026 白む夜空と馬鹿二人
クオリオにとって読書の時間とは、至福であり至高であり救いであった。
ページを捲るたびに鼻孔を擽る紙とインクの香り。文字と知慧で練られた理論の世界。新しい学びを得られる度に生の瞬間を実感出来た。
夢中になり過ぎて、ちらりと流し見た窓外の朝焼けが、気付けば星空に変わっていた事なんて数え切れない。
だというのに。
「⋯⋯⋯⋯くそ、内容が入って来ない」
異変である。
普段であれば身動ぎ一つしない。しかし今は片足が落ち着かず、本を手に持つ指はトントンと背表紙を絶え間なくノックする。
常の読書を静寂とすれば、今はさながら暴風雨だ。
現にクオリオの心には嵐が吹き荒れていた。
「⋯⋯僕としたことが、どうしたって言うんだ」
異変を越えて事変であった。
だが口振りとは違って、聡明なクオリオには原因が分かっていた。
彼の心を波立たせ荒立てているもの。
その正体ともいえる無人の寝台を
「⋯⋯そうだ、あいつが悪い。あいつが調練までサボって何処かへ行くから。おかげで僕が問い詰められる羽目になるし」
既に沈みかけている今日一日は、振り返るまでもなく最悪だった。最悪にしたのは、今ここに居ない人物である。
「あいつが⋯⋯悪いんだ」
だから一言、文句を言ってやらねば気が済まなかったのに。
「誰が悪いって?」
「なっ! 君! 今まで何処をほっつき歩いて────」
前触れもなく帰って来た全ての元凶の、ここ一週間でうんざりするほど聞いた声に振り向いた、のだが。
粗雑な紙袋を抱えたまま、何故か泥だらけの格好で突っ立つヒイロの姿に、クオリオは一言の文句を作りきれなかった。
「⋯⋯んだテメェ。急に黙り込みやがって」
「きゅ、急に帰って来るような奴が言うなよ。いやいやそうじゃなくてさ⋯⋯なんで君はそんなに、泥だらけなんだ」
「あァ、これか。チッ、思い出すだけで忌々しいぜ、マードックの爺。本一つに掃除やら畑弄りやら倉の整理やら、散々こき使いやがって⋯⋯お蔭で門限ギリギリじゃねぇか畜生が」
「そ、掃除? 畑弄り? き、君は⋯⋯騎士団の調練をサボってまで、いったい何を」
もうクオリオには訳が分からなかった。
彼とてヒイロが騎士としての調練を真面目に取り組んでいる事は知っている。ひょっとしたら新人隊士の中では一番情熱があるのでは、と思うほどに。一部ではそんなヒイロに期待を抱く教導官だっている。
だからこそ以前、自分に対して非道を行った人物のそういった一面に、クオリオは余計に心を乱されているのである。
「ん」
そんな男が調練をサボってまで、泥だらけになるほどの雑用をしていた理由などわかる訳もない。
至極当然に説明を求めるクオリオに、けれどヒイロは言葉で返すのではなく。
抱えていた、くしゃくしゃの紙袋を突きつけるだけだった。
「な、なんだよこれ。紙袋?」
「⋯⋯約束だからな」
「約束って⋯⋯」
渡された瞬間の、ずっしりとした重み。
見れば分かるとばかりに多くを語らず、そっぽを向いたヒイロ。
なぜだかきゅうっと細まる喉に嫌なものを感じつつ、紙袋の中身を確かめようとした時だった。
「おい、メリファー!! やっと帰ってきたな、こいつめ!」
「あァ?」
「あァ、じゃなーい! 全くおまえってやつは、急に帰って来るなり人の話も聞かないでさぁ! こっちは教導官殿から、お前が戻り次第連れて来いと言われてるんだぞ!」
「チッ、さっき聞いたっつーの」
ドタバタと足音を響かせながらやって来た一人の若い騎士が、部屋に入るなりヒイロに食ってかかる。
若い騎士は、生真面目な性格から寮に住まう新米達のまとめ役に抜擢された男だった。
サボったヒイロを連れて来いと命じられたのだろう。
だがヒイロは、引き止める言葉に耳も貸さずに此処に戻ってきたのだ。一直線に、何よりも優先すべき物の為に。
