第2話 1796年 ウィーン 3月


「ねえご存じ? イタリア戦線で、フランス軍の司令官が変わったって」

「変わっても同じよ。疫病の国に帝国領が落とされるものですか」

 皇宮ホーフブルクの大聖堂に繋がる回廊で、貴婦人たちは声をひそめて言葉を交わしていた。

「去年ライン地方で講和を結んだばかりだというのに、野蛮だこと」

「それは、王家を殺すような国ですもの」

 と、甲高く言ったのは一番年の若い夫人である。彼女の言葉に全員が頷こうとして、ぴたりと動きをとめた。

 宮殿の方角から、漆黒のドレスを身に纏った少女が現れたからだ。その傍らには皇帝の妹・クレメンティーナがいる。

「ずいぶん楽しそうね」

 と彼女たちに声をかけたのはクレメンティーナだ。傍らの少女は無表情で黙っている。

「皇女さま。テレーズ姫さま。ごきげんよう」

 年嵩の貴婦人は冷や汗をかきながらお辞儀をする。周囲の者もそれにならった。彼女たちは頭を下げながらも、ちらちらと黒衣の少女の様子を探る。

「祈りの場にふさわしくない会話は関心しないわね。行きましょう、テレーズ」

 クレメンティーナに促され、少女──テレーズはやはり無言のまま歩き出す。


 マリー・テレーズ・シャルロット・ド・フランス。

 捕虜五人と引き換えにタンプル塔から釈放された、元王女。閉じ込められていた三年と二カ月の間に、彼女の家族は全員命を奪われていた。

 ウィーン宮廷で彼女の壮絶な半生を知らない者はいない。元王女は、社交界中の同情と好奇を一心に集めていた。 

 

 ──あの方、ほんとうに一言も話さないのね。

 ──声が出ないという噂よ。だって……ねえ?

 ──それはそれは恐ろしい目に遭ったのだもの。当然だわ。

 ──たった一人生き残ってしまうなんて、可哀想ね。

  

「もう一度言ってきかせてくるわ」

「ティナ、私は平気だから。行きましょう」

 従姉のティナが眉をつり上げる一方で、テレーズは静かに歩みを進める。

 テレーズがウィーンに引き取られて、三ヶ月が過ぎようとしていた。自分が宮廷の中で異質な存在であることは承知している。

「テレーズは優しすぎるわ」

 とティナは言う。そうではないとテレーズは頭を振った。


「何も感じないもの」


 テレーズは、怒りも悲しみも抱かない。何か言われても、感情が浮かんでこないのだ。

「それは部屋と礼拝堂を行ったり来たりするだけの生活をしているからよ」

 ティナが不満げに鼻をならす。テレーズはこの従姉にだけはわだかまりを感じずに済んでいた。

(きっと、お母さまに似ているからだわ)

 ティナの面立ちは、驚くほどテレーズの母に似ている。フェミニンな声やふとした仕草に、慕わしさを感じずにはいられなかった。

「聞いている? 今日こそお祈りの後は散歩に行くからね」

 こうやって、テレーズに言い聞かせる様子もそっくりである。

「陛下が良い顔をなさらないわ」

「お兄さまはいつだってしかめっ面なんだから気にしてはだめよ」

 ウィーンに引き取られてからも、テレーズはすすんで虜囚のような生活を続けている。

 テレーズは家族のために祈ることができれば充分で、欲求なんて思い浮かばない。ティナはそれがもどかしくて仕方がないらしい。

「この調子じゃ、ほいほいカールお兄さまと結婚させられちゃいそうだわ」

「……私は、決められたことを、言われたとおりにするだけよ」

 皇帝は自分の弟とテレーズを娶(めあわ)せるつもりだ。フランスへの影響力を強めるための政略結婚である。はっきり命じられたわけではないが、テレーズは構わなかった。

(だって、どうでもいいから)

 どうでもいい。なんでもいい。テレーズがひとり生き残ったのは、罰を受けるためだ。


 父が死んだあと、母は弟を奪われた。テレーズは母の視界に入っていなかった。叔母は「気にせず甘えなさい」と言ってくれたけれど、意地を張った。

 テレーズは小さな頃から母の悪口を聞かせられて育った。ふと気付いたら、甘え方が分からなくなっていた。

 母と別れるときも、涙ひとつこぼさなかった。泣きじゃくって、すがりつくなんてみっともないと思ったから。

 だって、母が死ぬわけない。次に会ったら、口うるさくお説教をしてくれる。そう信じて疑ってなかった。

 とうとう叔母と引き離されても、心のどこかに希望があった。国民公会は、まさか女子どもまで殺さないだろうと思っていた。

 大人たちは、テレーズに何も教えてくれなかった。


 テレーズが家族の死を知ったのは、去年の十二月だ。テンプル塔から釈放されて、ストラスブールで物々交換のようにオーストリアに引き渡された時のことだ。

 迎えに来たウィーンの貴族から、とっくのとうに家族はみんな死んでいると教えられた。テレーズは家族が死んだことも知らず、ただ閉じ込められていたのだ。

 いっそ、殺してくれればよかったのにと思う。どうして自分だけが生き残ったのだろう。そう、神さまに問い続けた。


(私はひどいことばかりを言う悪い子だから)


 太陽の光がステンドグラスに差し込み、聖堂の床をゆらゆらと彩る。まるで、天国への梯子のよう。


(私だけ天国に連れてって貰えないのは、その罰を受けてるのよ)


 ふと、聖堂の内陣に先客が見えた。壮年の男性が、こちらに背を向けて十字架を見上げている。

 黒い僧服(カソック)に緑のステラを身につけた出で立ちは、市井の神父のようだった。

「叔父さま」

 ティナの明るい声が響き、男性がゆっくり振り返る。灰青色の瞳が、まずティナをとらえ、次にテレーズを見つけた。

 一瞬だけ、彼は眩しさを堪えるような表情を浮かべて、柔らかに微笑んだ。

「やあ、ティナ。……テレーズも」

 あまりにも親しげに声をかけられて、テレーズはためらった。まるで、自分のことを幼い頃からよく知っているような。

「テレーズ、こちらはケルン大司教様よ。貴女の叔父さまでもあるわ」

 と言われても、テレーズはどの叔父か見当がつかなかった。母には十五人もきょうだいがいるのだ。

 それに、知らない男性には変わりない。テレーズは人見知りをして黙り込んでしまう。

 叔父は気を悪くした様子もなく、ふんわり笑った。知性が煌めく、整った顔立ちをしている。


「はじめまして。私はマクシミリアンだ。君の母上は、私の姉にあたる」


 マクシミリアン。母の弟。そこでやっと点と点が繋がった。そうだ。母のきょうだいで唯ひとり聖職者になった大公がいると聞いたことがある。

 テレーズが生まれる前にフランスに訪れたこともあり、父とも面識があったはず。

 ウィーンで、父母をどちらも知っている人間と会うのは初めてだ。

「……はじめまして、叔父さま」

 蚊のなくような声で挨拶を返すと、マクシミリアンはほのぼのとこう言った。

「それじゃあ、散歩に出かけようか」

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