二 源の王

 源頼政は暫し、放心しているかのような表情で、座したまま動かなかった。

 だがある瞬間に顔を引き締め、ぼそりと「早太はやた」と呟いた。

「――お呼びですか」

 気がつくと、頼政の前に、老いた従僕がひざまずいていた。

 いわゆる「忍び」という存在にして源頼政の郎等ろうとう猪早太いのはやたである。

 早太はかつて、頼政が鵺退治の勅命を奉じた時、ただ一人付き従った郎等であり、それだけ頼政にとって信の置ける郎等といえた。

「早太」

「はい」

「あの時の……鵺退治、鵺は斃したな、汝が」

「さようで」



「帝の宸襟を騒がせる妖魔とは、貴様かッ」

 頼政の矢が走る。


 時は二条帝の御宇みよ

 父たる後白河院との軋轢に悩み苦しむ二条帝は毎夜、不審な気配を感じていた。

「何かが朕を見つめている」

「何かが朕の寝息に聞き耳を」

「何かが……朕の匂いを」

 このままでは、何かが寝所に忍び入って、触って来て……と二条帝はおののいた。

 この時代、武勇と胆力でいえば、平清盛であろう。

 しかし、迂闊に夜間、宮中に清盛を招くわけにもいかない。

 それこそ、後白河院から、あらぬ疑いを抱かれかねない。

 思い悩む二条帝は、養母である美福門院に相談した。

「ならば、源頼政がよかろう」

 当時、頼政は美福門院と近しい立場にいた。

 頼政は猪早太を伴い、夜の内裏へと参じた。

 深更、寝ずに待つこと数刻。

 何かの気配を感じた頼政と早太は気配を断ち、何かの出方を窺った。

 何かが、射干玉ぬばたまの闇夜を走り始めた。

 帝の寝所へ向かって。

「帝の宸襟を騒がせる妖魔とは、貴様かッ」

 頼政の矢が走る。

 弓は、名弓「雷上動らいしょうどう」。

 矢は、山鳥の尾で作った尖り矢だ。

「があっ」

 矢が命中する。

 早太が走る。

 その名にふさわしき、猪突猛進の早さ。

 何かを捕らえた早太は、その顔を見た。

 黒ずんでいた。

「炭か」

 だが躊躇する暇は無い。

 早太は素早く懐剣を抜き、何かへと突き立てる。

「ぬ……え……」

 その末期の言葉を聞きながら、早太は周囲の気配を探る。

 嘶きが聞こえた。

「馬か」

 主、頼政へ目配せすると、頼政も心得たもので、高く跳躍して内裏の壁を乗り越えた。

 越えた先に。

 木下闇このしたやみに。

「駿馬が」

 何かの乗って来たものだろうと思い、どうどうと声をかけて、頼政は駿馬をつらまえた。

 その駿馬は、惚れ惚れするほどの名馬で、さぞや名のある人物の乗馬だったに違いないと――頼政には思えた。



「奇妙なことがある」

 頼政は呟いた。

 あの時、末期の言葉から「ぬえ」と名付けられた何か――結局は人間だったが――は身元不明であり、帝より「仕方なし」との沙汰を仰ぎ、亡骸なきがらを鴨川に流した。


 すると、その亡骸は消えて失せたという。


「あれは、何だったのか」

 結局、その後、夜の宮中は静けさを保ち、これまで帝を悩ませたのは、「ぬえ」が原因と判じられた。

 唯一残された証である駿馬は、そのまま頼政に褒美として下賜された。

 その馬を見た、古くから仕えている所従しょじゅうは言った。

「こりゃ、満仲まんじゅうさまの乗っていた馬みてぇだ」

 多田満仲ただのまんじゅう、すなわち源満仲みなもとのみつなかは頼政の先祖であるが、いくら何でも時代をさかのぼり過ぎている。

 所従の世辞であろうと、聞き逃していたが、今思えばあの所従は、代々当主の馬の口取りをしていた所従だ。

 源満仲。

 各地の国司を務め、莫大な財を築いたという。

 たしか最後の官職は。

「鎮守府将軍……」

 鎮守府。

 陸奥。

「もしや」

 頼政は立ち上がり、それまで黙していた早太は頷くと、静かに、何処かへと消えていった。

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