魔蟲クモハチ


 朝起きると、何故か隣に晶が寝ていた。

 可愛らしい無防備な寝顔ですやすやと心地よい寝息を立てている。

 朝目が覚めて隣にこんな可愛い子が寝ているなんて、男なら誰もが喜びそうなシチュエーションである。が、黒崎は喜びよりも危機感のなさすぎる彼女に不安を覚えるのだった。


「おい、晶、おい起きろ」

「ん……」


 晶はぼんやりと目を覚まし、眠そうに目をこすりながらのろのろと起き上がった。


「まったく。男のベッドに勝手に潜り込むもんじゃないぞ。私はいいが他の男ならどうなってることか」


 と起き上がると、

 

「んー……先生以外にはしませんよう……」


 晶がのそのそと膝の上に移動してきて、正面からぎゅうっと黒崎に抱きついてきた。


「おいこらっ」

「えへへ。朝ごはん用意できてますので一緒に食べましょうね」


 とろけるような声でそう言いながら、よしよしと頭を撫でる晶。どうやら起こしに来てそのまま一緒に二度寝したらしい。


「わかった、わかったからちゃんと起きろ」

「はあい……」


 と晶がそっと体を離す。

 そして優しい笑みを浮かべながら、また黒崎の頭を撫でる。


「おはようございます。よく眠れましたか?」

「あ、ああ……」

「えへへ。よかったです。それじゃあ、昨日の約束通り先生の事ぎゅうってさせていただきますね」

「いや、それはもうさっきやっただろう」

「それとは別のやつですよ」


 と晶は再び黒崎にぎゅーっと抱きついた。


「今日もお仕事頑張りましょうね。でも無理はしないでくださいね? もししんどくなったらいつでも私のところに来てください。また、ぎゅーってしてあげますから。ね?」


 頭を撫でられながら耳元で囁くようにそう言われ、黒崎は少し恥ずかしくなった。

 こんなふうに誰かに抱きしめられるのも優しくされるのも頭を撫でられるのも、もう何年ぶりだろうか?

 自分の年齢や歳の差、そしてお互いの関係を考えると絶対に手は出せないし出してはいけないのだが、許されるならこのままずっと抱きしめていてほしいと思ってしまう。


(あー……くそかわいいな。このまま抱きしめて柔らかさと温もりを堪能したいし、できることなら胸に顔を埋めて頭撫でられながら二度寝したいし許されるなら揉みた……)


「すまん殺してくれ」

「急にどうしたんですっ?」

「すまん。なんでもない。とにかく起きるぞ、遅刻する」

「わかりました」


 晶は不思議そうな顔をしている。

 彼女的にはこの行為にそこまで特別な意味はなく、ただなんとなく、軽く友人にハグするような感覚で抱きついているだけだろう──黒崎はそう思っているが、一方の晶はというと、黒崎の事が好き過ぎて、抱きしめて頭を撫でたいという欲望からこのような行動に出ているのだった。


「あー……ところでな、晶」

「はい?」

「こういうことは、好きでもない男にやるべきではないぞ? お前は友達感覚でやっているのかもしれんが、こういう軽はずみな行動は相手を勘違いさせるし、下手するとお前自身も危険な目に合うかもしれん。だから、な? もう少し危機感を持って行動しろ。な、わかったか?」

「違います! 私、昨日お勉強したんです!」


 と晶は真剣な顔で、サッと、どこからともなくシステム手帳を取り出してみせた。

 

「は? べ、勉強?」

「はい! どうやったら先生が喜んでくれるのか、色々とネットで調べてみたんです! 正直先生の好みとかまだよく知りませんけど、とりあえず、男の人が喜ぶことを色々と勉強してみたんです」


 恥ずかしがる様子もなく、ただただ純粋に笑顔を見せる晶。

 一体何を勉強したのか? その手帳に一体何が書かれているのか? こんな可愛い女の子にこんな事を言われたら、若い男なら昇天してしまう程嬉しいかもしれない。だが、年齢差的に晶のことは妹としか見ていない黒崎にとっては、彼女の言葉も笑顔も、喜びではなく大きな不安でしなかった。

