ミサキミラー

大橋 知誉

ミサキミラー

 ある日、世界中の鏡が反射をやめてしまった。

 政府は脆弱性が見つかったので一時停止したと発表した。


 ミサキは公園のベンチに座り、祖母の形見の手鏡をこっそり覗きながら途方に暮れていた。

 それはくっきりとミサキの顔を映していた。


 バグだ…バレたら没収だろうか。

 何故、よりによってこの鏡。


 その時、鏡に自分以外の顔が映ったような気がした。

 はっとして覗き込んだがそこには誰も映っていなかった。


「君、この辺の子?」


 急に声がしたのでミサキは飛び上がるほどに驚いてしまった。


 目の前にミサキより少し年上くらいの青年が立っていた。


「それ隠しておいた方がいいよ」


 言いながら馴れ馴れしい態度で彼はミサキの隣に座った。

 ミサキは慌てて鏡をポケットに隠した。


「大丈夫、チクらないよ」


 ミサキは同世代の異性とあまり話したことがなかったので緊張で固まってしまった。

 その様子を見て彼は笑った。


「あれ? ナンパとか初めて? 可愛いのに」


「な、ナンパなの?」


 やっとミサキの口から言葉が出た。

 可愛いと言われて悪い気はしなかった。


「俺、来たばっかりなんだ」


 人懐っこい笑顔で彼が言った。

 ちょうど傾きかけた西日が彼の頬を照らしていた。


「この公園、絶景って聞いて来たんだけど」


「それなら…あそこ」


 ミサキは公園の反対側のベンチを指さした。

 海が一望でき、沈んでいく太陽が見れる場所だ。


 彼はミサキの指さす方向を見ると立ち上がった。

 振り返ってこちらを見ている。


 ミサキにも来てほしいようだった。


 ミサキは仕方なく彼について行った。

 景色が見えてくると彼は、おお…と小さな声で言った。


 二人はベンチに座った。


 日が沈むまで少し時間があった。

 それまで彼はミサキとお喋りをするつもりのようだった。

 趣味や仕事のこと、好きな映画など根掘り葉掘り聞かれた。


 ミサキは適当に答えた。


 やがて太陽が海へと沈み始めた。


 彼が急に無言になったのでチラッと横を見ると、まるで初めて海に沈む夕日を見たような顔をしていた。

 胡散臭い奴だが、その時の彼の表情は本物だなとミサキは思った。


「ありがとう。楽しかったよ」


 すっかり日が沈むと、立ち上がりながら彼は言った。

 続いてミサキも立ち上がろうとすると、彼が手を引いて立たせてくれた。


 そして耳元でこう言った。


「ここ、気に入っちゃったよ。だから内緒にしておいてあげる」


 それでミサキは耳まで真っ赤になってしまった。

 薄暗くて助かったと思った。


「じゃあ、俺もう行かないと」


 急に慌ただしく彼が言った。

 ミサキはもう少し彼と一緒にいたいと思ったけれど口に出せなかった。


 そのまま彼は手を振りながら走って行ってしまった。


 後を追えなかった。


 後日友人に話すと「何そいつキモい」だの「ヤレるか探ってんじゃ?」だの散々の言われようだった。

 ミサキはでも、また会いたいと思ってしまうのだった。


 それから間もなくして脆弱性は改善され全ての鏡が戻った。そして人々はこの一件を忘れてしまった。

 すっかり。すっぽりと。


・・・・


 殺風景な廊下にぽつりと出現したドアが少し開いて、一人の青年が顔を出した。

 青年はあたりを警戒するような様子で左右を見て、誰もいないことを確かめると、さっと中に入って来た。


 青年が後ろ手でドアを閉めると、不思議なことにドアは跡形もなく消えてしまった。


 青年の名はケイプリアンと言った。

 たった今、侵略予定領域の偵察を終えて戻って来たところだ。


 ドアが完全に消えたことを見届けると、ケイプリアンは何食わぬ顔で廊下を歩き始めた。


 迷路のような通路を迷うことなく進んで、とあるエレベータの前にくると、それで上階へと上がった。


 エレベータが到着するとそこは広間のような空間になっていて、二人の男女が正面のデスクに座っている初老の男に何かを報告していた。


 正面の男がケイプリアンの父親。彼らの王である。


 女の方がミラミラ。左の男がガジュー。全く似ていないがケイプリアンのきょうだいたちだ。


 ケイプリアンはブラブラと散歩でもするかのようにゆっくり彼らの元へと近づいて行った。


「遅いぞケイプリアン。何をしてた?」


 ミラミラが振り返りながら言った。

 ケイプリアンはにっこり微笑んで片手をあげ彼女に挨拶をした。


 ミラミラはフンと鼻を鳴らした。


「K-2-5515はどうだった、ケイプリアン」


 王が言った。


「ダメでしたよ父さん。ガードが固すぎます。あれは入れませんね」


「お前たちでも入れないということか?」


「無理でしょうね」


「スリッピングは使わなかったのか?」


 ミラミラが口を挟んだ。

 ケイプリアンは肩をすくめて曖昧な返答をしてみせた。


 ミラミラはまたフンと鼻を鳴らした。


「それでは今回の成果はミラミラの確保したM-4-3367のみということか。だいぶ資源が枯渇するな…。ケイプリアンとガジューも早く成果を上げろ」


 ケイプリアンは「へーい」と気のない返事をした。


 ガジューも「へい…」と返事をしたが、ずいぶんと不服そうな表情をした。

 ガジューは大変に醜い形相の男だった。きょうだいであるはずのケイプリアンともミラミラとも全く似ていない。


 嫉妬と恨みのこもった眼差しをケイプリアンに向けていた。

 何の努力もせずに、美しい容姿と類まれなる戦闘の才能を持って生まれたケイプリアンを恨めしく思っていた。


 少しでも鍛錬をすれば、その実力はミラミラをもしのぐと言われているのに、奴は楽をすることばかりに脳みそを使っているのだった。


 一方のガジューは毎日血を吐くような努力をしているにも関わらず、ケイプリアンを一向に追い抜けないのであった。

 この世は不公平だ。ガジューは身も心も醜くひねくれてしまっていた。


 ガジューはギリギリと歯ぎしりをしながらケイプリアンを睨みつけた。


 それに気が付いたケイプリアンはガジューに歩みよると、ふざけた様子で肩に腕を回して来た。


「おいおいガジュー、そんな怖い顔で睨まないでくれる? そういう顔になっちゃうよ」


 相手に全く冗談が通じていないことを確認すると、ケイプリアンはポンポンと弟の背中を叩き、さっさとその場を離れ、レベーターに乗って階下へと行ってしまった。


 ガジューは怒りに満ちた表情でケイプリアンを見送ると、父親を振り返って言った。


「父上、いいのですか?あんな勝手させておいて」


「まあまあ、ああ見えてケイプリアンは優秀なエージェントだ。お前も負けないようにがんばれ」


 それを聞くとガジューの顔には怒りと絶望が混在した表情が浮かんだ。


「いいから、今日はもう休め」


 王は疲れた様子で手をヒラヒラさせた。


 ガジューは無言で去って行った。


 最後に残ったミラミラは一礼をしてから階下へと降りて行った。


 一番乗りで面倒な報告会から抜け出したケイプリアンはそのまま地下のバーへと直行していた。


 いつものカウンターの席に座ると強い酒を注文し、一気に3杯飲み干した。


 そしてケイプリアンはK-2-5515のことを考えていた。


 あそこで見た風景。あれはなんだ。

 あんな美しいものは、数々の領域を侵略してきたケイプリアンでも初めてだった。

 というよりも、これまでは侵攻するのに夢中で、その領域がどんな場所なのかなど考えたこともなかったのだ。


 ケイプリアンの一族は他の生命体を捕食し仲間を増やすタイプの家系だった。

 彼らは他の者たちからヴァンラスと呼ばれて恐れられていた。


 彼らのほとんどは “ヴァンラス” という呼び方を嫌っており、それは差別だ自分たちは “人間” だと言い張っていた。

 しかし、そんな彼らもまた、捕食対象の他の人間のことを「ヒト型」と呼んで区別していた。


 この世界は複数の領域が複合してできており、そのことを最初に発見したのもヴァンラス達だった。

 彼らはこの世で唯一、肉体を別の領域へと移動させることができる種族だった。


 領域と領域の間に存在する、巨大な壁のようなものから脆弱性を探知し、彼らはどこでも自由にドアを作って行き来できるのだ。

 また、能力の高いヴァンラスはスリッピングと言う壁そのものをすり抜ける技を使うことができ、いつでもどこでも侵入してきた。


 ヴァンラス以外の人々は、皮肉にもヴァンラスが作った抜け道を応用して情報のやりとりを領域間で行っていた。

 やりとりできるのは荒い画像情報と言語情報のみである。


 なお、この情報伝達の回線が時にヴァンラスの侵入口になることもあるので、領域間同士のやりとりは頻繁には行われてはいなかった。


 ヴァンラスは元々、自分たちの所属する領域のみで狩りを行い暮らしていたのだが、あるとき領域間を超えて、ヒトの味を覚えてしまった。


 それ以来、ヴァンラスは他の領域の生命、特に「ヒト型」を好んで食料とするようになった。

 ヒトを食うようになってから、彼らは人間の肉体から自らの複製をつくることができるようになった。


 それ以前はどうやって仲間を増やしていたのかは不明だが、「複製」という手段を習得してから、彼らは爆発的に仲間を増やしていった。


 圧倒的な戦闘能力を持つヴァンラスたちに対し、ヒト型は無力だった。

 あっとゆうまにいくつもの領域が蹂躙され、今やヴァンラスは数万の同胞を抱える大所帯と成長していた。


 彼らはその強さゆえに、「ヒト型」を喰らいつくして来た。


 食料が圧倒的に足りなくなってきたのだ。

 そのために彼ら自身も存続の危機にあり、共食いも見られるようになっていた。


 おまけに、最近では情報共有と研究が進み、セキュリティの固い領域も増え、ヴァンラスたちは全盛期のころに比べて好き勝手ができなくなってきたのだ。


 今回ケイプリアンが担当したK-2-5515も鉄壁のガードを誇る領域だったが、ケイプリアンは侵入に関しては天才的な能力を持っていた。

 父親たちには入れないと報告したが、ちゃっかり弱いポイントを一ヶ所だけ見つけて入り込むことに成功していたのだった。


 K-2-5515はのどかな場所だった。


 …あの初心そうな女の子も可愛かった(ウマそうだった)な…。


 ケイプリアンは回想する。


 強烈な夕日の元で見た輝くような女の子の横顔を。


 ケイプリアンの中に不思議な独占欲が芽生え、何故だかあの領域を隠しておきたくなってしまったのだ。


 …俺のバックドアはそう簡単には見つからないだろう…


 そんなことを取り留めなく考えていると、急に声をかけられた。


「また、呑んでいるのか」


 振り返るとミラミラが立っていた。


 “冷血のヴァンラス”。他の領域の者たちは彼女をそう呼んで恐れていた。

 実際、彼女は史上最強の戦士だった。


 ちなみに、ケイプリアンは笑いながら殺すとの都市伝説から “ヴァンラスの道化” と呼ばれていた。


 ケイプリアンもミラミラもこの呼び方を毛嫌いしていた。


 ミラミラは勝手にケイプリアンの横に座ると自分も酒を注文した。


「兄さんのことだから本当は入ったんだろう?」


「何の話かなミラミラ?」


「とぼけても無駄だ。私も父上もケイプリアンのやることは大体わかっている。何を企んでいる?」


