ある日、知らない少女からメールが届いた
てぬてぬ丸
第1話
まるで雑巾になったような気分だった。四角い鉄の箱に押し詰められたスーツたちが僕の体を四方八方から圧縮し、なけなしの気力が搾り取られていく。事故でダイヤが乱れまくりの列車の車内は快適さとは程遠く、奴隷船に乗せられた黒人たちもきっとこんな気分だったに違いないと思われた。誰だか知らないが列車を遅延させる原因を作った奴を呪ってやりたい気分だ。
吐き出されるように電車から降りた頃には太陽はとっくに沈んでいた。薄暗い道を歩いていると、今日会った面接官の顔が思い浮かんでくる。
「結果は追って連絡します」
結果は目に見えているのに、どうしてその場で返事をしないのか。
大学を卒業してから1年。特にやりたいこともなく、就職活動にも身が入らないままただ時が過ぎていた。働く気がないわけではない。ただ特にやりたいわけでもない仕事に就いてそれを一生の生業としていく気にはなれなかった。アルバイトはもししてしまったらそのままフリーターになってしまいそうで怖かった。
親の収入に多少の余裕があるおかげで実家にいれば飢え死にすることはなかったが、しかし親に頼り切るわけにもいかず、追い立てられるように面接に行く日々が続いていた。もちろんこんな男をどこの会社も雇ってくれるわけがない。そんなわけで僕は今、模範的ニートとして人生を無駄遣いしている。
(いま何時だ?)
帰り道、携帯を取り出し時刻を確認する。
(ん?)
携帯を開くとディスプレイに新着メールが来ていることを示すマークが出ていた。友人はみな普通に就職しており、劣等感からか疎遠になっていたので、友人からのメールとは考えにくい。両親からメールで連絡があるということも考えにくい。そもそも両親はメールの使い方を知らないからだ。
(誰からだ?)
メールを確認してみる。知っているメールアドレスというわけではない。それどころか送り主のメールアドレスの欄はなぜか空白になっていた。
『ねえ、だれかいるの?』
それだけが内容欄には書かれていた。
(なんだこれ?)
まったくわけのわからないメールだ。もしかすると確認しようと返信してきた人を騙そうとする新手の詐欺かもしれない。こういうのは無視するのが一番だ。携帯を閉じてポケットに入れようとすると、携帯が短く震えた。マナーモードにした携帯にまたメールが届いたのだ。
『だれかいないの?』
おそらく先ほどと同じ差出人からであろう。差出人のメールアドレスはまたもや空白のままだ。しつこい業者に僕のメールアドレスが渡ってしまったのかもしれない。わずらわしいので携帯の電源を切る。
(なんてついてない日だ)
こんな日はおいしいものでも食べて寝るに限る。僕は帰り道のコンビニで大好物のいちご大福を買い、家路を急いだ。
夕食を終え、お風呂から出ると夜の10時だった。疲れているのでさっさと眠る事にする。布団に入る前、枕元においた携帯が目に入った。そういえばあのメールはどうなったのだろうか。ふと気になり、センター問い合わせをしてみる。すると大量のメールが入っていた。
『だれもいないの?』
『こわいよ……』
『たすけて……』
差出人のメールアドレスはすべていままでと同じく空白。しかしそこに書かれた内容は簡潔ながら痛々しく、僕は胸の奥に菜箸を突っ込まれるような感覚を覚えた。イタズラだとしたらかなり悪質だ。だがもし本当に誰かが助けを求めていたとしたら……
僕は心配になり、返信してみることにした。もし変な業者に捕まってしまっても、対応策は散々テレビで放送されている。一日中家にいる僕はそういったものには詳しいのだ。メールアドレスはわからなかったので空白のまま送信してみた。携帯にはメール送信中の画面が出ている。どうやら送れたらしい。
内容は簡潔に一言。
『どうしたの』
送ってから一瞬、不安が僕の心を占拠しそうになったが、返信はすぐに返ってきた。
『……あなたはだれ?』
心配していたような切羽詰った感じはなかった。そっちから送ってきておいて「だれ」はないだろう。やはり業者がだれそれ構わず送っているのだろうか。それにしては返信があったことに対して戸惑っているような様子も感じられる。
僕はもう少し相手から情報を引き出してみることにした。相変わらず不安はあるが、すでにキャンディーは口に入れてしまったのだ。吐き出すのは何味か確かめてからでも遅くはない。幸い、ではないけれど、僕には時間がたっぷりある。
『君こそ誰だ』
自分からは名乗らず、相手の名前を聞いてみることにした。返信はまたもやすぐに返ってきた。
『わたしはアキちゃん。あなたはだれ?』