 期待なんてない。ただ、世間知らずで懐いた相手に尽くそうとする彼女のことが、心配でしかなかった。


「あ、あのな晶? だから、私にそういうのはいらないんだ。そういうのは彼氏ができた時にでもやってやれ」

「彼氏なんていりません。私は黒崎先生に喜んでもらいたいんです。そして、いーっぱい甘やかしたいんです」

「……一体何を勉強したんだ」


 と、ひょいとシステム手帳を奪い、パラパラと中身を確認する。すると晶は顔を真っ赤にして「ぴゃああああああ!」と悲鳴を上げ、手帳を奪い返そとする……が、黒崎は手帳を頭上に掲げ、更に晶の顔をグイッと押し退けながら、片手で手帳を持って適当にページを開いてみた。

 そこには、黒崎先生の髪を乾かしてあげる、たくさん美味しいお菓子を作ってあげる、栄養満点のお弁当を作ってあげる、疲れている時は膝枕で頭を撫でてあげる……等々可愛らしいことが書かれていた。


「なんだ割とまともな事を……」

「も、もういいですよねっ?」


 晶が手帳を奪い返そうとぶんぶん我武者羅に腕を振る。と、彼女手が手帳にぶつかり、ベッドの上にバサッとページを開いて落下した。

 そこには、一緒にお風呂に入って体を洗ってあげる・おっぱいに顔を埋めてあげてよしよししながら添い寝してあげる・触りたい時、触らせてあげる……と可愛らしい字で、少し控えめに小さく書かれていた。


「ぴゃああああ! ちちちち違うんですそれはただのメモです! ネットに書いてあったことを、一応、メモしただけなのでお気になさらず!」

「いらんことを学ぶな!」


 怒って、ピンっと晶の額を指で弾く。


「だってえ……」

「ほら、もういいから。朝飯食うぞ」


 と手帳を返し、ため息をつきながら、追い払うように手をパタパタ振る。


「はあい」


 晶は手帳を胸に抱え、しょんぼりしながら部屋を出て行った。

 そうして晶が出て行くと、黒崎は疲れたように大きなため息を吐き出した。


「全く……何を考えてるんだか。一緒に風呂て」


 ふと、脳裏に、泡で濡れた体をもじもじさせながら恥ずかしそうに上目遣いで黒崎を見る晶の姿が浮かんでしまう。


『……えっと……隅々まで洗って差し上げますので……先生はじっとしていてくださいね』


 そう言って、そっと体を密着させてくる……


「晶は妹! 晶は妹! ないないないない! 何考えてるんだ! ああああああああああああああああああ!」


 顔面を両手で押さえ、ベッドに倒れ込む。

 年齢を考えれば歳の離れた妹と思うのが正解だし、実際そんな感覚なのだが、だが結局は赤の他人である。必死に妹だ妹だと言い聞かせてみても、あのむちむちの体と可愛らしい顔に迫られたら男の本能が理性を押し退けてむくむくと顔を出そうとしてしまう。それを押さえるべく必死に「晶は妹!晶は妹!」と唱えスマホの角で頭をガンガン殴りつける。


「……これはもうだめだ。一緒にいたら身が持たん……」


 遠い目をしてそう呟くと、とりあえずもう一発だけ頭を殴っておいた。


    ★


「不味い。このままでは本気で頭がどうにかなってしまいそうだ」  


 昼休み、美術準備室で晶の手作り弁当の写真を捕りつつ黒崎は盛大なため息を吐き出した。

 今日のお弁当もとても可愛らしく、目つきの悪い犬とニコニコ笑顔のうさぎのおにぎりがメインだがちゃんと野菜も豊富で唐揚げや肉団子も入ったバランスのいい弁当となっている。


「彼氏に作る弁当なんだよなあ……」

 

