彼女は人をダメにする
美術準備室の片付けはまだ途中だったが、仕事があるので晶は仕方なく保健室に戻ることになった。部屋を出て、名残惜しげに扉の窓から中を覗くと、皆で何事か話しながら楽しげに掃除を続けている姿が見えて、なんだか微笑ましくなった。
ついつい、ふふっと笑みが溢れる。
と、そこへ。
「楽しそうですね」
突然高橋に声をかけられ、思わず「ぴゃあ!」と変な声が漏れてしまった。
「あ、た、高橋先生」
「黒崎先生ですか」
「ぴゃあ! いえ、あの、これはっ……!」
「神滝先生って、わかりやすいですよね」
「ななな何がでしょうっ?」
「何がって。気持ちがだだ漏れって話ですよ。だって、あの人がウチに来た時からもう既に好きになってましたでしょう」
「えええっ? そんなことないと思いますけどっ? それは流石に勘違いだと思いますよっ?」
「そうですかね。初日から割と意識してたように思いますけど」
「そ、そんなことは……」
「だから私、あの日、朝木先生に心の底から同情しましたもん」
「さすがに初日は……」
晶は人差し指を顎に当て、うーんと考え飲む。
そして、黒崎が来た日の事を思い出してみるのだった。
『こちらが本日から皆さんと一緒に働いてくださることになった、黒崎清志郎先生です。担当教科は美術です。皆さん、どうぞよろしくお願いします』
二週間前、職員室で校長の横に立って仏頂面を見せていた黒崎は、その表情の硬さから、その場にいる全員に気難しい人という印象を与えてしまっていた。
今思えばあれは仏頂面ではなくそういう人相な上に緊張が上乗せされた結果の物だったのだろう――――晶はそんな事を考えていた。
その後、少し怖い人だなという印象のまま仕事に戻った晶だったが、その日の昼休み、なんだか疲れた顔をして俯き加減でため息を付きつつ廊下を歩く彼を見かけ、謎に胸がうずうずするのを感じていた。
(落ち込んでる……?元気がない……? あんな近寄りがたい雰囲気を出してたのに、意外と弱い部分があったりするのかな……)
そんなことを考えている間に、すれ違ってしまった。
そしてなんとなく彼を振り返ってみると。何故か、何もないところで躓いてこけそうになっていて、その姿を見た瞬間、再び胸が謎にうずうずするのを感じていた。
そしてその後、図書室で、背伸びをしても微妙に届かない場所にある本を必死になって取ろうとしていると、背後からひょいと腕が伸びてきて目当ての本を取ってくれた。
振り向くと、相変わらずムスッとした顔の黒崎が立っていた。
『これでいいんですか?』
と、本を差し出してくれた。
『ひゃ……ひゃい……』
古の少女漫画を彷彿とさせるシチュエーションだが、晶はその時、確かに胸がきゅんとするのを感じていた。だがそれは今、当時の事を思い出したからこそそう思うのであって、その時はまだ、その感情が何なのかよくわかっていなかった。
更に美術準備室の前を通りかかった時、扉の窓から中をチラッと覗いてみると、彼は散らかり放題の部屋の中で途方に暮れて頭を抱えており、そんな姿を見るとまた胸がうずうずとしたのだった。
そしてその日の放課後、晶が書類仕事をしていると、おもむろに扉が開いて黒崎が入ってきた。
『こんにちは。どうかされましたか?』
『すみません、絆創膏を一枚貰えませんか。少し怪我をしてしまいまして』
『大変! こっちに来てください、手当しますので』
『あーいや、ちょっと紙で指を切ってしまっただけですので絆創膏だけ貰えれば』
『ちゃんと消毒しないとだめですよ。ばい菌が入っちゃいます』
晶はそう言うと、すぐに棚に消毒液を取りに行き、黒崎は絆創膏を貰えそうないとわかって諦めたのか、渋々、と言った様子で丸椅子に腰掛けた。
晶は机に戻ってくると、すぐに手当を開始した。
『はい、ちょっと染みますよー』
ガーゼに染み込ませた消毒液を傷口に当て、優しく声をかける。
『すみません、お手数をおかけしまして』
『気にしないでください。私は保健室の先生なんですから。それより……』
と晶は黒崎の手に触れたまま、彼の指に視線を落とす。
『なにか?』
『あ、いえ。その……お仕事の時は指輪を外してるんですね』