「別に…何も。あそこガードが堅いんだよ。リスクが高すぎるんじゃねぇの?」


「それは一理あるが深刻な資源不足だ。このまま獣や死肉を食えっていうのか?」


「あそこを取ったところで大して解決はしないぜ。人口は極端に少ない」


「甘い。兄さんは昔からどこか甘いんだ。だから永年の二番手なんだよ」


 ミラミラは腹を立ててバーから出て行ってしまった。

 ケイプリアンはため息をついた。


「そうカリカリするなよ。肩の力を抜け。ずっと一番だと命が持たないぞ」


 既に出て行ってしまったミラミラに向かってケイプリアンはつぶやいた。

 それは自分に言っているようでもあった。


 翌日、二日酔いの頭を抱えて、ケイプリアンはK-2-5515への再侵入を試みた。

 彼の空けたバックドアは生きていた。


 なんなくK-2-5515へ侵入したケイプリアンは、マーキングしておいた例の女の子の元へと向かった。

 こちらの姿は見せずにしばらく彼女を観察することにした。


 女の子の名前はカガミ・ミサキと言った。ごく普通の会社で働いている、ごく普通の女の子だった。

 ごく普通…それがケイプリアンには特別に見えてしまっていた。


 一目惚れというやつなのだろうか。捕食対象に対してヴァンラス達は恋愛感情を抱くことはないが、愛着を持つことはある。

 あの女の子に強い愛着を持ってしまったことを、ケイプリアンは否定できないのであった。


 それから何日間かこっそりK-2-5515に入り込んでカガミ・ミサキを観察した。

 そして、彼女の交友関係や家族構成を概ね把握することができた。


 年齢は22歳。データ入力の仕事をしている。友達は少なく、学生時代からの女友達が二人いる程度。

 職場の人とはあまり交流はない。恋愛の対象は男性だが、恋人がいたことはなさそう。男友達もなし。

 両親は国のトップレベルの官僚でめったに会わない。弟が一人。彼も政府関係の仕事をしていて優秀だ。


 そうしてカガミ・ミサキを知れば知るほど、彼女に食いつきたくて仕方がない衝動が強まってきてしまった。


 だが必死に我慢した。

 一般公表していない領域で狩りを行うことは彼ら一族にとって最も重い罪に当たる反逆罪だったのだ。


 だけれどもケイプリアンはどうしてもこの領域が欲しかった。

 全てを自分ひとりのものに。


・・・・


 ミサキは仕事終わりに職場が入っているビルの一階でコーヒーを飲んでいた。

 普段そんなことはめったにしないのだが、心身共に疲れていて、何となくそのまま家に帰りたくない気分だったのだ。


 ミサキの上司は意地悪で何をしても叱られた。

 すっかりミサキは自信を失って落ち込んでいた。


 ふうぅとひとりで溜め息をついてると、向かいの席に誰かが腰を下ろした。


「やあ、どうしたの?元気ないね」


 顔を上げると、いつか公園であった人がそこに座っていた。

 名前も知らないその人は親し気な顔でミサキを覗き込んでいた。


 心の奥底でまた会いたいと思っていた人。


 誰にも打ち明けられずにずっと独りで想っていた人が目の前にいて自分に話しかけているという事実が信じがたく、彼女はどぎまぎしてしまった。


「あ、あの…どなたでしたっけ?」


 緊張のあまり、ミサキはすっとぼけてしまった。


「え、俺のこと覚えてないの~? 超ショック…」


「冗談ですよ。覚えています。公園で会った人ですよね」


 ミサキがそう言うと、目の前の彼は少し嬉しそうに頬杖をつきながら言った。


「君、冗談とか言うんだ~。かわいい~」


 彼は相変わらずな調子でミサキは恥ずかしくなって目を伏せた。


「こんなところで何してるんですか?」


「散歩だよ。たまたま君を見かけからさ」


「こんな時間にこんなオフィス街で散歩?」


 それを聞くと彼はあははと笑った。


「ごめん。ウソ。仕事でちょっとね」


 この近辺で仕事をしているような人には見えないけれど…。ミサキは少し疑いの心を持ったが、人を見かけで判断するのはやめようと思いなおした。


 その後、彼が何か話をするのかと思ったが、そういうわけではなく、ずっとニコニコしながらミサキの顔を見ているだけだった。

 気まずくなったミサキは「そろそろ帰らないと…」と言って席を立った。


 すると彼も慌てた感じで立ち上がり「送っていくよ」と言った。

 いくら好意を持っている相手とは言え、その申し出には軽々しく了解できなかった。


「いえ…せっかくだけどそれはちょっと…」


 少しはその気のある男性からの誘いをどう断ればよいのかよく知らないミサキはドギマギしながら言った。

 そんなミサキの心情を察したのかどうかは解らないが、彼はあっさりとした感じで笑った。


「だよね~。あはは。なんか君、ずっと前から知ってるような気になっちゃってさ。俺、ガキのころから馴れ馴れしいのが欠点で」


 ミサキは大丈夫という意味を込めてブンブン首を横に振った。


「じゃあ、連絡先、交換してくれない? また会いたいんだ」


 彼は携帯電話を取り出すと、連絡先を交換するためのコードを表示させた。

 ミサキは頷くと、それを自分の携帯でスキャンしお互いの連絡先を交換した。


「トオル…くんっていうんですね」


「うん、トオルでいいよ。君はミサキちゃんだね。よろしく~」


 そう言ってトオルくんは軽快に去って行った。


 それからトオルくんは頻繁にメッセージをくれるようになったが、再び姿を見ることはなかった。

 何しろ忙しいのだということだった。


 ミサキは職場下の喫茶店に毎日立ち寄り、トオル君がいないかこっそり期待することを楽しみに過ごした。


 これは、新しい恋のはじまりかとミサキは感じていた。

 だた、これでまで何でも相談してきたカオルやサキコには相談できずにいた。

 以前、初めてトオルくんに公園であった際に、彼の話をしたら散々な言われようだったからだ。


 いくら親友でもトオルくんことを悪く言われるのは嫌だった。

 彼が信用ならないのは解っているし、遊ばれてているだけという自覚もあった。


 だけど、それでも彼に相手にされるのが嬉しくて、何がどうなるかはわからないけれど、交流を続けてみたいと思っていた。


 そうして物事は急転する。


 トオルくんとの再会から数日たったある日。いつものように喫茶店に行くと、トオルくんがいた。

 彼はミサキの姿を見つけると片手を挙げて彼女を呼び寄せた。


「よかった~来ると思ったんだ」


「連絡くれればよかったのに」


「偶然会えた方が盛り上がるじゃん」


 盛り上がるって…。彼はいつもこのような思わせぶりな言い方をする。


 それから小一時間、トオルくんとミサキは喫茶店で他愛ものないお喋りをした。

 そして帰る時間になるとまたトオルくんは送って行くと言ってくれたがミサキは断った。


 このまま彼と帰り道まで一緒にいたら家に来ないかと誘ってしまいそうだったのだ。

 そしたらきっと彼は来るだろう。いや来ないかもしれない。


 どちらにしても、今のちょうどよい関係を壊してしまいそうでミサキはいろいろ躊躇していた。


 ミサキに断られると、トオルくんは少し名残惜しそうにしながら帰って行った。

 そういえば彼がどの辺に住んでいるのか知らなかった。一人暮らしをしているのか、それとも家族と暮らしているか…ミサキは彼のことは何も知らないことに気が付いてしまったのであった。


 トオルくんと別れてトボトボと終電の迫る路地を歩いていると、急に後ろから声をかけられた。


「すみませーん。ここから駅ってどう行ったらいいでしょう?」


 振り返ると、とてつもなく気味の悪い男が立っていた。

 異常なほどに猫背で、全身真っ黒な服だった。

 頭には深々と帽子をかぶり、ニヤニヤといやらしい笑みをたたえた口元だけが見える。


「え、駅ですか? ここをまっすぐ行って…」


 ミサキは目の前の男に警戒しながらも、普通の人だったら失礼になると思い、できるだけ平然と答えるようにつとめた。

 すると急に男が腕を掴んで来て、ミサキはあっという間に狭い路地へと連れ込まれてしまった。


 悲鳴を上げる隙もなかった。

 口を手で押さえつけられてそのまま後ろの壁に押し付けられた。


 男は掴んでいるミサキの手をひっぱり、何かを探すように彼女の腕を眺めた。そして言った。


「お印はねぇな。ってことはまだ手をつけてないのか。じゃあ俺が先に頂いてもマナー違反じゃないよな、へへへ」


 男は不気味に笑うと、ミサキの手首をベロリと舐めた。


 それでようやくミサキも気が付いた。


 この男はヴァンラスだ!!!!


 ミサキの暮す領域では完全なる他人事としてホラー小説にしか出てこないような悪しき存在。


「おやおや、その様子だと俺の正体に気が付いたみたいだね。そうだよ、俺様だ、ガジュー様だよ」


 名前を聞いたところで誰なのかさっぱりわからなかった。

 だが、ヴァンラスであることは確かなようだ。


 ここには絶対に入って来れないはず。政府が徹底的にガードしていたのではないだろうか。


 いや…ミサキは解っていた。


 私のせいだ…。


 おばあちゃんの鏡…。世界中の鏡が反射をやめてしまったあの時、変わらずにミサキの顔を映していた鏡だ。

 あそこから入ったってこと?


 あれ以来、恐ろしくなってずっと引き出しの奥に隠して鏡は一度も開いていない。

 こんなことなら壊しておくべきだった…とミサキは思ったが、時既に遅しである。


 目の前の男を見ると、今にもミサキの手首にガブリといきそうな場面であった。

 全てがスローモーションに見えた。


 そんなふうに全てがゆっくりに見えている中、飛ぶように目の前を何かがかすめ、それと同時に目の前の男が後方にすっ飛んだ。


「てめぇ。俺のもんに勝手に手をだすじゃねぇよ」


 第三者の声がした。聞き覚えのある声だった。


 見上げると、そこにはトオルくんが立っていた。

 こちらに背を向けミサキを守るように立ちはだかっていた。


 向こうへすっ飛んで行った男も立ち上がり、こちらを睨みつけていた。


「どうやって入ったんだ、ガジュー」


 トオルくんが言った。

 この気味の悪い男はトオルくんの知り合いだったのか…?

 トオルくんが堅気ではなかったらどうしよう…と、ミサキは的外れな心配を巡らせていた。


 トオルくんと気味の悪い男の会話は続く。


「お前が作ったバックドアからだよ、間抜け」


「ここの担当は俺だ。勝手に荒らすな」


「父上にどう釈明するつもりだ。入れないだなんてウソの報告をして」


「ウソではない。俺も今日始めて入ったんだ。偵察してたんだよ」


「見え見えなウソをつくなケイプリアン。全部報告してやるからな」


「お前こそ。これは重罪だぞ」


 それを聞くとミサキを襲った恐ろしい男はチッと舌打ちをして姿を消した。

 どこかへ走って行ったのではなく、文字通り消えてしまったのだ。


 ミサキは完全に度肝を抜かれてその場にへたりこんでいた。


 …あの気色悪い男…。

 トオル君のこと、ケイプリアンと言った? ケイプリアンと言ったの?


 世間知らずの彼女でもケイプリアンという名は知っていた。

 ヴァンラスの道化。笑いながら殺すという悪魔のような奴。

 数々の領域がそいつによって滅ぼされたと聞く。


 学校の授業で画像を見たことがあったが、顔の上半分を隠すような仮面をつけていたので顔は知らなかった。

 彼の顔を見た者は誰もいなかったのではないか?