 他人のおっさんなのにこんな凝った手作り弁当を作ってもらうことがなんだか申し訳なく思えた。

 なんてことをしていると、扉をノックする音が聞こえた。軽く返事をすると、すぐに扉が開いて、京介達が入ってきた。だが七瀬の姿はない。


「なんだもう飯を食ったのか? 早くないか?」

「えへへー。今日は先生と一緒に食べようと思って、お弁当持ってきちゃいました」


 時生はとても楽しそうな様子だ。

 よく見ると四人とも片手に弁当を持っていて、しかし京介は申し訳なさそうな顔をしているし緋夏は強引に付き合わされたと言わんばかりに無表情だし正木はどうでも良さげに突っ立っている。


「私は別に構わんが烏丸以外は乗り気じゃなさそうだぞ」

「みんな照れてるんですよ」


 疑う事も無く満面の笑みで言う時生。だが明らかに、どうみても、照れている様子はない。


「まあ、どうせ食べたらここの片付けするんだからどっちで食べても同じだけどね」


 緋夏はそう言うと、適当な場所に座った。

 それに続いて時生は笑顔で床に座り、京介は申し訳なさそうにその隣に座った。そして正木はというと、晶の手作り弁当を覗き込みに来た。


「ほほう。愛情たっぷりですね」

「作るのが好きなだけじゃないのか?」

「それにしては凝ってる気がしますけどね」


 正木は眼鏡をキラリと光らせる。


  

「そういや七瀬は一緒じゃないのか? 今日来るって言ってたはずだが」

「あ、今日七瀬君は日直で、都筑先生に用事を頼まれて職員室に行ってます。もうすぐ来ると思いますよ」


 とお弁当を広げながら京介が言う。


「そういえば七瀬君、中学の時美術部だったんですって。絵、すっごく上手なんですよ」


 唐揚げを頬張りながら、時生が言う。


「ああ、そういや昨日美術室覗いてたな。声かけようとしたら逃げられてしまったが。美術部に入りたいんだろうか」

 

 と黒崎が考えていると、正木が口を開いた。

 

「本人は絵は趣味だしたまに描ければいいと言ってますが、恐らく、本音は隠してるでしょうね。そこら辺のことはあんまり深く話したことはないですが、でも中学の時、将来は絵の仕事をしたいって何度か口にしてましたし。それに中学の時は家でもよく描いてるって話してましたし遊びに行くと自分の絵を飾ってたりもしてたんですがね。親が再婚してからはそれもやめてしまったみたいです」

「なるほど?」

「えー、七瀬君絵とっても上手なのに勿体無いよ。再婚相手の人、絵が嫌いだったのかなあ」

「いや。単に歳の離れた妹の世話で忙しくて趣味の時間が持てないらしい」


 そう言いながら適当な場所に座り、弁当を広げ始める。

 

「……でもアイツ今でも絵を描くことが好きだと思うんですよね。でも聞いても妹の方が大事だからって笑って、話を逸らすんですよ。まあ、本人がそれでいいなら別に何も言いませんがね」

「素直に七瀬君の事が心配だから声かけてあげてくださいって言いなさいよ」


 回りくどい正木に業を煮やした様子の緋夏が、呆れ気味にそう言った。


「別に心配なんかしていない」

「まったく。素直じゃないんだから」

「なるほどな、わかった。じゃあ後で話を聞いてみるか」

「うんうん! 一度きりの人生なんだから好きなことして楽しまなくちゃ損だよ!」


 時生は眩しいくらいの笑顔を見せる。

 

「時生さんは全力で好きなことをして生きてそうだね」

「うん! アイドルも遊びも全力だよ!」

「勉強は? 中間テストギリギリだったでしょ」


 緋夏が冷たい視線を向ける。

 

