第3章 大学生の知恵

「何、これ……?」華が唖然とした様子で言った。それは優も同じだった。

 どうやら、「合い言葉」を言わなければ部屋に入ることができないらしい。その「合い言葉」とは下に書かれている漢字のことだろうか。見たところ、『平等院鳳凰堂』の文字がバラバラに並べられているようにしか見えない。しかし、「彼」だけはそれを見ても顔色を変えなかった。

「あー、そういうことか」透はそれだけ言うと、スマホで何かを検索し始めた。紙と画面を見比べながら何かしきりに頷いていたかと思うと、いきなりチャイムを鳴らした。

『……合い言葉を言え』インターホンから、無理矢理出しているような女性の声が聞こえる。それに対して、

平井太郎ひらいたろう」透が思わず「誰?」と聞きたくなるような名前を答える。

 五秒ほどの沈黙の後、扉の向こうでガチャリと鍵の開く音が聞こえる。さらに五秒が過ぎたと思うと、またしてもインターホンから声が聞こえた。

『……入ってきたまえ。合い言葉も回収しろ』

「…………」どうやら相手は、わざわざ鍵を開けに行ってからインターホンの前まで戻ったらしい。そんな回りくどいことする必要あったの? と優は思ったが、口には出さなかった。しかし、華はそうそうスルーできなかったらしい。声を聞くやいなや、真っ先に部屋の中へと入った。

「もーう、何やってんのよ!」呆れ気味に呟きながら、合い言葉の紙もそのまま、靴も脱ぎっぱなしで(これはいつも通りかもしれない)、奥の方へ進んでいった。他の四人も慌ててその後を追う。言われた通り合い言葉を回収するのも忘れない。

 部屋の中は、ごくありふれたLDKだった。ベランダへと続く大きな窓の両側には淡いピンク色のカーテンがかかり、そこからは横川の街並みが一望できる。向かって左側の手前にキッチン、同じ側の奥にはテレビ、中央に四人掛けのダイニングテーブルがある。ベッドや勉強机は見当たらないないが、おそらく途中にあった扉の向こうが寝室や勉強部屋に続いているだろう。マンションの外見と同じく、内装も正に学生の一人暮らしを表しているようだった。

 その部屋の奥、椅子の一つに一人の女性が座っていた。明るい茶色に染めた髪に、洒落たブラウスとスカートという出で立ちは、どこか子供っぽさを残しつつも、「大人のお姉さん」という印象与えた。そして何より、意思の強そうな目が華にそっくりだった。

「ようこそ」その女性が口を開いた。インターホンから聞こえてきたのと同じ声だ。

「よく来たね、少年探偵団の諸君。あの暗号を一目で解読するとは大したものだ。さて……」

「そういうのはいいから、美緒みおちゃん!」華が女性の言葉を途中で遮った。途端に、美緒と呼ばれた女性は不満げに頬をプッと膨らませる。

「えー、だってせっかく久々に華っちが訪ねて来てくれるっていうのにー。だったら盛大におもてなししなきゃと思ったんだもん。それに、いつの間にか少年探偵団なんて面白そうなもの作っちゃってさー、だったらここは暗号しかないっしょ!」

 と、いかにも親しげに華の頬を指でウリウリといじる。そのスキンシップを見て、優は思った。この人、「子供っぽい」どころではない。体は大人だが、精神年齢は思いっきり子供だ。

「ともかく」と華は従姉を引き剥がすと、優たちに向き直った。

「この人が、あたしの従姉で溝大三年の三島みしま美緒里みおりちゃん。まあ、あたしは大体美緒ちゃんって呼んでるけど」

「どーもっ!」美緒ちゃん、もとい美緒里は顔の横で手をヒラヒラと振りながら挨拶する。

「三島美緒里、溝大の文学部で日本文学の研究してまーす。探偵団の皆、よろしく~! あ、あたしのことも『美緒ちゃん』って呼んでくれていいから!」

 と、中々フレンドリーな挨拶。だが、さすがに初対面の年上をいきなりちゃん付けは気が引けるので、ひとまずは美緒里でいいだろう。とりあえず、優たちも順に自己紹介をする。