 トオルくんはミサキの前にかがみこむと、さっきの男に掴まれた腕を調べ始めた。

 ミサキが恐怖を感じて腕を引くと、彼はパッと手を離した。


「すまなかったな」


 トオルくんは顔を曇らせてそう言い捨てると消えてしまった。

 彼もまるでそこに居なかったかのようにスッと消えてしまったのだ。


 人懐っこいトオルくんがあんな表情をして消えてしまったことにミサキはショックを受けた。


 彼女はたった今、このような場面を目撃しても、トオルくんがあの恐ろしいヴァンラスだとは信じることができなかった。

 しかもよりによってケイプリアン? あり得ない。そんなことは断じてあり得ない。


 彼女の脳はその事実を受け入れることを拒否した。


 もう、トオルくんには会えないのだろうか。

 トオルくんがヴァンラスだったということよりも、そちらの方が彼女の胸を苦しませた。


 それ以来、トオルくんからのメッセージはパタリと途絶えた。


 まもなくしてヴァンラスの侵攻が表沙汰になり、ミサキの暮す領域も戦場となった。

 仕事はなくなり、物資は全て配給、不要不急の外出も厳しく制限された。


 ミサキはトオルくんのことや、あの気味の悪い男との一件を誰にも話さなかった。

 特に国防省に勤める家族にはとてもじゃないが言えなかった。

 もちろん、おばあちゃんの鏡のことも。それが存在するという記憶ごと、ミサキは引き出しの奥の奥に仕舞い込んだ。


 自分のせいでこの世界が大変なことになってしまったという自覚はあったが、それ以上にトオルくんを守らなければならないと考えてしまっていた。


 家族からは再三シェルターに避難するように言われていたが、自分だけコネで助かるのは本望ではないと断り続けた。

 それは建前であって、本音はシェルターに入ってしまったら二度とトオルくんには会えないと解っていたからだった。


 弟のナオキは特にミサキのことを心配してしょっちゅう顔を見に彼女のアパートへ訊ねに来てくれていた。

 その度に彼女はヴァンラスとの闘いの様子をそれとなく聞いて、トオルくんが何をしているのか探ろうとした。

 ナオキも国防省の職員であるので、何か知ってるかと推測していた。


 だが、弟の口からケイプリアンの名はおろか、他のヴァンラスの個人名を聞くことはなかった。

 極秘事項で話せないのか、それとも本当に知らないのかは解らなかったが、なんとなく弟は本当にケイプリアンについては何も情報を持っていないと感じていた。


 直球でケイプリアンの噂を何か聞いてないか確認したい気持ちが高まったが、察しのよい弟に勘繰られるのが怖くて聞けなかった。


 ケイプリアンはこの戦いに参加していないのではないか?


 あの気味の悪い男に襲われた時、何かウソの報告がどうのこうの言っていなかっただろうか?

 彼は何かルール違反のことをして仲間に捉えられているのでは?


 ミサキの頭の中はそんな考えでいっぱいになっていった。


 ある時、ミサキは我慢の限界となり、トオルくんにメッセージを送った。

 幸い彼のアカウントは生きているようだった。


「大丈夫?」


 まずそれだけ送った。

 何時間たっても彼がそのメッセージを開封した状態にはならなかった。


「トオルくんが心配」


 また送ってみた。

 今度も反応はなかった。


 もうこのアカウントは見ていないのかもしれない。

 ミサキは読まれていないと解ると、少し大胆な気持ちになった。


「トオルくんに会いたい」


 そう送ったとたんに開封マークがついた。

 そして数秒後に窓をコツコツと叩く音がした。


 行ってみると、ベランダにトオルくんが立っていた。


「こんなの送られたら来ちゃうって…我慢してたのに」


 トオルくんは相変わらずな調子で携帯電話をヒラヒラさせながら言った。


「ここ三階なんだけど………あ、そうか…」


 ミサキは思い出した。ヴァンラスは通常の人間の十倍くらいの身体能力を持っていると学校で教わっていたのだ。


「てかさ、ミサキちゃん。君、何? 俺のこと怖くないの?」


 言いながらトオルくんはぐっと顔を近づけてきた。ミサキは少しだけ顔を逸らせた。


「怖いよ。怖いけど、それより心配になちゃって。ずっと姿が見えないから…」


 今度はトオルくんが動揺する番だった。おそらく捕食対象にこんなことを言われたのは初めてだったのだろう。


「心配していたの? ミサキちゃん、俺のこと心配してくれてたの?」


 ミサキが「うん」と言って頷くと、トオルくんは「ハァ~」とため息のような息を吐き、何とも言えない表情をした。

 頬にかかったトオルくんの息は熱く甘ったるい匂いがした。


「だめだよミサキちゃん。そんなこと言われたら俺、君のこと食っちゃいそうだよ」


 ミサキはヴァンラス相手に挑発するようなことを言ってしまったと気が付いて慌てて後ろに下がった。


「ところで、あなたはあれから何をしていたのケ…ケイプリアン?」


 思い切って彼の本当の名前を呼んでみた。するとすかさず彼はそれに反応した。


「ダメダメ、俺のことはトオルって呼んでよ」


「ケイプリアンなんでしょう?」


 そう言うミサキの口をケイプリアンは手のひらでそっと抑えて黙らせた。

 一瞬、あの気味の悪い男に口を押えられた時のことがフラッシュバックしミサキの背筋に冷たいものが走った。


 ケイプリアンは本当にどうしてもその名を口に出してほしくないようだった。

 ミサキはしばらく考えてこう言った。


「じゃあ、ケイくんって呼ぶ。それならいいでしょう?」


 ケイプリアンは嫌そうだったがしぶしぶ承諾してくれた。


「それで、ケイくんは何をしていたわけ?」


「君にたかって来る輩を駆除してたんだよ」


「え? 私に?」


「ああ、君さ、俺のマーカー着いちゃってるんだよね。まさかこんな感じになると思ってなかったからさ…。マーカーついてると狙われやすいんだよ。特に俺のマーカーだとさ、敵が多いもんで」


 ミサキは気が付かないうちに間にマーキングされていたと知り、少し腹立たしく思った。


 …なに勝手にマーキングしてるのよ、犬じゃあるまいし。


「それで、私を守ってくれるのはありがたいんだけど、あなた、それでまずくないの? 立場的に」


「あ、いいのいいの。俺、反対してるから、ここを攻略するの」


 これはだいぶ意外な回答だった。


「え、なんで?」


「なんでだろうねぇ…。最初に会った時に言っただろう? なぜかわからないけど、ここが気にいちゃったんだよね。誰にも渡したくないってゆうか…」


 そういうと、唐突にケイプリアンはミサキを部屋の奥へと突き飛ばした。

 それと同時にミサキの部屋のベランダが破壊されて、一人の人影が部屋へと入って来た。


「やはり、ここにたのかケイプリアン」


 黒いボディスーツを身に着け、鳥のような仮面をつけた女だった。

 右手にムチを持っている。


 冷血のヴァンラス ミラミラだ。教科書で見たことがあった。


「なぜその小娘に執着する?」


「別に執着なんかしてないぜ」


「ガジューをはめて処刑に追い込んだのもその女のためか?」


「いいや、あいつは勝手に自滅したんだよ」


「お前が父上に敵対するというのならば、私はお前を今ここで葬る」


 そう言ってミラミラはムチを振り上げた。


「あ、ちょっと待って、ここでやるのやめよう。こっちこっち」


 ケイプリアンはそう言うと空きっぱなしの窓から出て行ってしまった。

 それを追ってミラミラも行ってしまった。


 独り残されたミサキは茫然と破壊されたベランダを眺めていた。

 見事な破壊っぷりだ。


 なんという力であろう。

 これをやった奴とケイプリアンは今、戦っているのだ。


 ミサキにとってミラミラはおとぎ話の中の悪役のようなものだった。

 それが実在し、自分のうちのベランダを破壊するなんて…。


 確かミラミラとケイプリアンは兄妹だったはずだ。


 …いくらヴァンラスでも本気でやりあったりはしないはず…だよね…。


 ミサキはそう自分に言い聞かせながら、窓の状況を確認するために立ち上がった。

 幸い窓ガラスが一枚割れたのみでダメージは少なかった。


 ベランダは完全に崩れ落ちて、下の道路に散乱していた。

 幸い通行人はいなかったようだ。


 こんなご時世である。

 ベランダひとつ破壊されたからと言って騒ぐ者はいなかった。


 ミサキはずいぶん前に政府から支給された窓補修用キッドを取り出し、割れてしまった窓を補強した。


 そうしてひたすらケイプリアンの帰りを待った。


 ケイプリアンは2日後の夜に帰って来た。


 コツコツと窓をノックする音がするので開けるとそこにケイプリアンは立っていた。

 ベランダはなくなってしまったので、かろうじて残っている残骸につま先で立っている状態だった。


 玄関から入ればいいのに…と思ったがミサキは彼を部屋に招き入れた。


 彼はズタボロだった。

 服はあちこち破れて、鞭で打たれたような傷が多数あった。


 ミサキの部屋に入ると、彼はそのまま彼女のベッドにうつ伏せに倒れ込んだ。


 ケイプリアンは泥だらけで血まみれだったので、一瞬うわっ…と思ったがミサキは腹をくくった。


 おそらく、ケイプリアンが今頼れる相手は自分しかいないのだ。


「大丈夫?」


「ああ、あんまり大丈夫じゃないかも」


 彼がミサキの手を握って来たので、彼女も握り返した。


「なあ、ダメ元で聞くんだけどさ…」


「何?」


「ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ、かじらせてくれない?」


「え?」


 ミサキが返事をするのを待たずに、ケイプリアンは彼女の手首にかぶりついた。


 血液を飲んでいるのだった。


 慌ててミサキは腕を引っ込めようとしたが、ケイプリアンにがっちり手を掴まれていて動かせなかった。


 ケイプリアンは数秒だけミサキの血液を飲むと彼女を解放した。

 そして寝返りをうち上向きになると、目を閉じたまま「ごめん。もうしない。でも助かった」と言った。


 ミサキは何と返事をしてよいか解らず黙っていた。

 ケイプリアンに噛まれた手首が痛くて血も止まらなかったので咄嗟に反対の手でぐっと抑えた。


「ミラミラはもう君には手を出さない。約束させた。安心して眠りな」


 そう言ってケイプリアンは眠ってしまった。


 ミサキはため息をつくと、「噛んでいいって言ってないのに…」と小さい声で言った。


 恐る恐る噛まれた場所を見ると、歯型がついて血がにじんでいた。

 彼女はキッチンで傷口を洗うと、ガーゼを当てて包帯を巻き止血した。


 ヴァンラスは人の生き血も好んで飲むと聞いている。

 栄養ドリンクみたいなものなのかな?


 ミサキは手首に巻いた包帯をさすりながら先ほどの出来事を思い返した。


 血を飲まれたことはショックだったが、どこか耽美な時間にも感じてしまっていた。


 ミサキはブンブンと首を振ってその考えを追い払った。


 …これではまるで変態ではないか…。


 ミサキはストールを持ってきてソファーに横になった。

 自分のベッドを見ると、ケイプリアンがスヤスヤと寝息をたてて眠っていた。


 ミサキはこの状況を客観視して、滑稽に思ってしまった。

 数週間前には恋焦がれていた男性が自分のベッドに血まみれで眠っている。


 人生でこんなことが起こるなんて想像できただろうか。


 ケイプリアンに対しては以前のような恋心は正直なくなってしまった。

 ただ、何かわからないけれど、傷だらけの野良犬を拾ってしまったようなそんな心情に彼女はなっていた。


 ほっといても生き延びるだろう。

 だけれども、この一瞬、二人の人生が交差したこの時だけ、少し面倒をみてあげてもいいんじゃない?