「緋夏ちゃん。お勉強は、好きなことじゃないから程々でいいんだよ」

「期末で泣いても知らないわよ? 補修になったらみんなで遊びに行けなくなるのに」

「えええええ! 駄目だよ駄目だよ! 夏祭りに海にプールに遊園地! あ、あと、一年生は確かキャンプあったよねうちの高校!」

「嫌ならちゃんと勉強しなさい。阿賀波君、ちゃんと勉強見てあげてね」

「う、うんわかった。時生さん、今日から一緒に勉強しようか」

「うぅ…………辛いよう」

「赤点取るよりよっぽどいいでしょ」

「それはそうだけど……」


 時生は箸を咥えたまましょんぼりと項垂れた。


「烏丸。面倒くさいかもしれんが将来のためにも勉強はきちんとやっておいた方がいいぞ」

「もー、先生まで! わかりましたから、ちゃんとお勉強しますから!」

「はっはっは。期末の結果が楽しみだなあ」


 正木が実に楽しそうに笑う。


「うう……みんなの意地悪……」


 などといじけていると、コンコンとノックの音が聞こえた。七瀬が来たのか、と皆がそちらを見ると、


「黒崎先生、お弁当一緒に食べましょう!」


 晶がご機嫌に扉を全開にして姿を現した。


「あのなあ。お前と一緒に飯食ってるとこなんて見られたら変な噂たてられるだろ」

「私達も一緒なら大丈夫ですよ」


 時生が満点の笑みを見せる。


「まあ、それはそうかもしれんが……」

「えへへ、じゃあ一緒に食べましょ」

 

「まったく……」


 と黒崎が床に座ると、晶がすぐにその隣に座る。


「烏丸達がいない時は駄目だぞ。噂になったら晶も困るだろ」

「別に私は困りませんけど」

 

 と晶が口先を尖らせる。

 しかし黒崎は大きくため息を吐き、


「私みたいなおっさんと噂になってみろ。どう考えたって気持ち悪いだろ」

「別に全然気持ち悪くなんかないですよ」


 ぷう、と頬を膨らませ、きゅっと黒崎の袖を掴む。

 彼女のその様子から彼への好意は明らかだが、歳の差もあってかそのことに全く思い至らない彼は彼女の言葉を真剣には捉えず「はいはい」と適当に返事をするのだった。そんな彼に、晶はまた不満げな顔を見せるのだった。


「もー、黒崎先生は駄目だなあ」


 時生が大げさに呆れてみせる。


「急に何なんだ一体」

「そんなだから結婚できないんですよ」


 正木がはっはっはと笑う。


「余計なお世話だ……」


 そんな事を話していると、控えめに扉をノックする音が聞こえた。そしてゆっくりと扉が開き、少し緊張気味な表情の七瀬がひょこっと顔を覗かせた。


「ども……」

「ああ。わざわざすまないな。昼まだだろ、その辺適当に座っていいぞ」

「あ、はい。ありがとうございま……て、あ、晶先生っ?」

「いらっしゃい、七瀬君。こっちきて一緒にお昼食べよ?」

 

 晶は床をポンポン叩いて七瀬を自分の隣に促す。


「あ、は……はい」


 七瀬は頬を赤らめながら照れ臭そうに返事をし、少し緊張気味に晶の隣に座る。


 そして黒崎も、晶の隣に座る。


「じゃ、お昼食べよっか」


 と晶は膝の上で弁当を開け、手を合わせていただきますをする。そんな彼女の弁当を、七瀬は、じいっと凝視する。


「どうかしたかな? 七瀬君」

「あ……いや。黒崎先生のお弁当とお揃いなんですね。もしかして黒崎先生のお弁当、晶先生が作ったんですか?」


 指摘され、黒崎はギクッと肩を震わせる。

 するとすかさず正木が隣にやってきて、こっそりと耳打ちする。


「気をつけたほうがいいですぜ、旦那。七瀬という男はこう見えてゴシップが大好きでしてね。奴にバレたら尾ひれ背びれがついた状態で光の速さで学校中に知れ渡るんですぜぇ」

「なっ……! マジかっ……!」

「だから一緒に暮らしてるなんてこと、絶対にバレない方がいいですぜ」


 正木は何故か江戸っ子口調で嘘八百を並べ立てる。

 そしてそれを聞いた黒崎は頭をフル回転させ、

 

「あーいや、ほら、これはアレだ! 私は独身だろう? だからついつい三食カップ麺で済ませてしまっていてな! さすがに体に悪いから、と神滝先生が作ってきてくれたんだ! いやあ有り難い話だな!」

