。
石那坂に近づくと関東の武士の姿が多くなり、何度となく呼び止められた。その都度、笏を見せ「鎌倉さまの許可を得ています」と告げて強引に通った。
城山の麓の武家屋敷は灰になっていた。その一角に遺体置き場があり、引き取られない遺体が並んでいる。地べたには遺体から流れ出した体液が溜まり、鼻が曲がりそうな悪臭を放っていた。蠅がぶんぶんと五月蠅く飛んでいる。墓穴を掘るのが面倒なのか、やや低くなった土地に大きな火がたかれていて、百姓たちの手で遺体が焼かれていた。火葬というには、あまりにも無造作な焼き方だった。
「なんて酷いことを……」
「これが戦場なのだ」
太郎の声に、雉女は義経を思った。おそらく彼も戦場で同じようなことをしてきただろう。そんな男を誇らしく思っていたことが恥ずかしかった。
雉女は気を取り直し、「勝之介さま、勝之介さま……」と名前を呼んで、並んでいる遺体をひとつひとつ確認した。顔を見て勝之介でないとわかると、まだ生きているかもしれないと希望を抱き、同時に、どれだけの遺体を見れば出会えるのだろうと絶望した。数十の遺体を見ると、ついに吐き気を催した。
「雉女殿、大丈夫ですか? 顔色が悪い」
「……だめです」
しゃがみ込んで荒い息を押さえる。その背中を太郎がさすった。
「沢山の人が死んだ。どうして人は、こんな残酷なことができるのでしょう。……誰もが、せっかく産まれてきたのに……」
地面に向かって呻いた。
唇をきつく結んだ太郎が、遺体を焼く火から立ち昇る煙を追って空を見上げる。黒煙がつくったのか、死者の恨みがつくったのか、黒雲が空を覆った。ぽつりぽつりと水滴が落ちて来たかと思うと、たちまち土砂降りになった。稲妻が走り雷鳴が轟く。武士も百姓も遺体を放置して雨宿りに走った。
雉女は違った。しゃがみこんだまま、石のように動かない。
「雉女殿、風邪を引きます。雨宿りを……」
太郎に促され、ふらりと立ちあがった。
「信夫庄にはじめてきた五月もこんな雨でした。峠から石那坂に来る間、流された家を沢山見ました。人もたくさん死んでいた。この戦いよりもたくさん死んだかもしれない」
「俺の母と祖父母もその時の土砂崩れで死にました」
「そうですか……」
そんな状況の中で平祐は河川の復旧工事に取り組み、勝蔵を人柱にしたのだとわかると胸が痛む。
雉女は遺体を焼いていた低地に下りた。
「雉女殿、何をするつもりです?」
太郎は坂の縁で足を止めた。
遺体を焼く火は消え、ぶすぶすという水蒸気に変わっている。
雉女が遺体に近づくと、ずぶっと足が泥に沈んだ。血と人の油の混じった赤黒い泥は、湯のように熱かった。
焼け焦げた死者の顔を覗きこんで勝之介を探す。半数ほど確認したが、どれも勝之介の遺体ではなかった。絶望に押し包まれて天を仰ぎ、勝之介にあわせてくれと祈った。
「雉女殿、もう止めませんか?」
高いところで太郎が言った。雉女は首を振る。
「土石流で潰された遺体は、ここのものよりひどいものがありました。でもそれは、自然が……、神がなす仕業だと納得できた。……ここにあるものは、みんな人がした仕事です。太郎さまの言う、武士の仕事の結果がこれです」
閃光が走り、ガラガラガラという雷鳴に大気がわななく。泥の中から人型の何かがむっくりと身を起こした。焼かれたからか、雨に冷やされたからか、一度は死んだ者が息を吹きかえしたのだろう。髪は焼け落ち、上半身は赤黒く焼けただれていた。両眼が焼いた魚のように白く濁っている。
「グ……グ……グジ……」
焼けた喉は声を作らない。地獄から来た魔物のようだった。そんな男が雉女に近づいた。
「ヒッ……」雉女は驚き、腰がぬけた。
「グジ……」男の腕が髪に触れる。
雉女は声も出せなかった。刹那、坂の上から太郎が飛んだ。
「エイッ!」
気合一刀、手にした刀が魔物のような男の脇腹を薙ぎ払う。血が飛び散り、雉女の顔を赤く汚した。
「バケモノめ、
太郎が動きの止まった男を蹴り倒す。パックリと開いた切り口は鮮やかな桃色をしていて、どろりと臓物があふれた。
初めて人を切った太郎の息は乱れ、眼は血走っていた。それでも頭を左右に振って正気を取り戻し、雉女に向かって手を差し伸べた。
「大丈夫か?」
「……い、今のは?」
雉女は太郎の手を取って立ち上がった。驚きと恐怖で胸が苦しい。
2人は息を整えながら、動かなくなった遺体に眼をやった。
「死にぞこないが死霊に取りつかれたのだ。バケモノだ」
太郎が興奮した口調で言った。
「でも、元は人間です」
雉女はひとつの命が消えたことが悲しかった。
「まさか……」
恐る恐るその遺体に近づく。それが勝之介のような気がした。彼は最後の力を振り絞って助けを求めたのではないか?
屈んで目を凝らして見ても、顔も身体も焼けただれていて勝之介だという証拠はなかった。
「そ、そいつが捜している勝之介殿だというのか?」
太郎が困惑していた。
「わかりません……」
その遺体が誰かはともかく、仲間の太郎に切り殺されるとは哀れだ。両手を合わせて彼の冥福を祈った。
振り返ると、太郎の顔が歪んでいた。バケモノと思ったとはいえ、人を切ったことが今さら怖くなったのだろう。
「この世は地獄です」
感じたままの言葉が唇からこぼれた。その声の無機質さに自分で驚いた。稲妻が走り、天から降りそそぐ雨が血を洗い流していく。神が人の愚かさを
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