 そんなふうにミサキは思った。


 やがてミサキも眠りに落ちていた。


 翌朝、目を覚ますと、ケイプリアンが素っ裸で洗濯されたシーツを干していた。


 ミサキは驚いて飛び起きた。


「ケイくん!? 何しているの? えと、服着てっ!!!」


「あ、ごめーん。おはよう。だって俺の服ボロボロになちゃったんだもん。捨てちゃったよ」


 何とも呑気な奴である。


 ケイプリアンの細いが引き締まった肉体には昨日のムチの跡に加えて新旧様々な傷跡がついていた。


 彼が潜り抜けてきた壮絶な戦いの日々を想ってミサキは少し胸を痛めた。

 実際は各領域を蹂躙して来た跡なのであるが…。


 ミサキは引き出しから男性用の下着と洋服を取り出し彼に渡した。


「え、ちょっと待って。何でミサキちゃんの部屋に男の服があるわけ? 下着まで…」


 ケイプリアンが怒った口調で言った。「弟の」とミサキは一言で返事した。


 ケイプリアンはふーんと疑っているような声を出しつつもそれを着た。

 ミサキの弟の服は彼には少しきつそうだった。


 ここでケイプリアンがミサキの手首の包帯に気が付いたようで、念入りに彼女の腕を調べ始めた。

 何かを探しているように見えた。


「大丈夫、あなたが噛んだのはここだけだよ」


 ミサキは噛み痕を探しているのかと思いそう言った。

 ケイプリアンは「うんそうだね」と言ってにっこり笑った。


 そこでドアのチャイムが鳴り、間髪入れずにドアがガチャリと開いた。

 咄嗟のことでケイプリアンも隠れる時間はなかった。


 ミサキの弟のナオキが部屋に入って来たのだった。

 彼には合鍵を渡してあり、自分の家のように自由に出入りを許している。


「姉さん、何か姉さんちのベランダが壊れてるって通報があったんだけど…え、…え!?」


 そこまで言ってナオキはケイプリアンの姿を目に止めた。


「姉さん!? 誰こいつ? 何で僕の服着てるの?」


「ああ、ナオキ…これはね、えと…」


 ミサキが慌てて何と言い訳しようか考えている間に、ケイプリアンはさっと立ち上がってナオキの前へと移動し、次の瞬間には彼の手を握っていた。


「君がナオキくんね! はじめまして、あたしトオル。ミサキちゃんの友達なの。昨日家が壊されてぇ、慌てて身一つで逃げてきたらどぶに落ちちゃったのよ~あはあは」


 ケイプリアンは女性のような言葉遣いで自己紹介をした。

 その雰囲気に押されてナオキも警戒心を少しほどいた様子だった。


「あ、初めまして。姉さんのお友達だったんですね。失礼しました…」


「やだな~ミサキったら、あたしのことナオキくんに話してなかったの? ひどいわね。いくら私がチェリーキラーだからってあんたの弟は食わないわよ」


 ミサキは思わずケイプリアンを睨みつけた。

 …シャレにならない。


 だがこのやり取りでナオキは二人が本当に仲のよい友人同士と思ったようだった。


「それで、姉さん、そのベランダどうしたの?」


「あ、これ? 私もわからないの。起きたらこうなっていて…」


「え、こんなになってるのに気が付かなかったの?」


「うん…耳栓して寝ていたから」


 苦しい言い訳だが弟は信じるだろう。弟はミサキが時々耳栓をして寝ているのを知っているのだ。

 何かあったときに起きられないからやめろといつも怒られている。


 ナオキはため息をついて首を振った。ミサキの話を信じたようだ。


「だから耳栓するなって言ってるのに」


「ごめん…もうしないよ。私も起きてびっくりしたけど、特に何も取られてなかったし、私もこうして無事だったし」


 そこでナオキはミサキの手首の包帯に気が付いた。


「怪我したの?」


「あ、これは…えと、窓を直そうとして切っちゃっただけ」


「まったく姉さんは…。トオルさん。トオルさんは家を壊されたって言ってましたけど、どの辺にお住まいでしたか?」


 まずい。とミサキは思った。ウソがばれる。


「北地区の3番通りよ」


 ミサキの心配をよそにケイプリアンはあっさり答えた。


「ああ、あそこですか。あそこは壊滅的です。お気の毒に…しばらく姉の家にいますか?」


「避難所が見つかるまでね」


「そうですか…この辺一体はまだ目立った攻撃を受けていませんが危険なのには変わりありません。充分に気を付けてください。あ、もしシェルターに入りたかったら言ってください。姉はなぜかシェルターに入りたがらないんですよ。トオルさんも説得してくださいよ。僕、手配できますから」


「ありがとう。わかったわ」


 そう言ってケイプリアンはナオキに向かってウインクをした。

 ナオキはびっくりして赤くなってしまった。そして「またくる」と言い残してミサキの家を出て行った。


「息を吐くようにウソをつけるのね」


 ナオキを見送ったミサキが振り返りながら言った。


「そういうお仕事だからね俺。相手が信じたい相手になるんだよ」


「じゃあ、私の知っているトオルくんも演技だったんだ」


「いや~あれはほぼ俺。ウソの俺だったらショックだった?」


 そのふっかけに「別に…」と答えながら、ミサキは何か食べるものを用意しようとキッチンへ向かった。

 すると、ケイプリアンは窓から出て行こうとするではないか。


 あわてて彼の元に駆け寄った。


「ちょっと待って、どこ行くの?」


「君の弟に顔見られちゃったからね。彼、案外鋭いからそのうちバレちゃうよ。ミサキちゃんに迷惑かけちゃうからもう行くね。ナオキくんが来たら脅されてたって言うんだよ」


 ミサキは行くと言っている彼を引き留める理由が自分には全くないことを知っていた。

 ただ、彼とこれっきりになるのは嫌だと彼女の本能が言うのだった。


 ミサキが黙っているのでケイプリアンの方が話始めた。


「あのさ、この領域の人たち、妙な武器を使ってくるんだけど、あれ、何か知ってる?」


 …AVBW(Anti-Vanrus Biological Weapon)のことだろうか…。


 これまでにない対ヴァンラス兵器と聞いていたがそれ以上のことはミサキは知らなかった。


「私もよく知らない。AVBWって言うのかな? 使っているところは極秘情報らしくて報道されないし」


「極秘? それは違うよミサキちゃん。非道だからだよ」


 ケイプリアンは怒りのこもった視線をミサキに向けてきた。


「君たちを捕食しに来た俺が言うのもなんだけどね、あれはないぜミサキちゃん」


「私は…私は本当に何も知らない。どんな武器なの?」


「なんかさ、光線みたいなのが出て、それが当たると俺たちの身体は変化し、刺しても潰しても死ねない肉体となる。だけど内側で細胞はジワジワと破壊されて、全身から出血が始まる。それから身体の萎縮が始まり、最終的には弁当箱くらいの大きさまで圧縮されてしまうんだ」


 ケイプリアンは出て行くのをやめて、ミサキと少し話していく気になったよった。彼女のベッドにドサッと腰を下ろした。

 ミサキもその隣に座った。


 ミサキは信じがたい気持ちでケイプリアンの話を聞いていた。

 恐ろしい話だった。これまでに、一度も、噂レベルでも聞いたことがない話だった。


 ケイプリアンは続ける。


「圧縮が完了すると外側の組織が金属のようなものに変わって、まるで鉄の箱に肉が詰まっているみたいな代物になるだ。しかもだ、こうなるまで意識はずっとあるし痛みも感じているようだ。何しろずっと叫び声は聞こえるからね。一度あれを喰らった同胞を目撃したけど、今でもあいつの叫び声が耳に残っている」


 ケイプリアンは耳を塞ぎながらうつむいて身震いした。


「金属の箱になってしまった同胞に触れると、触れた奴も同じ運命を辿ることになる。だから俺たちは彼らを捨て置くしかない。お前たちの政府だが軍部だが知らないけど、防護服みたいのを来た奴らが箱になった俺たちの仲間を改修してまわっている。何かの実験に使っているんだろうね」


 ミサキはケイプリアンの話から生々しく情景を想像してしまい、吐き気をもよおした。

 彼女を自分の口を両手を抑えると、なんとか込み上げてくる吐き気を押さえつけた。グロテスクな想像を頭から追い出す。


「確かに、俺たちは君たちを生きたまま食ったりもするけど、命への敬意は忘れていない。感謝の気持ちを持って…」


「それは、食べる側の勝手なエゴじゃない?」


 ミサキはケイプリアンの言葉をさえぎって言った。ケイプリアンの言い分に腹が立って、先ほどの吐き気はどこかえ言ってしまった。

 ミサキは続ける。


「感謝の気持ちを持ってもらっても誰も浮かばれない。あなたたちがどう考えてるかなんか知らないし。こっちは恐怖に怯えて食われるだけだよ。感謝とか言わないでただ食べればいい。だからと言って、あなたたちをお弁当箱みたいにして苦痛を与え続けていいとも思えない。どうしたらいいの?」


 ケイプリアンはそんなミサキの問いにふふっと笑った。


「どうもこうもないよね。お互いやめるしかない。ミサキちゃん。君、なんか会ったばかりのころよりたくましくなったね」


 それに対してはミサキは何も言わなかった。


「もしもだよ、ミサキちゃんはさ、大切な誰かが俺たちに食われたとしたて、俺という個人に出会っていなくてもあの兵器を否定できるかな?」


 意地悪な質問だ。


「うぬぼれないで。あなたに出会ってなくても、私はそんな兵器はダメだって言ったと思う」


「そうか。俺の存在が関係ないのはちょっとがっかりだけど、ありがとう。俺は君に出会ってなかったら、この領域は何のためらいもなく食い尽くしていたけどね」


 そうしてケイプリアンはあはははと笑った。

 彼の笑い声は少し不気味だった。


 そして立ち上がると「じゃあ、ちょっくら止めてくるわ」と言い残してミサキの家を出て行った。窓から。


 ミサキはまたひとり置いてけぼりだ。

 しかたない、ミサキには戦うことができない。


 だから、ぐるぐると考え事をしてしまうのだった。


 なぜケイプリアンはミサキに新型兵器AVBWのことを話したのだろう。


 恐らくミサキが何も知らないとわかっていて話したんだ。

 お互い様だって言いたかったのか? それとも私たちの方が酷いって言いたかったのか?


 ケイプリアンが何を考えているのかまるで解らずミサキは孤独に思った。


 弟のナオキならAVBWのことを何か知っているとは思うが、国家機密を簡単に教えてくれるはずもなく、そもそもそんな質問をしたら疑われるだろう。


 ミサキはただ茫然とニュースを見て過ごした。

 ニュースはヴァンラスたちがいかに残酷であるかを延々と報じ、そしてそんな奴らに我々は苦戦を強いられている、シェルターの増設を急ピッチで進めている、と繰り返し伝えていた。


 シェルターでも安全とは限らない。ミサキは思った。ミラミラのあのパワーを目の当たりにしてしまったのだ。

 恐らく軽くやった結果がベランダ破壊だ。


 ヴァンラスたちが本気を出したらシェルターだろうが何だろうがひとたまりもないだろう。

 実際にやらないのはリスクが高いからだ。

 彼らは低リスクで食える獲物をまずは食っているだけなのだ。

 都合よく無傷で集まっている者たちは後からゆっくり食われる。

 もしくは貯蔵される?