「へ? 何言ってるんですか先生」


 晶は京介の友達である七瀬になら二人の関係を話してもいいと思っていたのだろう。突然嘘をつく黒崎に驚いた様子で目を丸くしている。


「へえ。晶先生ってやっぱ優しいですね」

「別に優しくなんかないよ。ただ黒崎先生に作ってあげたかっただけだよ」

「ふうん……」


 微かに、七瀬の表情が曇る。

 意中の相手が他の男に弁当を作る、それも作ってあげたいからなんて笑顔で言われたら、誰だって面白くないだろう。七瀬は何でもないように返事をしたが、視線は横にそれ、表情は僅かに曇り、口先は不満げに少し尖っている。わかりやすいくらい拗ねている。


「そうね。晶先生は養護教諭ですものね。やっぱり他人の不摂生は気になるんでしょ」

「そ、そういうものなのか?」

「そういうものでしょ。職業病ってやつよ」

「職業病……そっか、そういうのもあるよな。はは、保健室の先生も大変ですね」


 納得したのかしていないのか、七瀬は笑っているがその表情はどこかぎこちない。

 七瀬が晶に好意を抱いている事は京介も知っている。そして晶が黒崎に好意を抱いている事も、彼女の態度から明らかである。だが黒崎本人はその事に全く気付いていない。

 京介はなんだか居心地が悪く感じ、せっかくのお弁当も味がわからないのだった。


「それよりとっとと食べちゃいましょう。お昼休み終わっちゃうわよ」


 緋夏はそう言って、パクパクとお弁当を食べ始める。


「ようし! みんなで競争しよう!」


 時生が提案するが


「駄目だよ烏丸さん。早食いは体に悪いんだよ? 消化不良を起こしたり、満腹感を感じられずに太っちゃったり、虫歯の原因にもなるんだから。焦らずゆっくり食べましょう? ね?」

「うえーん……わかりましたよう……。今日はよく注意されるなあ」

  

 晶にやんわり注意され、時生はわかり易いほどがっくりと肩を落として落ち込むのだった。


 

  ★



「沼田先生、単純に整理整頓が苦手だったのかなあ」


 時生はプリント類や描きかけの絵の突っ込まれたスチールラックの奥から、タイ土産らしき派手な原色の細かな模様で彩られたエスニックな赤い象を取り出した。


「そういえばお部屋もだいぶ散らかってたなあ。台所も洗い物溜まってたし」

「独身の男ってそういうものなのかもね」


 どこかの部族を模したらしきハワイ土産の木彫りの人形を手に持ち、それを冷めた眼差しで見つめながら、緋夏が言う。


「私はここまで酷くないぞ。掃除はあまりしなかったが」

「でもお休みの日は一日中タバコ吸ってお酒飲みながらゲームしてたんですよね?」


 晶に言われ、黒崎はうっと押し黙る。


「た、確かにそうだが。だが部屋はまあ、そこまで汚くなかったはず……だ」

「ダメっすよ先生、もうちょっと節制しないと。三食ラーメンな挙句酒タバコって、早死まっしぐらじゃないすか」


 呆れ気味に言う七瀬のその言葉がグサッと胸に刺さり、しかし何も言い返せず黙り込んでしまうのだった。


「駄目です! 早死なんてしちゃだめです! 健康なら私がきちんと管理してあげますから長生きしてください!」


 晶は青ざめ、ガバッと黒崎に抱きつく。


「わー! わかった、わかったから! 引っ付くな!」


 慌てて必死に晶の顔を押し戻し、叫ぶ黒崎。

 そんな二人を、七瀬は面白くなさそうに、むうっとした顔で見ている。


「大丈夫よ、七瀬君」


 本を巻数順に棚に並べながら、緋夏が言う。


「な、何がだよ」

「七瀬君、15歳も年上の人……三十歳の人と付き合える?」

「……俺の母さん37なんだけど」

「でしょ? 晶先生も同じよ。十五も歳上の人なんか恋愛対象じゃないわよ」

「そっか……確かに」


 と、ちらっと晶に目を向ける。

 晶は必死に黒崎に抱きつこうとし、黒崎はそれを彼女の顔を押し返しながら拒否している。付き合っているわけじゃない、そう思いはするけれど、二人の関係はたはだの同僚と言うには近すぎるような気もする。

