芹沢嗣治との対談

 (『俺はハルコ・ミヤカワとセックスした』について)馬鹿馬鹿しい記述だ、と私は思った。インターネットの掃き溜めのような空間には時おりこのような、ノイズのようなテキストが混じって現れる。こうした文章を面白がって集積する人間もいるし、私のように偶然――不作為にそれを見つけてしまって顔をしかめるような人間もきっと沢山いるのだろう。

 しかし――そのテキストの実態。これを書いた何者かが、何故彼女に。宮川春子に欲情したのか? ということを考えるのも、評伝を書く上では必要なことなのかもしれない。しかし、結局のところそれを……何故、宮川春子に欲情するのかなどということの本当の意味を知る人間はもうこの世には数人しか居ない。今日の会談相手は、宮川春子と肉体的にも関係があったであろう人物だ。

 芹沢嗣治。職業は作家。芹沢嗣治は筆名であり、本名は楯岡美弦。娯楽小説出身でありながら文学に転向し、多数のヒット作を抱える売れっ子。近年では漫画原作や特撮脚本、他分野作品のノベライズや、今までは書いていなかった歴史小説に手を出すなど、広い分野で活動を行っている。

 表向きには秘されているが、宮川春子の二人目の夫として一部では有名であり、芸能業界において彼と宮川春子の関係性は、半ば公然の秘密として共有されている実態がある。

 小田急線の駅近くにある個室居酒屋で、十九時に待ち合わせている。先の二人の時と同じように一時間前に到着。私はしばらくの間、芹沢嗣治の情報を収集する。客の出入りは多くない。平日だからだろうか?

 約束の三十分前。十八時半頃に彼から連絡が入る。

「先に入って食事を取っているので、焦らずに来て下さい」

 私はすぐに店に入り、店員に質問をする。

「待ち合わせで来ている客はいませんか?」

「います」

「そこまで案内してもらってもよいでしょうか?」

「あ~、少々お待ち下さい」

 そう言って店員は裏へ行き、何か別の店員と会話を交わす。数分してからまた同じ店員があらわれ、こう言い放った。

「待ち合わせのお客様が二人いらっしゃるのですが」

 ああ、なるほど。私は一人納得する。

「奥村の名前で予約をしていたんですよ」

「奥村様。奥村様ですね……あ、はい。もう既に奥村様はご来店なされているようです」

 そう言った後に店員は私を席まで誘導する。そこには既に生ビールを頼んでいる一人男性が一人いて、何のてらいもなしにこう言ってのけた。

「奥村さん、お早いお着きで!」

 彼、芹沢嗣治は如何にも特徴のない、印象に残らない服装をしていた。裾がほんの少しくたびれた感じのする、くすんだ色の服を上下に纏っている。

私は言った。

「お忙しい中お越しいただき、感謝します。私、記者の奥村剛男というものです」

 取り出した名刺を彼はすぐさま受け取り、財布の中にしまい込む。手慣れた動作だった。

「別に忙しいことはないよ。作家なんて、仕事してるんだか遊んでるんだかよく分からないものなんだから」

「いやいや、そんな。他は知らず、少なくとも先生は売れっ子じゃないですか」

 卓上にある注文機で幾つか注文をする。

彼は答える。

「正直、僕にはあまりそういう感覚というか、実感はないんだけれどね。確かに売れていないと言えば嘘になるが、大富豪だと言えばこれも嘘になる。僕の収入はしがない市民のそれなんだ。おかげでいつもこうやって安居酒屋で酒を飲む羽目になっている。嫌いではないが、もう少し格式高い場所へ行きたくなる時もある」

「それに、だ。僕は作家としてあまり褒められたスタイルではない。締切だってたまに破ってしまうし、原稿があっても誘惑に負けてゲームをしたり、お酒を飲んだりしてしまう。家畜の悲惨さを知った次の日に僕はポークチョップを食べている」

「作家に限らず、実務家は心臓の鼓動のように一定間隔で動かなければならない。けれども僕は脳のようなもので、心臓は常に一定の間隔で動くが、脳髄は常に千の誘惑に晒されている」

 この一連の、如何にもな『台詞』を吐き終わる頃には、私が注文した生ビールと枝豆が店員によって運ばれてきている。

なるほど、これが作家という生き物なのかと私は考える。

生ビールに手を出すと、彼は半ば飲み終わっているビールジョッキを掲げ、言った。

「今は亡き宮川春子に向けて」

 乾杯。私と彼はそう言って、ジョッキを交わし合う。

「早速ですが本来に入りましょう――芹沢さんが宮川春子さんと出会ったのはいつ頃でしょうか?」

 彼は答える。

「あれは確か、春子が三つ目のアルバムを出した頃。なんて言ったっけかな」

「プリズムではなくソロ名義となると『ハーモニー』でしょうか?」

「そうだ、それだ! そう僕はあのアルバムの楽曲『ファンタジィ・フェス』に映画用の脚本をつけて欲しいと依頼を受けて、構想を固めるために会談の場を設けたんだ。それが春子と僕の馴れ初めだ……懐かしいな」