 ミサキはそんな想像をしてブルブルっと震えた。


 数日たつうちにヴァンラスと人間たちの抗争は激しさを増して行った。

 ミサキの住む地域は奇跡的にまだ派手な攻撃を受けておらず避難命令は出ていなかった。


 ミサキは解っていた。この辺一体がまだかろうじて安全なのは、ケイプリアンがいるからなのだ。

 彼がここを守っている。


 それでも日に日に配給の食料は少なくなっていき、ミサキは常に空腹状態で、一日中ぼーっとしながら過ごしていた。

 夢か現実か区別のない日々。ひたすら部屋に閉じこもって、近所の人の話し声や、夜中の悲鳴、遠くから聞こえる爆撃のような音を聞いて過ごした。


 やがて、満月の夜のことだった。


 何か気配がして起きると、床にケイプリアンが倒れていた。

 彼は左腕を失っておりひどい出血だった。


 ミサキは飛び起きると彼の元へと駆け寄り生死を確認した。


 ケイプリアンは生きていた。

 彼の本当の名で呼びかけると意識を取り戻し残っている方の手でミサキにしがみついて来た。


「ち…血をちょうだい…」


 彼はそう言っていた。


 ミサキが腕を差し出すと、ケイプリアンはその腕に掴まりながら身体を起こした。

 そして、ためらうことなくミサキの首筋にガブリとかぶりついた。


 以前のように手首を噛まれるのかと思っていたミサキは不意を突かれて逃げることはできなかった。


 猛烈な痛みが彼女の首筋を走った。


 呻き声が彼女の口から漏れ出たが、近所の人に聞かれてはまずいとミサキは声を飲み込んだ。


 がっちりと首に噛みつかれ身体も片腕で羽交い絞めされているので身動きひとつ取れなかった。


 ケイプリアンの歯がグイグイと首に食い込んでくるが気道は確保されており、息はできた。

 これこそヴァンラスたちが生きたまま血を飲む本当の方法なのだ。


 ゴクッゴクッとケイプリアンの喉が鳴っているのが聞こえた。


 ミサキはケイプリアンの体にしがみつきながら痛みに耐えた。

 これで彼が回復するのなら…と自分に言い聞かせたが、この世のものとは思えない痛みだった。


 いつか映像で見た猛獣が獲物に食らいついているシーンがミサキの脳裏に浮かんできた。

 あの時の小鹿のよう。なす術もなく、喉元に食らいつかれている。


 そうしてケイプリアンは数分の間、ミサキの血液を飲んでいた。


 飲み終わった彼は、ミサキの首から離れると気味の悪い笑みを浮かべながらミサキの顔を覗き込んで来た。

 ケイプリアンの口の中はミサキの血液で真っ赤に染まり、その表情はまるで悪魔そのものだった。


 “ヴァンラスの道化” と彼が呼ばれている由縁をミサキは目の当たりにしているのだった。


 …このまま私はこの人に食われてしまうのだろうか…。

 それもまたいいのかもしれない…。


 この現実離れした情景の中でミサキはそんなことを考えていた。

 彼に噛まれた首筋がズキズキと痛んだ。


 どれくらいケイプリアンがそうやってミサキの顔を覗き込んでいたかわからないが、急に表情が和らぐと、そのまま床にバタリと倒れてしまった。


 焦ったミサキが容態を確認すると、彼はスヤスヤと眠っているのだった。


 あんな痛い想いをして血を飲まれた挙句に死なれては元も子もない。

 彼には絶対に生きてほしかった。


 まずは止血しなくちゃ、ケイプリアンの。


 彼の千切れた腕の傷口を見ると、もう血は止まっている様だった。

 驚異的な回復スピードだ。


 これなからほっとしても朝にはすっかりよくなっていたり…はしないだろう…。


 ミサキはこんな傷の手当てをしたことはなかったので、念入りに腕が切断された場合の応急処置方法を調べて、その通りに処理した。


 いったい誰にやられたんだろう? 包帯を巻きながらミサキは考えた。

 政府? それともヴァンラスの仲間?


 恐らく後者であろう。


 政府とやり合ったならこんな負傷の仕方はしないはずだ。


 続いてミサキは自分の首の傷を確認した。

 がっつり歯型がついていた。


 何だか一生消えないキスマークを付けられてしまったようで腹がだった。


 彼女は丁寧に傷口を洗うと、軟膏を塗りガーゼを当てて包帯を巻いた。


 着ていた服はケイプリアンのものか自分のものかわからない血液がべったりついてしまっていた。

 彼女は服を脱ぐと、ゴミ袋に入れた。


 そこで、腕に妙なマークが出来ていることに気が付いた。


 それは痣よりもくっきりとした、何か文字のようなものだった。


 ケイプリアンと何か関係していそうだが、わからなかった。


 彼が起きたら聞いてみることにして、彼女は服を着替えた。


 部屋に戻ると、ケイプリアンはまだ床で眠っていた。


 血は止まったものの、彼の周りには血だまりができていた。


 床に飛び散った血液をできるだけ拭き取り、彼の周りにタオルを敷き詰めて対応した。

 きっと彼の体の下も血でベットリだろうけど、ミサキには持ち上げることができなかったのであきらめた。


 そして、そっと肌掛けをかけてやると、ミサキも自分のベッドに入った。


 こんな状況で眠れるわけもなく、ミサキはケイプリアンを眺めながら横になっていた。


 まるで地獄のように長い時間が過ぎ、やがて朝になった。


 ケイプリアンは目を覚まさなかった。

 このまま寝たきりだったどうしよう…と思った。


 弟がいきなり来るかもしれないし、そうしたらもう言い訳は何も通用しない…。


 そうやってミサキがおろおろしながら立ったり座ったりしていると、ケイプリアンが目を覚ました。


 呑気にあくびをしながら起き上がると、彼は「わっ、腕がねぇ…」と言った。


 ミサキはあっけに取られてその様子を見守った。


「これ、ミサキちゃんがやってくれたの?」


 ケイプリアンは失った腕に施された処理を見ながら行った。


「それだけじゃないよ」


 彼の傍へしゃがみこみながら、ミサキは首の包帯を彼に見せた。


 ケイプリアンは、ああ…と気まずそうな顔した。

 それはまるで酔った勢いでやってしまった…と言った表情だった。


 ミサキは腹が立ってきた。


「まさか、覚えてないの?」


「いや…覚えているよ。夢だったのかなって一瞬思ったんだけど…」


 それからケイプリアンは真面目な顔になり、ミサキの首の包帯にそっと触れると「痛かった?」と聞いた。


 ミサキは「とても痛かった」と彼に伝えた。


 ケイプリアンは「ごめんね」とただ一言謝った。


 なんだかケイプリアンがとても落ち込んでしまったので、ミサキは話題を変えた。

 例の腕の模様について聞こうと思ったのだ。


 腕をまくって模様が見えるようにすると、ケイプリアンはハッとした顔をし、気のせいかもしれないけれど少し恥ずかしそうな表情になった。


「これは何?」


 ミサキは模様を彼に突き付けながら言った。


「それは…お印って言うんだ。付けるつもりはなかったんだ、ごめん。これは絶対に誰にも見せちゃダメだ。俺との繋がりを示している。いいね?」


 ケイプリアンはそっと袖を戻してミサキの腕についたお印を隠した。


 彼は床にまだ残る血の跡に視線を向けた。


「ミサキちゃん。やるだけのことはやったんだけど…俺が介入すればするほど状況は悪化する…。みんなを何とか説得しているんだけど、このざまだよ」


 ミサキはこのヴァンラスが何故だかわからないけど自分たちのために、こんな大怪我をしてまで戦ってくれていることに胸を打たれた。

 ミサキは彼の体に腕をまわしながら言った。


「ケイプリアン、もういいよ。私たちのために戦わなくてもいいよ」


「それは違うんだミサキちゃん」


 ケイプリアンはそっと彼女を押しのけると言った。


「俺は自分たちのために戦っているんだよ。これ以上、あの気味の悪い武器に同胞がやられるのを見てらんないし、同胞が人を食うところを見るのも耐えられない。なんでかな。俺、病気なのかな?」


「病気じゃないよ、ケイくんは優しいだけだよ」


「…優しいだって…? 俺が? それは完全にイカレてるってことだな。まあいいや。それよりさ、ミサキちゃん。君ずいぶん痩せちゃったよね。ごはんもらえてないの?」


 急にケイプリアンが話題を変えてくれたのでミサキは内心ほっとした。


「うん。このごろ備蓄が少ないのか配給が減って来ている」


「それはいけないね。前に君の弟が言っていたシェルターに入ればここにいるよりマシになるの?」


「うん…多少はなるかも」


「じゃあ、君はひとまずシェルターに入りなよ」


「いやだよ」


「なんで?」


「だって…」


 あなたに会えなくなるから…と喉元まで出かかった言葉をミサキは飲み込んだ。


「俺に会えなくなるからかな?」


 図星を言われて腹が立った。


「違うから」


「そのお気持ちはとても嬉しんだけどね…君がこのままここに無防備で居られると、もう俺には守り切れないないんだよね。他のことで忙しくなっちゃって。君が誰かに食われたら俺、立ち直れそうもないんだけど」


 ミサキ自身も意地を張ってここに居残るのはそろそろ限界だとわかっていた。


「ミサキちゃんはさ、俺たち全員がある一人の男から生まれたって知ってる?」


 ケイプリアンがまた話を変えた。


 その男のことは知っていた。学校で習う誰もが知っていることだった。


「ヴァンラスの帝王…でしょ?」


 それを聞くとケイプリアンはぐっと顔を近づけて来て怖い顔をした。甘ったるい息がミサキの頬にかかる。


「その言い方やめてくれる? 嫌いなんだ…」


「ごめん…」


 ケイプリアンはまた姿勢を戻すといつもの表情に戻った。

 やっぱりこの人怖い…とミサキは思った。


「俺たちの親父だ。俺たちは君たちヒト型の細胞を利用して肉体を複製することで繁殖している。あ、複製って言っても全く同じ個体ができるわけじゃないよ。だけど、俺たちは自分を作った直接の親が死ぬと消滅する性質があるんだ」


 それは初耳だった。


「で、俺たち全ての同胞は、俺の親父からできてるってことは…」


 …ヴァンラスの帝王を殺せば全てのヴァンラスが消滅する…。


「これってあなたたちの極秘情報なんじゃないの?」


「そうだよ。だってこれ知られたらまずいっしょ」


「じゃあ、なんで私に教えてるの?」


「保険だよ保険。万が一俺が失敗したら、ミサキちゃん、たのむぜ」


 ミサキはケイプリアンの言ってることがよくわからずに必死で頭を回転させた。


「…え、ちょっと待って。ケイくん、自分のお父さんを殺そうとしているの?」


「え、まさか。違うよ。それじゃあ俺も消えちゃうじゃん。それは本当に最後の最後の最終手段。だからそれはミサキちゃんに預けておく。俺は俺のやれることをやる。で、話しは戻るけど、そうなると、ここをもう守れないから…」


