第3話 緑のプロムナード
ハプスブルクの人間は、落ち着いた振る舞いを心がける反面、大胆な行動に出ることを厭わない。
(亡くなったヨーゼフ二世陛下も、一年の半分は旅に出るような方だったというし)
とても自分はそんな風になれない、と改めてテレーズは思った。
馬車の向かい側の席では、ティナとマクシミリアンが楽しげにおしゃべりをしている。
叔父はとっくに皇帝の許可をとったというし、ティナはボンネットを二人分用意していた。最初からテレーズと出かけるつもりだったのだろう。
(こんなに簡単に出られるものなのね)
テレーズは朝靄の中に遠ざかる皇宮をぼんやり眺めていた。
「宮殿の外に出るのは初めてかい?」
と叔父に尋ねられて、テレーズは頷いた。宮殿の庭も遠くから眺めるだけで、歩いたことがなかった。出歩いて宮廷人の視線に晒されることが嫌だった。
「今日は日差しも暖かいし、絶好の散歩日和よ。それで、叔父さま、役はどうするの?」
「そうだ。役名を伝えておかなくてはね」
マクシミリアンが咳払いをする。
「私は医者のブルガウ、今ひとつ冴えない男。君たちは叔父を訪ねてきて、暇をもてあましている。ブルガウは年頃の姪たちのご機嫌をとるべく朝の散歩に誘った、という筋書きだ」
得意げに語る表情はまるで少年のようだ。
なるほど、だから叔父はわざわざ灰色の外套に着替えたのか。たいした念の入りようである。
次に咳払いをしたのはティナだ。
「私はブルジョワのご令嬢。もうすぐ結婚を控えているから、マリッジブルー気味よ。呼び方はティナのままでいいわ」
ティナは手鏡でリボンの位置を確認しながら、満足げに笑う。
「テレーズも髪を下ろして。あなたも未婚のお嬢さんよ。実は秘密の恋人がいるの」
「恋人って……」
テレーズの冷めた態度など見えてないようで、ティナは熱っぽく語り続けた。
「テレーズの家が皇帝派で、恋人の家は教皇派なの。彼は毎晩危険をおかして、宮殿のバルコニーに忍んで来るのよ」
「ティナはいまいち独創性に欠けるね。それでは音楽も作りがいがないよ」
と、マクシミリアンが手厳しい評価をつける。ティナは頬を膨らませてそっぽを向いた。
「叔父さまご贔屓のベートーヴェンは歌劇向きではないものね。作らなくたっていいわ。私、あの人の曲は好みじゃないもの」
二人のやりとりがおかしくて、テレーズは思わず小さく笑ってしまう。そして、とても驚く。
(わたし、いま笑ったの?)
信じられなかった。笑い方なんてとっくに忘れたと思っていたのに。
テレーズは戸惑う。そんな彼女に、マクシミリアンとティナが優しく声をかけた。
「とても美味しいホットレモネードを出す店があってね。きっとテレーズも虜になるよ」
「ナンシーのマカロンも絶品よ」
いつの間にか、テレーズは少しずつ気分が上向いていることに気付いた。宮殿を出るまでは、喪服を脱ぐことさえ気詰まりだったのに。こんなこと、ここ数年ではじめてのことだ。
やがて、馬車が止まった。マクシミリアンが杖をついて先に降りる。この時はじめて、叔父が片足をひきずっていることに気付いた。
テレーズが手を貸そうか迷っている間に、ティナがさっと叔父を支える。そのまま二人は颯爽と地面におりた。
ボンネットを被ったティナがテレーズに手を差し伸べた。母とうり二つの微笑みに、陽の光が差し込む。
「ようこそ、
早春の土の匂いが、鼻腔をくすぐった。まだ冷たさの残る風がボンネットのリボンを揺らす。両足がついた瞬間、活き活きとした緑の気配が身体中を包み込んだ。
プラーターは、ドナウ川を隔て、帝都の北東に広がる森林地帯のことを指す。テレーズも、知識だけはあった。こうして実際に訪れるのは初めてだった。
広大な森林を貫くように、一本道がのびている。
空は晴れわたり、新鮮な空気が肺を満たす。テレーズは鈍っていた五感がゆっくりと目覚めていくのを感じた。