「ううん?」最後に透が名乗ると、美緒里の目にいたずらめいた光が宿る。

「その声……それに透って……もしかして君が華っちの言ってた名探偵君? やったー、やっと会えたぁ!」

 興奮状態で、飛び上がらんばかりにして喜ぶ美緒里。どうやら、華から透の話を聞いて以来、一度会いたいと思っていたらしい。

「なるほどなるほど、だからさっきの合い言葉もすぐに分かったんだねえ。やっぱり江戸川乱歩大先生は好き?」

「はい!」嬉しそうに透が答える。

「あれを見てすぐに『二銭銅貨』が思い浮かびました」

「ねえねえ、そう言えば」そこに華が割って入る。

「さっき透はすぐに分かったみたいだけど、あれって結局どういう意味? 平井ナントカって誰?」

「平井太郎。江戸川乱歩の本名」

「あっそ」華はそれだけで興味をなくしたらしい。確かに、これ以上透と美緒里に話させ続けたら話が長くなりそうだ。優は話が脱線する前に本題を切り出すことにした。カバンから暗号の書かれた紙を取り出し、美緒里に見せる。

「あの、いきなりなんですけど、この紙、見てもらえませんか? ここに書かれてるの、多分溝大って文字だと思うんですけど」

「ん~?」美緒里は顔を近付けてまじまじと紙を見た。しばらくそのままでいたかと思うと、

「うん、確かにこれは溝大うちの購買で売ってるメモ帳だねぇ。それに、ここに書いてる00427……って、もしかして暗号!?」

 と、急にガバと顔を上げる。その興奮した瞳を見て、優は内心しまったと思った。どうやら美緒里にこの紙を見せたのは逆効果だったようだ。そんな優の心配をよそに、透が嬉々として美緒里の言葉に食いつく。

「そうなんですっ! これって、どう見ても暗号ですよねっ! やっぱり美緒里さんもそう思いますか?」

「もちろん! で、で、透っちはこの暗号、どう推理した?」

「ええ、『踊る人形』や『黄金虫』から色々考えてみたんです。でも、全然取っ掛かりが掴めなくて……」

「おっ、一端いっぱしの少年探偵のセリフだねぇ」

 話を聞いている限り、美緒里には誰彼構わず「~っち」と呼ぶ癖があるらしい。それに、「一端の少年探偵」というものもどういったものか全く分からなかったが、そこは敢えて突っ込まないことにした。それよりも、気になることが一つある。優はそっと華に聞いた。

「ねえ華、美緒里さんって推理小説とか結構好きだったりする?」

「まさか」華は音がしそうな勢いでブンブンと首を横に振った。

「美緒ちゃんが透と同じだなんて、今まで全然知らなかったわよ。こんなに透と話が通じる人なんて初めて見た」

「あれ~?」その言葉が聞こえたのか、美緒里がこちらに目を向ける。

「華っち、言ってなかったっけ? あたし、華っちたちと同じくらいの歳から、推理小説とか結構読んでるんだよ? 大学でも江戸川乱歩大先生あたりを本格的に研究しようと思ってるし。それより」

 と、美緒里は改めて透に向き直った。

「透っちはどんな作家さんが好き? やっぱり江戸川乱歩大先生? それとも横溝正史のおじ様? それかやっぱり大家たいかのコナン・ドイル様?」

「えーと、その人たちも好きなんですけど、最近は」と、透はスマホを取り出した。

「こういうのも面白いかなって」

「これは……」美緒里が目を見開いたように見えた。優もそれを覗き込む。

 それはネット小説だった。しかし、電子書籍ではなく、小説サイトに投稿されたもののようだ。タイトルは『女子高生探偵 加納かのう奈菜ななの事件簿』。透が面白いと言うからには推理小説なのだろう。作者は下巳しもみ未来みらいとなっている。透が画面をタップすると、小説の本文が映し出された。いつの間にか側に来ていた大吾がそれを声に出して読み上げた。

「……奈菜はグラスを置くと一同を見回した。『こうやって皆が広間に集まる順番やグラスを取る順番をコントロールすれば、被害者が毒入りのグラスを取る確立を50%にまで上げることができる。だけど、100%じゃない。そこで、犯人が使ったのがこれ』そう言って、奈菜がポケットから取り出したのは一枚の十円玉だった。『皆知ってることだと思うけど、十円玉を酸性の物質に浸けると、酸化還元反応が起こる。青酸カリは酸性。つまり、犯人は被害者か自分のどちらかが毒入りのグラスを取るように仕向けた上で、自分が取ったグラスに十円玉を浸した。もし自分が毒入りを取った場合はグラスを落として……』へえ、透がこんなのに興味持つなんてちょっと意外だな」