「わかったよ。私、シェルターに入るよ」


 ケイプリアンは「いい子だね~」と言いながらミサキの頭を撫でると、そのまま窓から出て行ってしまった。


 いきなり出て行くのは実に彼らしい…とミサキは思った。


 だが、わかっているだろうか。ミサキがシェルターに入ったらもう二度と会えない。

 彼のことだからわかっていてあの態度なのだ。もう少し名残惜しくしてもいいのに…とミサキは思った。


 やはりケイプリアンは何を考えてるのかよくわからない。


 ミサキはあきらめてシェルターへ行くための準備を始めたが、まだ心は決めかねて夜までグズグズしていた。


 その夜、ヴァンラスたちの攻撃が激化し、ミサキの住む地域も激戦区となった。


 部屋の電気を消して暗闇にうずくまりながら、ミサキはケイプリアンの言うことを聞いてさっさとシェルターへ行けばよかったと猛烈に後悔していた。


 自分はここで死ぬのだ。せっかくケイプリアンが身を挺して守ってくれたのに…これではその命を粗末に捨てたも同然じゃないか。

 あんなに心配されていたのに…。


 そうしてミサキが絶望に打ちひしがれていると、玄関のドアが勢いよく開いて、弟のナオキが部屋に入って来た。


「姉さん! いるの? 無事なの!?」


 ミサキは暗がりから飛び出して弟にしがみついた。


「姉さん!!! ダメじゃないか。避難命令聞こえなかったの? 早く、逃げるよ」


 ナオキはミサキのベッドの上に避難用の荷物がまとめられているのを見つけると、それを抱えて、姉の避難を促した。

 ミサキはこんな状況でもなお躊躇していた。


 そんな姉を弟は叱咤した。


「姉さん、しっかりして! さっき、あいつ…前に姉さんの部屋にいたトオルとかって名乗ったやつが来たよ」


 それを聞き、ミサキははっとして弟の方を見た。

 ナオキは姉の胸倉をつかむと彼女を激しくゆすった。


「あいつ、ケイプリアンじゃないか!! 何考えてるんだよ!! あいつ何なんだよ。姉さんを引きずってでもシェルターへ連れて行けって言われたぞ。それにこれ」


 言いながらナオキはミサキの胸に一通の手紙を押し付けた。


 手紙の封は空いていた。


「悪いけど、検閲にかけさせてもらったよ」


 ミサキは恐る恐る封筒から中の紙を取り出すと震える手でそれを開いた。

 そこには太いペンで大きく、一言、このように書かれていた。


 生きろ!!!!

 それを見ると、ミサキは声を上げてその場に泣き崩れた。

 ナオキはそんな姉を立たせると、力いっぱい手を引き、歩かせた。


 ミサキは歩きながらようやく決心した。


 私は生き延びなければ…。そしてこのことを後世に伝えなければならない。


 彼女は足取りは確かなものになり、弟から荷物を受け取ると、自分の力でずんずん歩き始めた。


 外に出ると出遅れた避難民たちがまだちらほらと歩いているのが見えた。

 ちょうど今、ヴァンラスたちの攻撃が小休止に入ったようで、このタイミングで移動を開始した人たちが複数いたのだ。


 道の前方に見慣れた姿を発見し、ミサキは走り寄った。


 友人のカオルとサキコだった。

 彼女らはミサキの顔を見ると驚いている様子だった。


「あれ? まだ避難してなかったの?」


「うん、いろいろあって。カオルとサキコこそ、まだここにいたの?」


「私ら、配給のボランティアをしてたんだ。ギリギリまで頑張っていたんだけど、もうここはやばいって聞いて…」


「そうだったの…」


 ミサキはこの親友二人が何をしているのかずっと知らずにいたことを恥じた。

 自分はずっとケイプリアンのことばかり考えていて、この世界の人々のことをすっかり忘れてしまっていたのだ。


「カオルさんにサキコさん。避難先は決まっているんですか?」


 ナオキが口を挟んだ。


「それが、私達はB-5って言われてるんだよ」


 サキコが不満そうに言った。そこはそこは各地にある避難所の中でも特に治安が悪いと噂されている地区だった。

 もちろんシェルターではないのでまるで安全とは言えない場所だ。


「ねえ、ナオキ」


 ミサキが言うと、ナオキは姉の要望を理解したようで頷くと、周りの人に聞こえないようにそっとサキコたちの耳元にこう言った。


「僕がシェルターへの入居を手配できます。姉と一緒に来てください」


「まじで!? あんた最高!」


 カオルがヒソヒソ声で言いながらナオキの頬にキスをした。

 ナオキは耳まで真っ赤になりながら、「じゃあ僕についてきてください」と言った。


 彼らは街を抜けて、やがて元々牧場だった草地へと来た。

 ここから先の丘を越えると目指すシェルターがある。


 街を抜けるのに手こずってしまって、空はもう白み始めていた。

 早くしないとヴァンラスたちの活動が再開してしまう。


 速足で彼らは進んだ。


 丘の頂上の一本松のところまで来ると、カオルが少し休憩したいと言い出した。

 本来ならば一刻も早くシェルターに到着したいところであったが、全員の足は棒のようだった。


 軽く水分とカロリーを補給しよと立ち止まったところで、あの女が現れた。


 黒いボディースーツに鳥のような仮面。


 ミラミラ…冷血のヴァンラスだ。


「これはこれは、ご一行さま。お急ぎでどちらへ?」


 ミラミラは気味が悪いほどに丁寧な雰囲気で話しかけてきた。


 これには全員が恐怖し、彼らはお互いにしがみつきながら一塊となった。


 それは狼に狙われた羊のようだった。


 ミラミラは手に持っているムチでビシッと空を切り、威嚇してきた。

 そして、目にも止まらぬ素早い動きで突撃したかと思うと、たちまち一行のうちの一人を捕獲し抱え上げ片腕で羽交い絞めにしてしまった。


 捉えられたのはカオルだった。

 カオルはあまりの恐怖に声を出すこともできずに怯えた表情でこちらを見ていた。


 ミサキは、自分にしがみついてくるサキコとナオキをどうにかその場に座らせて、自分は立ち上がると、勇敢にもミラミラに向かって行こうと一歩足を踏み出した。


 それと同時にミラミラのムチがヒュンと音を立てて飛んで来て、ミサキの頬を切った。

 それでもミサキは怯まなかった。


「ミラミラ、私の友達を離して!」


「黙れ小娘。馴れ馴れしく私の名を呼ぶな。よくも我が兄を垂らしこんでくれたな。あいつは完全にイカレてしまった。お前のせいだ」


「それとカオルは関係ないでしょう? やるなら私にして!」


 その申し出に、仮面の下に除く口元がにやりと笑ったのが見えた。


「残念ならがお前には手を出すなと言われているからね。あのバカ兄に。あんな奴と交わした契約だが、契約は契約だ。私は契約違反はしないのだ」


 …何を言っているんだ、この女…。やはりヴァンラスはみんな頭がおかしいのか…とミサキは思った。


「お喋りはここまでだよ。見てな」


 そういうとミラミラはカオルの首筋にかぶりついた。


 そこにいる人間たちは同時に叫び声をあげ、ミサキはミラミラに飛びついた。


 だが、彼女の強靭な足に蹴り飛ばされて、ミサキは後方に吹っ飛んでしまった。


 噛みつかれているカオルは叫び続けていた。


 ナオキも立ち上がると果敢にミラミラに向かって行ったがやはりミサキ同様蹴り飛ばされてしまった。


 ミサキはカオルが今感じている痛みを知っていた。

 恐怖の中であの痛みを受けたら…カオルの精神は破壊されてしまう!!!


 ミサキがもう一度ミラミラの方へと駆け寄ろうとした時、ボキボキバリバリととても不快な音がした。


 見ると、ミラミラがカオルの首をバリバリとかみ砕いているではないか。

 傷口から血液が噴水のように吹きだして、これではカオルが死んでしまう、とミサキは思った。


 カオルはあまりの痛みに気を失ってしまったのか、叫ぶのをやめていた。


 ミサキはそのカオルの顔を見てようやく気が付いた。


 カオルの目は見開かれたまま、上を向いていた。


 死んでいる。


 カオルは死んでいた。


 かみ砕かれた首が異様な角度に曲がっていた。

 今にも千切れそうだ。


 ミサキは、ぎゃぁぁああっと叫んだが、急に吐き気をもよおして、地面に胃の中のもの吐いた。


 そうして吐いていると、何者かが飛んで来てミサキとミラミラの間に割って入った。


 ケイプリアンだった。


「てめぇ…俺のもんに手を出すなって言っただろう?」


「お前の女には手をだしてないぞ」


 血まみれの口元をカオルから離しながらミラミラが言った。

 ミラミラはペロリと舌なめずりをした。

 それを見ながら、ミサキはヴァンラスたちが着けている仮面がなぜ顔の上半分しか隠していないのかを悟るのだった。


 それを考えるとまた吐いてしまった。


「ミサキの顔から血、出てるじゃないか、それに吐いているし」


 ケイプリアンがミサキを指さしながら言った。


「ケイくん…私は大丈夫。でも、その人、私の友達を殺しちゃった…」


「ミラミラが持っているやつ、ミサキちゃんの友達なの?」


 ケイプリアンは振り向きながら確認してきた。ミサキが頷くと、ケイプリアンはすごい勢いでミラミラへ突進すると、彼女の腕を掴んだ。


「てめぇは、ミサキの友達食ってんじゃねぇよ」


「契約の対象はその女だけだろう? ああ、でも悪かったな。ちょっと脅すつもりだったんだが、ウマすぎてさ…。………おい、お前たち」


 ミラミラはケイプリアンとの会話を止め、急にミサキたちの方へ声をかけてきた。


「我々は命は粗末にしない。必要以上には殺さないし、命をいただいたら、しっかり全て食う。こいつも、私がしかと最後まで責任をもって食ってやる。それでこいつも浮かばれるだろう」


 ここでケイプリアンが殴りかかったがミラミラはそれを避け、さらに言葉をつづけた。


「ケイプリアン。最後まで言わせろ。私はお前たちがやっていることを許さない。お前たちがやっていることは命をもてあそぶことだ。命への冒涜だ。私はお前たちを根絶やしにするまで食い尽くしてやるからな。わかったか? じゃあ、こいつの肉が死ぬまえに食いたいから私はいくぞ」


