九 狭間(はざま)の中

 誰一人、口を開くことは無かった。

 信長は、それでもかまわなかった。

 たとえひとりでも。

 いや、今立ち上がった政綱ら「組」の者たちがいれば。

「殿」

 小平太が、討てるのですか、と聞いた。

 それは、立ち上がった信長らをのぞく、織田家中の誰もが聞きたいことであった。

 あの海道一の弓取りを、名将を。

 稀代の傑物を、今、このような状況とはいえ、討てるのか、と。

 ……信長は、こともなげといった感じに、言い放った。

「討つ」

 その甲高い声が、合図となった。

 織田信長、出陣。

 その向かう先は、桶狭間。


 駆ける信長が愛馬の上で振り返ると、小平太ら織田の家臣たちが、われ先にとつづいていた。

「神妙!」

 小平太が笑う。皆も笑う。

 政綱らの「組」の者たちは、すでに信長の前方にいる。彼らには、桶狭間と言われた時点で、どこを目指すべきか、判っていた。

「輿に、この雨。おそらく、今頃は」

 政綱の脳裏に、桶狭間の詳細な地図が浮かぶ。時間を読む。

 桶のような、その狭間。

 その窪地に。

「小休止している頃合い!」

 政綱は馬に鞭をくれた。

 河内と新介は両脇を固める。

 又助と藤吉は、そんな彼らと信長の間の「繋ぎ」となって、追尾する。


 雷鳴。

 稲妻。

 だがその刹那、政綱は見た。

 輿を。

「読み通り」

 いこうておるな。

 政綱は振り返った。

 信長はすでに追いついていた。

 兜の眉庇まびさし越しに、輿の上の敵を求めた。

「……で、あるか」

 雨中にもかかわらず、輿を降りぬ。

 今、合戦の最中というわけか。

「天晴れ、さすがは海道一の弓取りよ」

 振り返らずとも、織田の将兵がこの場に着いているのが判る。

「聞け」

 その瞬間、天下を盗るというのは、こういうことかと――藤吉は震撼した。

「……死のふは一定いちじょう、しのび草には何をしよぞ、一定かたりをこすのよ」

 信長の好んだ小唄である。その意は「人は死ぬ。けれども、その人生をしのぶ語り草として何をす? 為したそれこそ、語られるだろうよ」という意である。

 織田軍の将兵一同、その小唄を聞いただけで、全て悟った。

「……かかれ!」


 この日、この国の、天地が引っ繰り返る。

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