第3話

 午後四時四十分。

 青いカーテンを引きずりながら、眠たそうな顔で太陽が地平線に向かっていた。空の半身が錆び始めていた。明るいだけの時間は終わってしまった。

「僕は自分のことを善良な市民だと思っているけど、小さなころ、罪を犯したことがある」

「ほう」

 長く黙っていた僕に飽きたのか毛づくろいをしていた死神は、その作業を止めることなく気のない返事をした。

「まぁ、よくある話だけど、近所の小さな商店で万引きをした。たしか、チョコをひとつ盗ったのかな」

 口に出した後で我ながら何故この話をしたのかわからなかった。彼は死神であって、神ではない。この告解に意味はない。死神はそもそも判断をしないように思う。既に死の運命が決まった者のもとに現れるだけで、後は鎌を振り下ろすだけだ。

「逮捕されたのか?」

「いや、店主にバレたが見逃された」

「それは犯罪なのか?」

「さぁ、そう言われれば曖昧だけど……、とにかく、こういう罪は、死期や死後の世界に影響するのか?」

「話しながら薄々気付いただろう? 所詮人間の決めたルールや倫理にそこまでの影響はない。死期が早まるわけでもないし、死後の行先が変わることもない」

 そこまで気にしていたわけではないが、少し安堵した。いまさらこのことが掘り起こされて、僕の実生活に影響を及ぼす可能性は限りなく低いが、何十年たった今でも、たびたび思い出すのだ。誰よりも自分が自分を責めている。おそらく店主はもうその出来事を忘れていて、僕のことも忘れているだろう。もしかしたら既にこの世にいないかもしれない。あの出来事を覚えているのは僕だけなのかもしれない。それでも罪は罪としての存在感をいつまでも保持していた。

 この世界に存在する罪の中でも、人間が定義し観測可能な範囲に収まるものは、運命に影響を与えない。仮に神や運命が罪を定義したとして、それを犯したことに人間が気付くすべはあるのだろうか。神の声が聞こえて知らされたりするだろうか。声すら不要で脳と魂がその瞬間理解するということはありえないだろうか。

「じゃあ、逆に、善行は? あまり思い浮かばないけれど、僕だってゴミ拾いをしたり、落とし物を交番に届けたり、ベビーカーを担いで階段を登ったりしたことはある。それらもやはり死には影響を与えないってこと?」

 あまりにも善行に心当たりがなさすぎて、話題選びに失敗したなと思った。僕は本当に何もこの世界に良い影響を与えていない。

「その通り。現実から目を背けるために気休めは役に立つ。いくらでもやればいいとは思うが、意味はない」

「徳を積むという考えは、人間による人間のための行動でしかないと――」

 人間が観測できる範囲内では、僕は徳を積んでいない自信がある。しかし、観測範囲外で、もしかしたら何か成しているかもしれない。誰かを救ったり、世界を救ったりした可能性がある。

「徳! 傲慢だなぁ人間は」

 カァ、と彼は笑った。

 公園を見ると、さきほどまで酒盛りをしていた女性たちがいなくなっていた。

 ベンチには二本――おそらくチューハイの空き缶が残っていた。僕はポイ捨てをする人が大嫌いだ。煙草のポイ捨てをする人のポケットに吸い殻を返却したいし、缶のポイ捨てをする人のパーカーのフードに缶を返却したいくらいだ。残念ながら、今の死神の話を聞く限り、ポイ捨てが当人の人生に与える影響はなさそうだった。

 せめて彼女たちが、僕と同じように、何十年も罪の記憶を保持し、脳と心の領域を圧迫し続けるタイプの人間であることを願った。


 その時、クラクションの音が聞こえた。細い路地を結構なスピードで車が通り抜けていった。道のわきに張り付くようにして避けた女性が、迷惑そうにいつまでもその車を見つめていた。