『指輪? ……ああ、もしかして結婚指輪のことですか』
『は、はい。他の先生はお仕事の時もずっとつけてらっしゃるから珍しいなって』
『いえ……お恥ずかしながらまだ独り身でして。結婚の予定もありません』
『あ、そ、そうなんですねっ? でも黒崎先生って結構おモテになりそうですよね』
『全然ですよ。その証拠にもう七年近くそういった人はおりませんし』
『ぴゃう! そ、そうなんですねっ?』
『ぴゃう?』
『ま、まあ、そういうものは無理に作る必要はないと思いますし、全然いいと思います!』
『そうですか?』
『はい! 独身万歳です!』
などと話しながら、絆創膏を何重にも重ねて貼りまくってしまう。が、その事に、彼女は全く気づいていなかった。絆創膏を剥がした後のゴミが部屋を舞い、黒崎の指は絆創膏の重ね張りでこんもりとしてしまい……やっとその事に気がついた晶は青ざめ、「ぴゃうう! ごめんなさい!」と叫ぶのだった。
すると。
それがおかしかったらしく、黒崎はちょっと吹き出し、楽しそうに笑うのだった。
『ふっ……こんな失敗、漫画でしか見たことありませんよ』
『へぁ……』
楽しげに苦笑する黒崎の表情に見惚れ、間の抜けた声を漏らしてしまう。
『というか、この歳で独身ってそんなに変ですかね』
『あ、いえ! 都筑先生も独身ですし全然!』
『そうなんですか』
『そうですよ! なので自信持ってください!』
『なるほど。じゃあ、まあ、引き続き独身を謳歌するとしますかね』
『はい! それがいいと思います!』
『あー、ところで神滝先生。そろそろ、放していただけるとありがたいのですが』
『へ……?』
とそこでようやく晶は自分が両手でしっかりと黒崎の手を握っていることに気がついた。
『ぴゃあ! すすすいませんっ』
『いえ。お気になさらず。それじゃ、私はもう行きます。傷の手当ありがとうございました』
と黒崎は立ち上がり、軽く会釈してから去っていった。
『あ、は、はい……』
去ってゆく黒崎の背中を名残惜しく思ったが、その時の彼女はその感情が何か全く分かっていなかった。
というような事を思い出し、恥ずかしさで真っ赤になった顔を両手で覆うのだった。
「……さりげなく探りを入れてました……。それどころか落ち込んでる黒崎先生の顔を見て、おそらく母性本能だと思われるものががうずうずしてました……」
「朝木先生に毎日のように口説かれてるのに、なんで黒崎先生なんですかね」
「な、なんでと言われましても……」
「まあ、別に人を好きになるのに正当な理由はいらないでしょうし、なんだっていいと思いますけど。それじゃ」
高橋はそう言って、さっさと去ってゆく。
晶は扉の窓からチラッと部屋を覗き、一生懸命に部屋を片付ける黒崎の姿を見てにやにやと頬を緩ませるのだった。
★
「先生、おかえりなさい! 晩ごはんもうすぐできますからね」
帰宅するとエプロン姿の晶が無邪気な笑顔で出迎えてくれて、部屋で着替えを済ませてリビングに戻るとテーブルにはもう晩御飯の肉じゃがとサラダが並べられていて、しかも、当たり前のようにそれは美味しくて。晶は可愛らしい笑顔で今日あった出来事や行ってみたい場所のことなどを話してくれて、食べ終わると二人で並んでソファに座ってテレビを見て。
そんなふうに誰かと過ごすのは、黒崎にとって実に数年ぶりのことだった。誰かと食を共にし、テレビを見ながら他愛もない話をする。
ただそれだけの事が人間にとってどれだけ幸せなことなのか、晶と過ごしたこの数日間で嫌と言うほど気付かされた。
(この幸せに甘えてはいけない。こんな幸せ、ただの偶然なんだ。それに、晶の優しさは嬉しいが、さすがに男としては辛い部分もあるしな……)
「よしよし。いい子いい子。今日もお仕事頑張って偉いですねえ。疲れたら、いつでも私のお膝に甘えてくださって構いませんからね? 遠慮しないでたーっぷり甘えちゃってください。えへへ、気持ちいいですか? じゃあ、そのまま、おねんねしちゃいましょうか。よしよし、よしよし」
頭の中であーだこーだと偉そうに言った黒崎だったが、気がつくと、膝枕で頭を撫でられていた。
私は子供だっただろうか?