 

「あれは兄妹のじゃれあいよ」

「兄妹……」

「そ。だから気にしなくてもいいと思うわよ。それより机の上の本、持ってきてくれるかしら。第五集からのやつ」

「ん……」


 釈然としない様子だが、緋夏に言われるがまま机の上の本を取りに行く。それは画家の生涯を作品と共に詳しく解説している本で、一冊の厚みが10センチを優に超えていた。まさに鈍器である。


「人殺せそうだな……ん?」


 と七瀬は、机の上に飾ってあるある物に気がついて手を止めた。


「どうかした? 七瀬君。あ、ねえねえ見てこれゴッホの自画像人形! 体中の関節が動くよ! 凄いね!」


 京介は嬉しそうにゴッホの全身の関節をバキバキと動かしてみせた。鮮やかな青の服を着て麦わら帽子を被った、よく見る有名な自画像だ。

 全体的に油絵の質感をよく再現しており、ただ置いてあるだけなら何の変哲もない置物だが、今は京介によって軟体人間の踊りのように情けなく全身の関節を曲げられてしまっている。


「わあ、凄いね! 見て見て、こっちも凄いよ」


 時生は別の人形を持ってきて、楽しそうに関節を動かした。それは目を見開き何かに絶望しているような表情を見せながら髪の乱れた頭を抱えている男の人形だった。


「ゴッホとギュスターブ・クールベじゃないか。そんな玩具あるのか……」


 黒崎は怪訝そうな目で人形を見る。

 

「耳外れますよこれ!」


 京介がゴッホの右耳をポコンと外してみせた。

 

「誰が買うんだそんなもん」

「沼田先生がお買いになられたんだと思います」

「変なものが好きな人だったんだな……」


 などと話していると、


「あ、あの! 先生、これ」


 七瀬が写真立てを持って興奮気味にやってきた。

 そこには、一枚の絵が飾られていた。しろくまが海の家でペンギンと一緒にかき氷を食べながら、クジラが笑顔で潮を吹く様子を眺めている、というほのぼのとしたイラストだ。


「うわあ! 可愛いね、沼田先生のこういうのも好きだったんだ」


 晶が七瀬の背後からひょっこり顔を出した。

 七瀬はぎょっとし、頬を赤らめる。

 すると黒崎は、


「ああ、いや。それは私が描いた絵だ。最近描いた絵の中では結構気に入っているので飾っていたんだ」

「ええ! 凄い凄い! 先生こんな絵お描きになるんですね、以外です! えへへ、私こういう絵、大好きです!」


 晶は興奮気味に目を輝かせる。


「そ、そうか……?」

「はい! 可愛らしくてとっても大好きです」

「あんまり褒められると照れるからやめてくれ」


 黒崎は照れ臭そうに、顔をしかめてふいとそっぽを向いてしまう。すると七瀬がズイッと一歩近づいてきて、


「あの、もしかして、先生って魔蟲クモハチ先生ですかっ?」

「……ああ、まあ、そうだが……ていうか先生はやめろ」

「すげえ! 俺、クモハチ先生のファンなんです! ピクシィズのスウィーツチャレンジも毎日みてました! そっか、最近更新なかったのってやっぱ転職したからなんですね!」

「なになに、魔蟲クモハチ先生て何っ?」


 時生がわくわくした様子で黒崎と七瀬を見る。


「もしかして先生、副業でイラストレーターしてるとかですかっ? 凄いです!」


 晶も興奮気味に瞳を輝かせる。


「あーもー! 勘違いするな! ただの趣味だ。イラスト投稿サイトにイラストを投稿したり、たまにハンドメイドのイベントで作品を売ったりしてるだけだ。と言ってもここ2年くらいはやってないがな」