相手はひどく幼い名乗り方をした。文体や漢字が使えていないことから判断するに本当に子供なのかもしれない。子供がいたずらで携帯電話をいじっているうちに偶然、僕の携帯にメールしてしまったのだろうか。
『ねえ、あなたはだれなの?』
続けてまたメールが来る。名前くらいは教えてもかまわないだろうか。僕は下の名前だけアキちゃんに教えてあげた。
アキちゃんはその後もいろいろな質問をしてきた。『そこはどこ?』とか『いまなんじ?』など。職業や年齢、家族構成といった業者が欲しそうな情報は聞いてこない。僕は多少警戒しながらも、それらの質問に答えてあげた。
『よかった……ひとりぼっちになっちゃったのかとおもった』
『どうして?』
『だってここ……だれもいないんだもん』
だれもいない? アキちゃんはお留守番でもしているのだろうか。
『もうすぐおむかえがくるらしいんだけど』
『そうなんだ。早く来るといいね』
とってつけたような慰めの言葉だったが、それでもアキちゃんは安心したらしく『ありがとう』と返信が来た。誰もいない家。寂しさと好奇心から、つい携帯電話でいたずらをしてしまった少女。おそらくそんなところだろうか。携帯電話のキーを一生懸命に打っている少女の姿を思うと微笑ましかった。
僕はしばらくアキちゃんのメールに付き合ってあげることにした。アキちゃんも僕に打ち解けてきたらしく、いろいろなことを聞いてきた。僕は自分の出身地や自分が大学生であること(少女に嘘をつくのは少々良心が痛んだが)、好物がいちご大福であることなどを書いた。ついさっきもいちご大福を食べたという話を書くと、『ずるい、じぶんばっかり』とアキちゃんは少し怒った。
代わりにアキちゃんは自分の名字が清水であることや彼女が幼稚園生であること、牛乳は嫌いだけどコーヒー牛乳は大好きであることなどを教えてくれた。将来の夢は牧場で働くことなのだそうだ。もちろん普通の乳牛ではなくて、コーヒー牛乳を出す茶色い牛を飼うそうである。夢のある話だ。
『……なんだかねむくなってきちゃった……』
アキちゃんのメールからも眠そうな雰囲気が伝わってくる。確かに夜も遅くなっていた。子供はもう寝なければいけない時間だ。それにしてもまだ彼女の親は帰ってこないのだろうか? 無責任な親だ。
『もう寝た方がいいよ』
『……うん……また……おはなし……してくれる?』
『ああ、いいよ。メルアド教えてくれたらね』
『メルアド? なにそれ?』
『メールアドレスだよ。僕のは知ってるんでしょ? なんでか知らないけど』
そういえばアキちゃんがどうやって僕のメールアドレスを知ったのか。どうしてアキちゃんのメールアドレスは空欄なのか。それらの疑問は手付かずで残されていた。
『あ、おむかえがきたみたい。もういかなきゃ』
時計を見るともう1時を回っていた。
『じゃあまたメール頂戴ね』
なんだか名残惜しいが仕方がない。
『うん、おてがみだすね。バイバイ』
それがアキちゃんの、最後の返信だった。
僕は小さなメル友とのやりとりの余韻に浸りながら眠りについた。体がぽかぽかとして暖かかった。
翌日、僕はアキちゃんの顔を知った。ショートカットで目がクリクリとした、可愛らしい女の子だった。彼女はテレビの中であどけなく微笑んでいた。
「……昨日お伝えした新宿区の交通事故で、意識不明の重体に陥っていた清水亜紀ちゃん5歳が、昨夜未明、搬送先の病院で亡くなりました……」
ニュースキャスターの無機質な声。アキちゃんの死を告げるのに、いちばん相応しくない声だと思った。
ニュースは続いてスポーツコーナーに移り、プロ野球選手のメジャー移籍について、コメンテーターが笑顔で語っていた。その後には缶コーヒーや車、そして僕が昨日寄ったのと同じコンビニのCMなどが続く。5歳の女の子が死んだ形跡など、もうどこにも見当たらなかった。
それからしばらく、僕は暇さえあれば携帯を片手にゴロゴロしていたが、それ以来アキちゃんからのメールは来なかった。
あの不思議な体験から一ヶ月ほど経った頃、僕はふらっとアキちゃんの事故現場に行った。事故現場には、いまだに花束やお菓子が道路の脇に供えられている。僕もそこに花束といちご大福、そして壜入りの牛乳を置いた。『好き嫌いは駄目だよ』と呟きながら。そよ風が僕の頬を撫でて通り過ぎる。『いぢわる』とアキちゃんの声が聞こえた気がした。僕は少し笑って二度目のさよならを言った。よく晴れた空はどこまでも高くて届きそうになかったけれど。
空には牛の形をした白い雲が浮かんでいた。
ある日、知らない少女からメールが届いた てぬてぬ丸 @tenutenumaru
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