 そう言ってミラミラはカオルを抱えたまま、超人的な脚力でジャンプすると、その場を飛び去った。

 彼女が飛び去る反動でかろうじて繋がっていたカオルの首が体が千切れてしまったが、ミラミラがすばやくそれを片手でキャッチし一緒に持って行ってしまった。

 幸いなことにカオルの顔はこちらに向いていなかったので、ミサキにはそれがただの毛の塊にように見えた。


 ミサキは茫然とその場にへたり込み、もう何も感じなくなってしまっていた。

 たった今、目の前で繰り広げられたことが、ミサキの許容範囲の限界を超えてしまったのだ。


 ケイプリアンは一瞬ミラミラを追って行こうとしたが、ミサキの様子に気が付いて、彼女の元へと戻って来た。


「ミサキちゃん、大丈夫?」


 ミサキは顔をあげてケイプリアンを見た。


 彼は仮面をつけていた。

 普段とは違う民族衣装のようなヴァンラスの軍服を着ている。


「全然大丈夫じゃない…」


 そう言ってミサキは泣き始めた。


 ケイプリアンはミサキの頬の傷から流れる血液と涙を親指で拭き取ると、それをペロリと舐めた。


 それで急にミサキは現実に引き戻されて、ケイプリアンが失った方の腕から再びひどく出血しているのに気が付いた。

 ケイプリアンこそ満身創痍ではないか。


 ケイプリアンはいい方の手でミサキの手を握ると言った。


「これが本当に最後かもな。最後の俺の戦いだ」


 そう言っている間ずっと、ケイプリアンの親指はミサキの手首を優しく撫でていた。

 前に噛んだ傷跡のところだ。


 ミサキはケイプリアンの望みを察して、彼に自分の手首を差し出した。


 ケイプリアンはミサキの手首に口づけをすると、ガブリと噛みついた。

 そしてミサキの血を少しすすり、一度口を離したが、名残惜しそうに三回ほどまたすすってから、じゃあな、と言って去って行った。


 それがミサキがケイプリアンを見た最後の姿だった。


 ミサキは立ち上がるとサキコとナオキの元へと行った。

 ナオキはさすが、訓練を受けているだけあって、既に冷静さを取り戻していたが、サキコは放心状態だった。

 サキコは失禁しており、嘔吐もしたようで服が汚れていた。


 ひとまず上着とズボンだけ急いで着替えさせると、シェルターへはナオキがサキコを背負っていくことになった。

 ミサキは三人分の荷物を背負った。


 カオルの荷物までは背負えなかったので断腸の思いでそこへ置いていくことにした。

 形見になるようなものは彼女は持ってきていなかった。


 歩き始めると、ナオキがぽつりぽつりと会話を始めた。


「姉さんは、あいつと恋仲だったの?」


 ミサキは首を横に振った。


「そういうのじゃない。人と野犬…みたいな…」


「いつからあいつと会ってたの?」


「それは言えない」


「いろいろ質問を受けると思うけど」


「脅されていたって言う」


「うん…それがいいかも」


 しばらく歩くと、ミラミラが言っていたことに会話は及んだ。

 ナオキは最新兵器AVBWの真実については知らない様子だった。


 それで、ミサキはケイプリアンが言っていたことを説明した。


「…それは俄かに信じがたい話だが…その金属の箱のようなものは見たことがある。まさかあれがヴァンラスだったなんて…でもあり得ない話しじゃないな」


「ナオキはどう思う? 仮にケイプリアンの話が本当だっとして、私たちの友人をあんな風に殺す奴らだったら、どんな仕打ちをしてもかまわないって思う?」


 言いながら、ミサキの脳裏にカオルの首がかみ砕かれるシーンがフラッシュバックし、吐き気が込み上げてきた。

 必死でそれを飲み込む。


 ナオキは姉に言われたことを考えているようだった。


「僕は…あいつらはやっぱり許せないな…姉さんも見ただろう? カオルさんにしたこと。しかもあの女はそれを楽しんでいた。あんな奴らに命への冒涜だとか言われても、どの口が…としか言えないな。あの女は特にこの世の地獄を味わいながら、死にたいのに死ねない永遠の苦しみを味わわせてやりたい」


 ミサキはその回答にゾッとした。

 この回答がほとんどの人間の意見であろう。


「どうせ姉さんは、そんな兵器は非道だって思っているんだろう?」


 ナオキが怒ったよう言った。

 ミサキは何も答えられなかった。自分の考えを彼にどう説明すればよいのか解らなかった。


「姉さんはたぶらかされたんだよ。ヴァンラスにも情があるって思い込まされたんだ。あいつらにはそんなものはないよ。ただ貪り食うだけだ。あいつらはただの鬼だ。同情する必要なんかこれっぽちもないじゃないか」


 ナオキの強い言葉にミサキは何も返せなかった。


 …同情しているわけではないんだよ…。


 ミサキはそう言いたかったが、じゃあなんだ? と言われても答えられる気がしなかった。


 もしも自分がケイプリアンと出会ってなかったら、果たして今のように考えることができただろうか…。

 同じ質問をケイプリアンからされたときは、どんなにヴァンラスが残忍であろうと、あんな武器は使ってはいけない、と言えたのに、ナオキの回答を聞いてミサキは自信がなくなってしまった。