「へえ、凄いで」


 と晶が言いかけると、それを遮り、七瀬が興奮気味にズイッと身を乗り出す。


「あ、あの! 俺、前に通販で買いました! キーホルダー一個ですけど……」


 七瀬は申し訳なさそうにちょっと俯いてしまう。

 しかし彼が自分の絵を気に入ってくれて、しかも作品を買ってくれたことは黒崎にとってとても嬉しいことであった。けどそれを素直に口にするのが苦手な彼は、照れ臭そうにそっぽを向いて、人差し指でポリポリと頬を掻きながら、


「一個だろうが二個だろうが、気に入って買ってもらえるのは嬉しいことだ。数の問題ではない……」

「七瀬君、本当に大好きなんだね。黒崎先生の絵」


 京介がそう言うと、七瀬は更に瞳を輝かせ、喋りだす。


「好きだよ! めちゃくちゃ好きだよ! 俺、小学校の時に魔蟲クモハチ先生の絵を見て、俺もこんなふうな絵を描きたいって思って、それで美術部に入ったんだぜっ?」

「そ、そう……なの……か……」


 平静を装おうとする黒崎だが、その口元は嬉しそうにニヤニヤ緩みきっている。


「めちゃくちゃ嬉しそう」


 緋夏がそう言うと、時生はうんうんと大きく頷き、


「これはめちゃくちゃ嬉しいやつだよ、緋夏ちゃん!」

「よかったですね、黒崎先生」


 晶もにこにこ嬉しそうだ。


「あー……七瀬。美術部には、入る予定はないのか?」

「あ、いや……うち両親共働きなんですよね。しかも父さん単身赴任中で。だから妹達の世話は俺がやらなくちゃいけなくて。だから部活してる暇ないんですよね」

「そうか。……もし、七瀬が嫌でなければ、昼休みに絵を見てやろうか?」

「本当ですかっ……!」


 七瀬はぱあっと表情を輝かせた。

 が、すぐに、ハッとして、誤魔化すように笑うのだった。


「あー……いや、でも俺、描くのはもういいかなって。美術部には入ってたけど、描くより見る方が好きだなって思ったんですよね」


 本当は絵を描きたいし、美術部にだって入りたい、でも妹の世話があるから部活はしていられない。だから彼は、必死に、自分の気持ちに嘘をつく。

 彼の言葉が嘘だということは、その場にいる誰の目にも明らかだった。

 

 京介達は彼が自分の気持ちから目を逸らして嘘をつく事が辛くて、でもどうしてあげたらいいのかわからず顔を見合わせた。

 すると、


「七瀬。それは本音か?」


 黒崎はそう言って、真っ直ぐに、七瀬の目を見つめた。


「本音ですよ。それにだいたい俺、あんまり絵上手くないですし……才能もないのに絵なんか描いたってしょうがないっていうか」

「みんな才能があるから絵を描いてるんじゃない。絵を描くことが好きだから描いているんだ」


 と黒崎は七瀬の頭を優しく撫でる。


「七瀬。色々事情はあるだろうが、でも、誰かのために自分の心から目を逸らす必要なんてないんたぞ」

「けど」

「お前は絵を好きでいていいんだ。描く事を諦める必要もない。描きたくなったら私の所に来て一緒に描けばいいし、将来、絵を仕事にしたいのなら私と一緒に方法を考えよう」

「……いいんですか……?」

「ああ、もちろんだ」


 黒崎の表情は優しく、その眼差しは温かい。

 七瀬は呆けた顔をしながら彼の表情を見つめ、それから、なんだか照れ臭そうに顔を逸らしてもじもじする。


「じゃあ……お願いします」


 彼がそう返事をすると、時生と京介は嬉しそうに顔を見合わせた。そして正木は少し安堵したように小さくふうっと息を吐いた。


「よかったね、七瀬君。私も嬉しい」


 晶は嬉しそうに満面の笑みを浮かべる。

 そんな彼女の笑顔が可愛くて、七瀬は思わずドキッとして顔を赤らめる。


「あ、ありがとうございます……」


 七瀬は呟くように、ごにょごにょと礼を言った。

 

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