思わずそんなことを考えるほど、晶がどろどろに甘やかしてくる。
(いや、だから、何してるんだ私はっ……!)
思わず唇を噛み締めた。
すると、
「お口噛んじゃだめでちゅよ。恥ずかしがらなくてもいいでちゅからねー。よしよし、よしよし」
赤ちゃん言葉で甘やかしてきた。
「赤ちゃん言葉はやめろ! 頼む! ていうか、甘やかすな!」
このままではだめだ、と黒崎は慌てて飛び起きた。
「でも、男の人は赤ちゃんみたいに甘やかされると喜ぶって書いてましたよ? 私、ちゃんとお勉強しました! なので遠慮せず好きなだけ甘えちゃってください」
「何を見たんだ一体っ? とにかく、私のことは甘やかさずに放っておいてくれ……」
「でも、幸せそうな顔してましたよ?」
「し、してない!」
「むう。素直じゃないですねえ」
「お前は私をダメ人間にしたいのか……?」
「違います。先生を甘やかしたいだけです」
「だから私を甘やかす必要なんてないだろう? お前になんのメリットがあるんだ」
「はい。私も先生も幸せになれます」
「ああ、そういえば変な性癖があったな」
「だ、だから性癖って言わないでくださいっ」
「とにかく、今日はもう寝るぞ。明日も仕事だろう」
はあ、とため息をつきながら立ち上がる。晶は少し不服そうに口先を尖らせるが、黒崎はそれを無視して部屋に向かった。
が、当然のように一緒に入ってこようとする晶に気が付き、ぴたりと足を止めた。
「おいこら。何をしている」
「えっと……添い寝、しちゃだめですか?」
恥ずかしそうに上目遣いで彼を見つつ、もじもじする晶。それが可愛くて、いや、可愛すぎて、うっかり胸がギュンとなる……が、すぐに我にかえり、
「駄目に決まってるだろう。何度も言っているが、そういうことは恋人にしてやれ。晶ならすぐいい男が見つかるだろう。じゃあな、おやすみ」
「はあい……」
晶は残念そうにしょんぼりしながらトボトボと自室に戻ってゆく。
そうして部屋に戻った黒崎は、扉を閉めると盛大にため息を吐きながらその場に座り込むのだった。
「あー……だめだ。ヤバい。このままだと本当に頭おかしくなりそうだ。」
★
翌日、晶と京介達は昼休みにこっそりと美術準備室を覗きに行った。
準備室ではカンバスの前に座った七瀬が黒崎になにやら指導を受けており、その時の黒崎の表情がとても優しく、七瀬もとても嬉しそうな様子を見せている。
そんな二人の姿を見て、晶と京介は顔を見合わせ嬉しそうにふふっと笑うのだった。
そんなふうにして、一週間が過ぎようとしたある日。
黒崎は、真っ白なキャンバスの前でぐったりと両腕を垂らして力なく座っていた。するとこへ、
「失礼しまーす……って、どうしたんでふな?」
京介達が入ってきた。
「ああ、お前達か。なんだ、今日は七瀬はいないのか」
「ええ。幼稚園から呼び出しがあって帰っちゃったんです。ところで先生、なんだか元気がなさそうですがどうしたんですか?」
「一体何があったんです? もしかしてだいぶストレスが溜まってるんじゃないですか」
緋夏が少し心配そうな表情を見せた。
「晶先生とケンカでもしちゃったんですか」
時生が心配そうに声をかけ、