 ナオキは人一倍優しくて正義感の強い子なのである。

 そんな彼がAVBWを肯定する意見を述べた。


 ということは、ミサキの属する領域ではAVBWは正義と解釈される可能性が高い。

 それでも政府がひた隠しにしているのはなぜか。あまりにもグロテスクだからか。

 どこかで一線を越えていると自覚しているからだろうか。


 ミサキはもう何が正解なのかわからなくなっていた。


 ヴァンラスにも個があり、永遠に理解はできないかもしれないが、彼らも彼らの命を生きていることを知ってしまった。


 こんなことになるらば、何も知らずにいた方がずっとマシだった…とミサキは考える。

 何も知らずに、ヴァンラスは恐ろしいモンスターだと思っていた方が幸せだったかもしれない。

 ケイプリアンのあの無邪気な人懐っこい表情を知らずに生きていれば、こんなに揺れ動くことはなかったに…。


 ミサキは疲れていた。

 もううんざりだった。


 人間だろうがヴァンラスだろうが、もう誰かが傷ついたり死ぬのにはうんざりだった。


 早くシェルターに着いて眠りたい。

 一旦全てを忘れて深く眠りたい…。


 ミサキはそのことだけを考えて、残りの道程を歩くことにした。


 数時間後、ミサキたちはようやくシェルターへと到着した。

 シェルターの入口は解りにくいように作られているために、入るまでに一苦労した。


 シェルターに入ると女性の職員がてきぱきと入居手続きを進めてくれて、ミサキはほっとした。


 ナオキはミサキたちが無事入居したことを確認すると本部へと戻って行った。

 彼は今回起こったことを上層部に報告するのであろう。


 少しは姉のことを思って全てを話さずにこちらに委ねてくれるだろうか。

 彼ならきっとそうしてくれる…。ミサキはそう思った。思いたかった。


 幸いなことに、ミサキとサキコには二人部屋が割り振られた。

 サキコの精神状態がかなり深刻だったので、一緒の部屋にしてもらえてありがたかった。


 ミサキは全力でサキコを守ると心に誓った。


 サキコは放心状態から抜け出せず、ずっとボーッとした顔でベッドに座っているだけだった。

 食事を口元に運ぶと食べてくれるので、それでミサキは彼女に食料を与えた。


 数日後、本部から事情聴取のために職員が派遣されてきたが、ミサキがケイプリアンと接触したことがある…という程度にしか状況を把握していないようだった。


 ミサキはナオキの配慮をヒシヒシと感じて彼に感謝した。


 彼女は恐怖に怯えたふりをしながら涙を流し、ケイプリアンが恐ろしくて言うことを聞いてただけだと訴えた。


 政府の職員はそれを信じたようだった。

 彼が信じたい話だったからだ。


 昔のミサキだったらこんな演技はできなかっただろうけど、ケイプリアンを模範することでそれができた。

 彼がやっていたとおりに、相手が信じたい自分を演じればよいのだ。


 これで公的にミサキは被害者という立場となった。

 ただし、この一件は一般には公表されず、軍事機密となった。


 ミサキの事情聴取はこの一回だけで終わり、その後は心的ケアを理由に一切何も聞かれなくなった。


 これはナオキか、もしくは両親の働きかけがあったのだろうとミサキは推測した。

 家族には甘い官僚なのである。


 シェルターでの生活は不自由なことも多かったが、おおむね快適だった。


 ここにはヴァンラスの被害者も多く集まっていた。

 愛する人を目の前で奪われた経験を持つ者も少なくなく、被害者たちの交流も盛んだった。

 ミサキはサキコを連れて会合に積極的に参加し、なるべく精神の安定を図ろうとした。


 サキコと同様の状態になっている者も多数存在することがわかり、面倒を見ている者どおしの情報交換ができた。


 この被害者の会には様々な考えを持った人たちがいたが、ミサキが真の意味で共感できるような人はみつからなかった。


 それぞれ悲しみや憎しみ、そして恐怖心と折り合いをつけようと必死に努力をしているのは変わらないが、ヴァンラスに対しては一切の容赦がなかった。

 口ではきれいごとを言うこともあるが、ここにいる人たちはみな、心の奥底ではヴァンラスたちを生きたまま切り刻んでこの世の地獄を味わわせたいと考えているのだった。


 誰もが強くそう思い、それが正義と信じている中で、自分はそうとは思わないと主張する勇気はミサキにはなかった。


 ただでさえ孤独なのに、本当に孤立してしまっては自分は生きていけないと思った。


 もしも一緒に戦ってくれる仲間がいたのであれば、ミサキも人々の心を変えるために立ち上がれたかもしれない。


 だけれども、ミサキはひとりぼっちだったのだ。

 彼女はケイプリアンのようにひとりで戦うことはできなかった。


 いつしか、ミサキはみんなの話を聞きには行くが、共感者を探すことはやめてしまった。


 ミサキは孤独だった。

 人と関わり、サキコのケアをしながら、かろうじて自我を保っている状態であった。


 そんなミサキの危うさに気が付いている者は誰一人としてこのシェルターの中にはいなかった。


 ミサキは夜な夜な悪夢を見ては叫び声と共に目を覚ましていた。

 悪夢の内容は様々だったが、どれもこれもグロテスクな夢だった。


 悪夢から目覚めると、ミサキは袖をまくってケイプリアンのお印にそっと触れるのだった。

 お印に触れていると彼と繋がっているという気持ちになった。


 サキコも頻繁に悲鳴を上げては夜中に目を覚ましていた。

 夜中に目を覚ますと、サキコは決まってミサキのベッドに潜り込んで来た。


 ミサキはまるで幼子を抱くようにサキコを抱いてやりながら眠った。

 そうしているとミサキも安心するのだった。


 こんな調子で、ミサキは何とか正気を保ちつつ生活できていたが、サキコは日に日に弱って行った。

 そしてある日とうとう、軽い風邪から肺炎をこじらせてサキコはあっけなく死んでしまった。


 サキコを失ってミサキは失意のどん底へと突き落とされた。

 カオルの死も、サキコの死も、全ては自分に責任があるのではないとミサキは思うようになってしまい苦しんだ。


 心配したナオキが頻繁に様子を見に来てくれたが、ミサキは「大丈夫」と言い張って彼を無理やり安心させた。


 自分を救ってくれるのはケイプリアンしかいないとミサキは考えてしまうのだった。

 シェルターを抜け出して彼の元に走って行こうかと何度も思った。

 だがその度に、彼がどこにいるのか解らないことを思い出し、そしてそんなことをしてもケイプリアンは怒るだけだと自分を諭すようにした。


 暗黒面へとズルズルと引きずり込まれる感覚が強まると、ミサキの心はかえってしっかりしてきた。

 ミサキは前にも増して人との交流を積極的に行い、なんとか自分を見失わないように努力を始めた。


 ケイプリアンに生かしてもらったこの命、ぜったいに犬死はしない…彼女はそう決心した。


 ミサキはケイプリアンに最後にもらった「生きろ」の文字をこっそり開いては指でなぞった。

 そこから生命力を得るかのように


 こうしてミサキが生命力を取り戻し始めたころ、それは突然に起こった。


 街で人間を食い散らかしていたヴァンラスたちが忽然と姿を消したのだった。

 街にいたヴァンラスだけではない。


 見渡す限りの範囲でヴァンラスが消え失せていた。


 人々は何が起こったのか解らず、一度引いたヴァンラスたちが一斉に襲ってくるのでは…と恐れはじめた。

 この件については連日報道がされ、専門家たちがあれこれ推測を述べていた。


 だが、どれも正解ではなかった。


 この真実を知る人間はミサキただ一人だった。


 やったのだ…。


 ケイプリアンが。


 父親を、殺したのだ。


 ミサキは固く口を閉ざし、この真実を隠した。

 これだけはぜったいに、ミサキだけの秘密にしようと思ったのだ。


 ケイプリアンが打ち明けてくれた秘密。ミサキただ一人に与えてくれたヴァンラスの秘密だ。


 ヴァンラスたちが消えてしまったのと同時に、ミサキの腕につけられたケイプリアンのお印も消えてしまっていた。

 それはケイプリアンとの繋がりが消えてしまったことを意味していた。


 本当にヴァンラスが消えたのかと不安がる人々の中で、ミサキは静かに泣いていた。


 ケイプリアンが恋しかった。

 本当に彼には二度と会えないのだと悟り悲しくて悲しくて涙が流れた。


 彼に対して自分がどういう感情を持っていたのかはよくわからないが、愛おしかったことは確かだった。


 ふと気が付くと、彼につけられた噛み痕を無意識に触っている自分がいた。


 それをつけた人はもういないのだと思うとまた涙があふれた。


 数週間たって、政府はやっとヴァンラスがどうやら攻撃をやめたらしいと発表した。


 生き残った人々は歓喜し、いたるところでお祭りやパレードが開催された。


 ミサキも自宅に戻ったが全く喜ぶ気持ちにはならなかった。


 世界は平和を取り戻したが、ミサキはケイプリアンを失ったのだった。


 平和になったことを受けて両親は引退し、田舎に家を買った。

 ミサキにも一緒に暮らすように誘いがあったが彼女は断った。


 ケイプリアンと共に過ごした思い出の残る部屋から出たくなかったのだ。


 弟のナオキは現役を続けていて、以前のように時々様子を見に来てくれた。


 彼だけはミサキが何を悲しんでいるのか何となく察しているようだったが、何も聞いてこなかった。


 ヴァンラスからの解放が宣言されてから数か月後、政府は史上初のリセットを行うか否かの選択を住民投票によって決める方針を発表した。


 リセットとは「なかったこと」にする機能である。


 ヴァンラスにやられた全てをなかったことにしませんか? というのが政府の提案であった。

 それによりヴァンラスによってもたらされた被害や傷跡はなくなるし、直接的・間接的に殺された人も戻って来る。


 これにはほとんどの人が賛同していた。


 ただし、これまで一度も実行されたことのない “リセット” なので、慎重派の者たちや自然派推奨団体の者たちはこれに反発した。


『被害が大きすぎてどこまでリセット対象かわからない。想定外のことが起きる危険が大きいのでは?』

『我々は、この悲劇から立ち直ってこそ強くなれる!』

『いや、この経験はトラウマしか生まない! 消し去れるものなら消し去ろう!』

『殺された家族を返して!!!!!!』


 住民投票の日まで、果てしない議論が繰り広げられた。


 ミサキは自分がどちらを望んでいるのかわからなかった。


 全てを忘れて楽になりたいという気持ちはあった。

 カオルとサキコが戻ってきて欲しいとも切に思った。


 だけれども、ケイプリアンのことを忘れてしまうのは嫌だった。


 いよいよ住民投票の日。

 ミサキは投票には行かなかった。


 彼女はどちらにも決められずに、民意に自分の運命を委ねたのだった。


 結果は、≪リセットする≫だった。


 この結果を受けて、ミサキは足元から崩れ落ち泣いた。


 ケイプリアンとの時間が全て消えてしまうと思うと心が張り裂けそうだった。

 だけれでも、心の中では同時にほっとしてもいた。


 リセットは投票翌日に実行されることとなった。


 人々は集会場や自宅などに親しい人たちと集まってその時を待った。


 ミサキは自宅で独り、ニュースもつけずにこのときを待った。


 そしてリセットが実行された。


・・・・


 ミサキは爽やかな光の中で目を覚ました。

 清潔な自分のベッドだった。


 体を起こし部屋を見渡すと、ヴァンラスの攻撃を受ける前に状態に戻っていた。

 ベランダも壊れていない。


 …ということは、リセットされたのか?


 しかし、彼女の記憶はリセットされていなかった。

 ミサキはしっかり覚えていた。


 ケイプリアンがこの窓から入って来た夜のこと。

 彼女の首にかぶりついたこと。

 最後にミサキの手首から血をすすって去って行ったこと…。


 カオルとサキコがどうやって死んだのかも覚えていた。


 …リセットに失敗した??


 ミサキは慌ててニュースを確認した。

 どのニュースを開いても、ヴァンラスのヴァの字もなかった。


 ミサキは恐る恐るカオルに電話をかけてみた。


 数回のコールで電話は繋がり、カオルの声が聞こえた。


「もしもし? ミサキ? 何? こんな朝早く」


 ミサキはその何事もなかったかのようなカオルの声に激しく動揺した。


「おーい、ミサキ~? どうしたの? 寝ぼけてるの?」


「あ、あの…えと、ごめん…寝ぼけてかけちゃったみたい…」


 ミサキは震える声で何とか答えた。


「もー何? 夜更かしでもしてたの? 心配事とかあったら何でも相談してよ」


「うん…ありがとう」


 ミサキは電話を切るとガクガクと震える身体を自分で押さえつけて止めようとした。

 だが震えは止まらなかった。


 …どういうこと? 私だけリセットされていない?


 ミサキは首の傷跡に触ってみた。


 お馴染みの感触はそこにはなかった。

 ベッドから飛び降りて鏡を見たが、ケイプリアンが付けた傷跡はキレイさっぱり消えていた。

 同様に手首の傷跡も消えていた。


 お印はと言えば、当然こちらも消えたままだった。


 ケイプリアンが存在していた証は全て消えてしまっていた。


 ミサキは一連の出来事の原因となったと思われるおばあちゃんの鏡が隠している引き出しを漁った。


 引き出しの中身を全て出したが、鏡はなくなっていた。


 ミサキは激しい喪失感に襲われて何もする気が起きなかった。

 街にでて状況を確認しようと思ったが、それすら億劫に思えた。


 昼前になって、やっとサキコに電話してみた。


 彼女はすぐに電話に出た。


 今回は適当な用事を考えてから電話したので何も疑われることなく電話することができたが、ミサキの動揺は増していた。


 これはいよいよ、本当に、“ミサキの記憶だけがリセットされていない” というあり得ないことが起こっていると思わざるを得ない事態だった。


 …バグっていたのは鏡ではなくて、ミサキ自身だったのではないだろうか…。


 “カオルやサキコを取り戻したい…全てなかったことにしたい…でもケイプリアンのことは忘れたくない…”


 これはまさに、ミサキが自ら望んでいた状態なのではないか?

 しかし、ミサキの心は前にも増して苦しいのだった。


 自分だけが知っている…ということがどれほど辛いことか想像ができていなかったのだ。


 壮絶な死に方をした友人と、再び以前のように変わりなく接することができるのか。ミサキには自信がなかった。


 ……じゃあ、ケイプリアンはどうなった?


 これからのことをぼんやりと考えていて、ミサキはふと思いついた。


 これまでのヴァンラスがらみのことがなかったことになったのであれば、ケイプリアンが父親を殺したのもなかったことになったのでは?


 ミサキは急いでヴァンラスについての情報を探した。


 彼女が検索できるかぎりでは、ヴァンラスについての情報は、ミサキが以前知っていた程度くらいにしかなかった。


 ヴァンラスの基礎知識。

 帝王の存在。

 冷血のヴァンラスの特徴。

 ヴァンラスの道化の特徴。


 ミサキはぼやけてよく見えないケイプリアンを捉えた画像を自分の端末に保存して、できるだけ拡大して見た。

 だいぶ前に撮られたもので、ミサキも見たことがある画像だった。

 それは、仮面はつけているが紛れもなくケイプリアンだった。


 ヴァンラスについての情報は、それ以上のものはなかった。

 消滅したなどのニュースは一切なかった。


 やっぱり、ケイプリアンは生きているかも…。


 密かな期待を胸に抱き、ミサキは「リセット」の仕様を調べ始めた。

 一派に公開されている内容はさほど多くなかったが、実際にリセットを経験した彼女にとってはその情報だけでも充分だった。


 リセットは、設定された条件にあう事象のみ、それが起こる前の段階まで戻らせることができる。

 リセットは、この領域に属するもののみに作用する。


 “この領域に属するもののみに作用する”


 この一行はミサキを絶望の淵へと誘った。


 それではケイプリアンたちはリセットされていないのか?


 ミサキは状況が解らずにもんもんとした日々をすごした。


 そして数週間後。衝撃のニュースが街を駆け巡った。


≪ヴァンラスが消滅した!!!!!≫


 何でも、他領域に攻め込んでいたヴァンラスが忽然と姿を消したのだと言う。


 政府は他領域からもたらされた情報としてこのニュースを報じた。


 だが、ミサキには解っていた。

 これは半分本当で半分ウソの報道だ。


 政府は、リセット前にヴァンラスの消滅を確信した時点で他領域にこのことを報告しているはずだ。

 そして、もしもリセットが行われた際に、このように報道するように他領域に協力を仰いでいたのではなかろうか。


 他領域でも全力をあげてヴァンラスの消滅の裏を取ったに違いない。

 今、こうして報道されているということは、ヴァンラスが消滅したことには間違いないだろう。


 ケイプリアンの戦いはリセットされなかったのである。


・・・・


 数年後、ミサキはごく普通の男性とごく普通の恋愛をし、結婚した。


 そして、双子の可愛い子供に恵まれた。


 双子が5歳になるころにミサキは決心をして、二人をある場所へと連れてきた。


 それは街はずれの牧場の丘にぽつりと立つ一本松だった。


 ミサキは持ってきた花束を木の根元に備えると、双子にもそうするように言った。

 二人は可愛らしい花を木の根元に置いた。


「ママ、どうしてお花を置くの?」


「それはね、ずっと前にママはここで大切な人をなくしたからよ」


 それはカオルのことであり、サキコのことであり、ケイプリアンのことだった。


「そのことを忘れないように、ママはここに毎年お花をあげに来ていたの。今日はあなたたちも大きくなったから一緒にきてもらったんだ」


「ママの大切な人? パパよりも?」


「パパに出会うよりずっと前のことなの。だからといってパパより大事というわけじゃないのよ」


 双子はふーん。とわかったようなわかってないような返事をした。


 ミサキは、あのリセットから何故自分にだけ記憶が残っていたのか考え続けてきたのだが、今、ひとつの結論に達していた。


 語り継ぐため。


 ミサキが何を経験し、何を思ったのか。語り継ぐためだ。


「今日はね、ひとつお話をしてあげる」


「わーい、お話? どんな?」


 絵本が大好きな二人は新しいお話に目を輝かせた。

 ミサキは松の木の根元に腰を下ろすと、双子を傍らに座らせて、そして語り始めた。


「むかしむかし。あるところに人の肉を食べて生きている者たちがいました」


「え、なにそれ? 怖いお話なの?」


「怖くないよ。聞いてて」


 そうしてミサキは話を続けた。

 世界を救った鬼の話を…


 むかしむかし。あるところに人の肉を食べて生きている者たちがいました。


 人々は彼らのことを乱暴で食べることしか考えていない野蛮な鬼だと考えていました。


 ところが、人々が知らないだけで、鬼にも心があったのです。

 やきもちをやいたり、怒ったり喜んだり、時には誰かを好きになったり…。

 鬼には鬼の事情がありました。


 そして、ある時、鬼の子供が生まれました。


 その鬼の名はケイプリアンと言いました…


(おしまい)

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ミサキミラー 大橋 知誉 @chiyo_bb

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