「ホント」華も頷いた。「透が好きなのは紙の本だけかと思ってたけど。……ん? 美緒ちゃん? どうしたの?」

「え? ああ」呼びかけられた美緒里はハッとしたように目をしばたたいた。

「ごめんごめん、最近は小学生でもこういうの読むんだって思ってね。うん、すごいなーって。それより」と、美緒里は今度は全員を見回した。

「皆はこれについて他に推理とかしてみたの?」

「それが」華が答えた。「あたしは数字を二文字ずつ組にしたらって言ったんだけど、大吾が……」

 華は自分の推理とそれに対する大吾の反論について話した。

「うーん」美緒里は話を聞き終えてしばらく考え込んでいたかと思うと、急に「あ、そうかも」と手を打った。

「華っちの推理、途中までは合ってるかも」

「えっ?」

「ちょっと待ってて」美緒里はそう言って立ち上がると、奥の部屋へと引っ込んでいき、しばらくして一台のノートパソコンを手に戻ってきた。

「大吾っちが言うには、五十音だと80とか90とかが余っちゃうからそれは違うってことだったよね。でも……」と、パソコンで何かを検索し出すと、すぐに「あ、これだ」と声を上げた。探偵団が一斉に画面を覗き込む。

 そこには1~0の数字までの表と、仮名や数字が書かれていた。あちこちに「ポケベル」の文字が見られる。優はポケベルというものを名前くらいしか知らないが、それが何を意味するかは大体想像できた。

「これはね、ポケベルっていう昔の携帯電話みたいなのでメッセージを送るのに使う表なんだけど、今でも公衆電話とかからこうやってメッセージを送ることができるの。例えば11で“あ”、55で“の”みたいにね。で、この暗号も同じようにしたら何か文ができるんじゃないかなと思ったわけ。そうやって、この数字を他の文字に置き換えていくと……」

 と言いながら、手元の紙に別の文字を書いていく。数分後、ただの数字の羅列は見事コンパクトな文字列へと変身した。


  0チ☎ 080アヲサ

  ウ!0Jンモワ1ヲA

  ンモ0カ0ホ☎ 05

  ワB0コンモ0カヲA


「……美緒ちゃん、何これ」華が感情の起伏の感じられない声で尋ねる。

「え、い、いやー、ね? ほら、これ答え」一方の美緒里はタジタジとなりながら必死に弁明した。

「何かさっきよりややこしいことになってない?」

「まさかぁ」

「でも、電話のマークとかスペースとか出てきてますよね」と透。

「それはほら、アレだよ、アレ。何か間隔を空けて電話しろとか、そういう意味じゃないかなぁ」

「同じ『電話しろ』というメッセージがこんな短い文に二回も出てくるのか。 仮にそうだとしても、他の片仮名や数字やアルファベットはどう説明をつけるつもりだ」今度は翼に指摘され、ついに美緒里も観念したらしい。

「ごめ〜ん、いけたと思ったんだけど〜」泣き笑いのような表情で言い、おどけた仕草で手を合わせる。

「そういう訳で、後は任せた、少年探偵団!」

「ええ〜、そんな無責任な……」思わず声が漏れた優であった。


 結局、美緒里の元を訪ねた収穫は、暗号の書かれた紙が溝大の購買で売られているということが判明しただけであった。暗号については 、特にこれといった進展は見られなかった。

「あーん、もう、どうしたらいいの」マンションを出ながら華がぼやく。

「暗号、全然解けないじゃない。誰かこういうのが得意な専門家はいないの?」

「専門家って」大吾が苦笑する。「俺ら、っていうか透がそうじゃないのか?」

「暗号の専門家というのは」翼が普段通りの口調で言った。「別に森のような人物を意味する訳ではない。どちらかと言えば数学やコンピューターの分野だ」

「数学、かぁ……」優は何となく暗い気分になった。今の時点で算数は別に苦手ではないが好きでもない。中学から名前が数学に変わると聞いただけであまりいい気はしない。

「僕らにはそういうのはまだ……痛っ」口を開きかけた途端、優は前を歩く透の背中に正面からぶつかった。

「どうしたの、透」

「思いつかなかった」透は優の言葉が聞こえていない様子で呟いた。

「数学、コンピューター……詳しい奴が近くにいたのに」

「えっ」

「透、そんな知り合いがいたの?」華が口を挟んできた。透はそれに無言で頷く。

「だったら、その人に会いにいけばいいじゃない! どこにいるの?」

「待て、弓長」翼がはやる華を止める。

「向こうがいつ会えるか分からないのに、こっちの都合で簡単に会える訳がないだろう。今日だって、お前の従姉が都合のいい時間を指定してきたんじゃないのか」

 もっともな指摘。だが、その心配は透の言葉によって打ち消された。

「そうでもないよ。今すぐでも大丈夫だと思う」そしてその後に、気になる言葉を付け加えて。

「そいつ基本、家にいるから。……平日でもね」

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