「晶先生呼んできましょうか? 抱きしめてもらったらまた元気出るかもしれませんよ」
正木がはっはっはと楽しげに笑う。
「いい! いい! 晶はもういい!」
「本当に何があったんですか?」
京介がおろおろしながら尋ねると、黒崎は頭を抱えて仰け反り、叫ぶように説明を始めるのだった。
「アイツと一緒にいると人として駄目になっていきそうで怖いんだ! ちょっと疲れた顔を見せるとすぐにあの柔らかくてふわふわで大きな胸で抱きしめながら頭をなでてくれて、全肯定してくれて、おまけに毎日気がつくと膝枕されて頭を撫でられていて、更に毎日朝昼晩美味しい手料理で腹を満たしてくれて、掃除洗濯も全部やってくれて私には一切何もさせようとしないんだ!なんとか食器洗いだけはやらせてもらってるがな!更に毎朝可愛らしい笑顔で起こされるし既に朝ごはんはできてるし、おはようのハグは当たり前だし勝手に布団に潜り込んできて一緒に二度寝してる時もあるし、この間なんか膝枕しながら赤ちゃん言葉で甘やかしてきたんだぞ!」
「のろけですか」
正木が言うと、
「違うわ! こんな生活が続いていたら人として駄目になると言っとるんだ! そう、このままでは……人として駄目になる……」
「男には夢みたいな状況ですがね」
正木はそう言うが、黒崎は頭を抱えて首を振る。
「これが恋人ならいいが、私は赤の他人のおっさんだぞ。手なんか出せないし出して言いわけもないし、ただただ辛いだけだ。それにこのままでは本当に人として駄目になってしまう……というわけで、明日、ちゃんと晶を説得して、家を出ていこうと思う。しばらくネカフェかホテル暮らしになるが、仕方ない……」
「なるほど。でしたら、俺達も一緒に説得しましょうか?」
「達って、私達もなの?」
緋夏が眉をひそめる。
「うん、うん、こういうのは、みんなでお話したほうがいいと思う!」
時生が元気よく手を上げる。
「まあ、別に構わんが……」
「やったね! じゃあ、みんな、晶先生の家の前に集合ね!」
「って、待ってよ本当に私達も行くの?」
「緋夏ちゃん! 困った時はお互い様だよ!」
「はっはっは、まあいいじゃないか。どうせみんな暇だろうしな」
「まあ、別にいいけど……」
「よーし、じゃあ決まりだね!」
時生は嬉しそうにぴょんぴょん飛び跳ねる。
その様子は困っている他人を助けたいというより、楽しそうなことを見つけてワクワクしているだけにしか見えない。が、動機は何であれ、協力してくれるのはありがたいことである。
(みんなで説得したら晶も諦めてくれるだろう……)
と、そんなことを考えていると、スマホがメッセージの受信を知らせた。見ると、晶からだった。
『先生、今日の晩ごはんは肉じゃがに決定しました! 楽しみにしていてくださいね』
そのメッセージと共に、うさぴょ丸がスキップしているスタンプが送られてきた。
晶は今の生活を楽しんでいるようだが、いつまでも居候し続けるわけにはいかない。ここら辺でしっかりと線引きして、またもとの関係に戻るべきだ。
黒崎は、なんとなく名残惜しさを感じつつもそう決意するのだった。
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