「もともとハプスブルク家の狩り場だったんだが、ヨーゼフの兄上が市民に開放したんだ。本道以外も自由に散策していいから、気に入ったらまた来ると良い」
「まだ歩いてもいないのに、好きかどうかなんてわからないわよ。さ、行きましょう」
ティナはレースの日傘を広げて、軽やかな足取りでテレーズの隣に立つ。
同じ年頃の少女と肩を並べて外を歩くなんて、何年ぶりだろう。
柔らかい陽の光を浴びているせいか、体中が温まっていく。くすぐったくて、ふわふわする感覚がテレーズを包んでいた。
「夏になったら、花火も上がるのよ。それから、沢山の露天商がここに並ぶの。異国の女占い師も来るから、何を聞くか考えましょう。すっごく当たるんだから」
「女占い師って、ラ・トゥールの描いた絵のような人が本当にいるの?」
欲求に抗えず、テレーズは質問をぶつけた。異国情緒に満ちたティナの話に、つい引き込まれてしまう。
「ええそう。ターバンを巻いた、しわくちゃのおばあさんだったわ。ね、叔父さま」
「占い道具はコインではなく水晶だったけれどね」
後ろからのんびりついてきていたマクシミリアンが補足する。テレーズはたわいのないやりとりをしているうちに、人との触れあいに飢えていた自分に気付いた。
散策者は他にもいるが、みな、テレーズに注目しない。心地よさそうに散歩を楽しんでいる。
顔を寄せ合って歩く老夫婦、しかめつらで早歩きをする紳士、きゃらきゃらと笑う乙女たち。
この緑地では人の気配が煩わしくない。何もしなくていい。ただ歩くだけ。なんて気持ちが良いのだろう。
「ココってば、はやいよう!」
あどけない声が、テレーズを横切った。
少し先で、エスパニエル犬が尻尾をぶんぶんと振っている。半ズボンを穿いた男の子が、ぜいぜいと息を切らしながら犬を追いかけていく。
その小さな背中が、可哀想な弟と重なった。
八歳になれなかったジョゼフ。そして、塔に閉じ込められても、仔犬と遊ぶのが大好きだったシャルル。
ナイフで胸をひと突きにされたような、ひどい罪悪感に襲われる。あの子たちは自分と違って良い子だった。やりたいことが沢山あったはずなのに。
自分だけ楽しい気分になるのは、いけないことではないのだろうか。
急にテレーズが黙り込んだので、ティナはちらりとマクシミリアンを見た。
「叔父さま、レモネードを買ってくるわ。お金をちょうだいよ」
と、ティナが手を差し出す。マクシミリアンは苦笑をこぼしつつ彼女の手に銅貨を数枚のせた。
「では私とテレーズは噴水で待っているから、行っておいで」
「行ってくるわ」
腕をぶんぶん振って、ティナが駆け去って行く。おてんばな仕草のはずなのに、陽の光の下で妖精が遊んでいるかのようだ。テレーズは純粋にティナを羨ましいと思った。
「テレーズ、座ってもいいかい? 少し足がつらくてね」
「……ええ、もちろんです」
二人は広い池のほとりに辿り着く。大理石の天使から、絶えず水が噴き出される。
美しくなびく水を眺めながら、マクシミリアンは穏やかに言った。
「テレーズは、エリザべート殿下に似ているね」
「……叔父さまは叔母さまをご存じなのですか?」
懐かしい名前を、思わぬ人から聞いて胸が熱くなる。
叔母とテレーズは顔立ちだけではなく、髪の色も似通っていた。フランスに居た頃は姉妹のようだとよく言われたものだ。
「姉上をお尋ねした時に知り合ってね。何回か手紙のやりとりもしていたんだ」
「叔母は、最期まで私に親切でした。言葉では言い尽くせないほど感謝しています」
叔母は父と母の傍を決して離れようとせず、「王の妹だから」という理由だけで処刑台へ送られた。最期の瞬間まで立派だったと聞いている。
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