「だったら早く来い。いっとくが、教導官殿は相当お怒りだ。厳しい折檻になることは覚悟しとけよ」
「ハッ、上等だ。
「サボっといて格好付けるな。ほら行くぞ」
「わーったよ。んじゃな、クオリオ」
「あ、おいっ!」
そして、さしたる抵抗も弁明もせず、ヒイロは大人しく彼に連れられて行った。
慌ただしい事この上ない。急に来ては急に去る。まるで嵐か何かのようだ。
けれど部屋に取り残されたクオリオの内心では、嵐は過ぎ去ってなどいなかった。
「⋯⋯プレアデスの、星冠獣目録⋯⋯」
紙袋の中身を取り出して、少し年季の入った本に刺繍された題名を見て。
波立たない心なんて、ありはしなかったのだから。
「あいつ、本当に」
国中の本屋を探し回ったって、手に入れるのは無理だと思ってた。無理だと分かった上で言った。
許してやるつもりなんてない。関わりを拒絶する為のただの建前だったのに。
「馬鹿じゃないのか」
つい先程のヒイロの姿を思い出す。
泥だらけの
調練をサボっておいて、調練をこなした日よりもよっぽど疲れた顔。この本一つ手に入れる為に、相当な苦労をしたに違いない。
「なんで僕みたいな弱虫の為に、筋を通そうとする必要がある」
もう観念するしかなかった。
だって、これではもう。これ以上はもう。自分自身の方が嫌いになる。
ただでさえ嫌いな自分をもっと嫌いになってしまう。
「やっぱり君は、卑怯じゃないか」
恨まれたままで居てくれない卑怯者。
満足げに成果を押し付けて、弁明一つせずに叱られに行った卑怯者。
そんな彼だけが折檻を受けて、自分だけのうのうと読書を楽しめる訳がないのに。
「ああ、なんだよ。結局、意地になっているのは僕だけじゃないか」
ここに至って、ようやくクオリオは理解した。
理解して、納得した。呆気なく腑に落ちた。
困難にも平然と立ち向かうヒイロの姿勢。それはまさしく『果敢に闘うもの』だったのだ。
自らの夢を阻むユグレストの信仰偶像そのもの。
意地になるのも、憎々しく思うのも道理だった。
「ケジメ、か」
道理ではある。けれどもう、筋が通らない。
なにせヒイロを憎める建前へのケジメは、既に自分の腕の中にある。
であればこれ以上はもう、ただの八つ当たりにしかならないだろう。
あぁ。総じて⋯⋯気に食わない男だ。
ヒイロ・メリファー。悪意も善意も乱暴な者め。
「くそっ」
クオリオ・ベイティガンは恨みがましくランプを床に置いて、どかりと座り込んだ。
折檻は長くなる。恐らく深夜まで。もしかしたら朝までかかるかも知れない。
だがそれでも、クオリオはあの乱暴者になにか言ってやらねば気が済まなかった。してやられただけで終わるのは我慢ならなかったから。
「⋯⋯おかげで、僕の明日も地獄確定だっ」
不眠不休の覚悟でもって、その夜、卑怯者の帰りをクオリオは待ち続けた。座り込んだまま一歩も動かず。
夜の瑠璃色が朝の白焼けに変わる頃。
たっぷり絞られたヒイロが部屋に帰って来るその時まで。
クオリオ・ベイティガンはじぃっと、待ち続けるのであった。
なお、翌日の騎士団調練にて。
ろくに寝てない二人が、仲良く揃って医務室に運び込まれたのは⋯⋯もはや語るまでもない事だろう。
◆
こうして、本来であれば『ユミリオンの悪夢』『凶悪なる黄父』とまで呼ばれ、ユミリオン大陸全土を恐怖の坩堝に叩き落としていたはずの、探求者クオリオ・ベイティガンの未来は──
馬鹿で無鉄砲で諦めを知らない、一人の男との出逢いによって、大きく変わることとなる。
やがて来たる夢の狭間にて、クオリオ・ベイティガンは知るだろう。
この男との縁は⋯⋯きっと。
奇跡のように掛け替えの無いものだったのだと。
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