「僕はね、車にはねられたことがあるんだ。二回も」

「災難だな」

「どちらも僕が自転車に乗っている時だった。二回目はともかく、一回目は僕が道に飛び出したからね、運転手はあまり悪くない」

「災難だな、運転手が」

 一回目は救急車で運ばれた。二回目は軽傷で、病院にも行かなかった。どちらも信号のない十字路で、自転車の僕と車の運転手がお互いに注意しながら進むべきポイントだった。

 一回目は、お互いブレーキをまったくかけていなかったため、はねられた僕は気を失い、救急車を呼ばれた。救急車の天井を見つめている記憶が断片的に残っているので、一度車内で目が覚めたのだろう。その次に目覚めたのは病院だったと思う。幸い腕を派手に擦りむいたのと全体的に打撲した程度で、入院するほどもない軽傷だった。

 二回目は、お互いにブレーキをかけながら十字路にさしかかった。それでも間に合わずぶつかってしまった。車はほとんど止まる寸前だったので、僕は足に軽い打撲を負ったくらいで済んだ。

 一回目も二回目も軽傷だったが、一歩間違えれば死んでいたかもしれない。

 普通の人は、一回も車にはねられることなく人生を終えることになるだろう。しかし僕は既に二回もはねられた。よほど運命が僕を殺したがっていたに違いない、と考えていた時期もあった。ただ、事故を起こしたのは十年以上前の話で、最近は忘れかけていた。

「僕は、もしかして、その事故で死ぬべきだったんじゃないか? 今、生きていてはいけない存在だ。だから君がやってきたってことはないか?」

「さあ、俺はそういう役割ではないからな、知らん。しかし、それはない。今生きている。であれば、その存在はこの世界に肯定されている。お前は生きていていいということだ」

 ちらりとこちらを見ながら死神はそう言った。あまりにも黒すぎる羽が、日本刀のように白くきらめいた。

 別に慰めようという気はないだろう、彼から見えている事実を述べただけにすぎない。僕に優しくする理由がない。僕が傷ついて、例えば死を選んだとしても彼にとって何も問題はない。むしろそのほうが嬉しいのかもしれない。愛想笑いもない――そもそも笑顔を形作れそうにもなかったが。その声音はやはり日本刀のようにひんやりとしていた。

 彼の言葉が本当であれば、現在この世界に存在する生き物は、或いは物も、この世界に肯定されている。当人がどう思っていようが、肯定されている。例えば他者がその存在を否定したところで、その否定にはなんの意味もない。

 風が強く吹いた。思わず、椅子に置いていたコーヒーを見た。倒れていない。黒い水面は凪いでいた。

 風は一度だけ吹いて、その後嘘のようにやんだ。空を見ても雲の流れは速くない。ビルの下、公園の木々や、店先ののぼり旗に目をやったが揺れていなかった。ほんとうに一度だけで風は収まったようだ。

 公園に視線を戻し、一本の木に目をやった。葉は冬の間に落ちたのかすべて枯れ落ちていた。ちらりと何かが枝の中で揺れた。一枚だけ葉が残っていた。改めてその木をよく見ると、その一枚以外に残っている葉はなかった。その葉だけが、赤茶のワンポイントをさりげなく上品に主張していた。遠すぎて見えていないだけで、もしかすると小さな芽が枝に点在しているのかもしれない。

 あの一枚だけ残った葉は何なのだろうか。たまたま最後まで残ってしまった葉。生き残り、勝ち残った喜びよりも、混乱と悲しみの叫びが聞こえてくるようだった。風にさらされ身をよじるも、枝からは切り離されず、くるくると回りながら一人冬を乗り越え、春を迎えてしまった。役目は終えているという自覚がある。落ちるという役目さえ果たせばよい。それだけを望んでいるはずだ。それなのに未だ枯れず、葉には赤さすら保っていた。その赤さが滲み、存在を広げ始めた。赤光は散り散りになり、一足早い桜のようにゆるゆると舞い、風のない春の空に立ちのぼっていった。

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