「今考えればあの映画は、メディアミックスの新たな可能性を生み出した試みであったように思います」

 私が事前に調べていた情報を元にそう話をすると、彼は笑う。

「興行的にはイマイチだったがね。ただ、少なくともペイはできたようだから、傷にはならなかった」

「そうなると映画そのものよりも芹沢さんと春子さんがこの企画をきっかけに出会ったことの方が、後世にとっては重要な意味を持っているのかもしれません」

「ん、ああ……ああ。そうかもしれないな。でも僕が自分からそれを言ったら、僕があまりに自信家になりすぎる」

「僕が。僕自身があの子に。宮川春子に影響を与えたんだ――なんて。言ったら失礼だろう。表で言えば刺されかねない。彼女の客の一部にはファナティックな連中も居るんだ」

 私はふと、私のアカウントに殺害予告じみた脅迫文を送ってきたアカウント・日本国憲法のことを思い出した。あのようなファンのことを彼は言っているのだろう。

「まあ、なんであれ。僕と春子はそうやって出会ったわけだ」

 言って、彼はビールをぐいと飲み干し、次の注文をする。

私は質問した。

「最初、芹沢さんは彼女に対してどのような印象を覚えましたか?」

 彼は注文機を弄りながら、言葉を返す。

「思っていたより、普通の女の子だった」

 彼は事も無げにそう言ってのける。その答えがあまりに予想外なものだったので私はややわざとらしく驚いて見せた。

「普通――なんですか。あの宮川春子が?」

「そう、普通なんだよ。普通の女の子だ――そりゃ人の話は聞かないし、話しててもあちこち話題が飛んでいくし、落ち着きがないとは思ったけれど、それはアーティスティックな人間であれば、よくあるというか、ありがちな特徴だ。少なくとも彼女に特有の問題ではないんだ」

「だから私は、宮川春子を普通の女の子だと思った」

「映像の印象――もっとも僕は例の映画の企画を貰うまで彼女のことを殆ど知らなかったから、資料として彼女の過去のライブ映像や雑誌に載っていた写真なんかを見た」

「華奢だな、と思ったよ」

「細すぎる。加えて、不健康なほどに透明感のある白い肌。僕みたいなモヤシでも、もし彼女を殴ったりしたらどこかすぐに折れてしまうんじゃないか、と思ったぐらいだ」

 彼の独演は続く。

「彼女はプリズム不動のボーカリストで、今はソロ名義でも活動し、無茶苦茶に売れているミュージシャン。それであのような見た目まで兼ね備えているとくれば、相当にエキセントリックな性格をしているんじゃないかと思っていた。ところが案外、普通だった」

「無論、一般人の基準で見ればおかしな子かもしれないが、少なくとも芸術家の範囲でみれば普通の部類に入るんだ」

 店員が注文の品を届ける。彼は焼酎の水割りを啜りながら私を見ている。

私は言った。

「意外ですね。後に知られる宮川春子の印象ともかなり違う……」

「もっとも僕が彼女と出会った頃には既にプリズムは解散していたし、例えばあの頃のメンバーの。えーっと」

「木崎紅葉、大泉五月」

「そう、クレハ。あの子が見た春子のイメージとはだいぶ違うんじゃないだろうか。推測に過ぎないけれどね」

「プリズム解散の頃にやっとティーンを抜け出して……僕と出会った頃の春子はもう二十歳を超えていたんだ。印象も変わるだろう」

「それに僕と出会った頃には既に結婚もしていた。例のほら、男性タレントと」

 言われて私は、過去に宮川春子について調べた時に出てきた情報からその名前を導き出す。

「大野啓司さんですね」

「そう……まあ、下世話な話ではあるんだが、既にそういうことも経験済みだったわけだ。ソロで音楽も売り出して収入もある立派な社会人になっていた」

 しかし。そう言って彼はにやりと笑う。

「とは言え彼女は、自分を社会人だと認識したことは一度もなかったろうね」

「そんなものなんだ。アーティスティックな人間なんてのは多かれ少なかれ無軌道な生き物なんだよ。奥村さんがそれを知っているかは分からないけどね」

 嫌味なインテリの物言いだ、と私は思った。しかし、そうした鼻持ちならない言い回しの中にユーモアがあるから、へそを曲げるわけにもいかない。それが尚の事たちが悪い。

「では――芹沢さんと宮川春子さんと交流を深めることになったきっかけみたいなものがあったなら、教えて頂きたい」

「彼女、好奇心旺盛だから――作家ってどういう仕事をしているんですかって聞いてきて」

「普通、社交辞令か世間話のどちらかだと思うわけじゃないか。ところが違う。出版社の中ってどうなってるの。普段から本を買って集めているのか。気になりだすと止まらない。仕事上の付き合いと強弁して出版社の中まで案内してみたり、一緒に古本屋に行ってみたりして……」

「古本屋、ですか」

「そう、古本屋。神田の辺りだよ」

「最初僕は、彼女のファンに見つかったりはすまいかと心配したものだが、ああいう場所に来る連中の趣味は枯れているから案外バレなかった。それに元々、学生の頃から詩なんかを嗜んでいたようなんだよ、彼女」

「それは初めて知りました。興味深いです!」

「確か――ランボー、ボードレール。日本だったら谷川俊太郎に石垣りん――大抵は古本屋によくある二束三文のものばかり」

「お気に入りの本を教えておくれよ、と言ってみれば……彼女はボロボロになったボードレールの『悪の華』を持ってきたりしてね」

「いや、別に悪いことじゃない。本を大事にするのは良いこととも言える……でも彼女、もう大人で社会人なわけじゃないか。しっかりと収入もあるのに、そういうところがあった。根っこがティーンの女の子そのままなんだよ」

「だから僕は何か父性というのか、そういうものを刺激されてしまってね。だから色々教えたんだ。思想とか、哲学とか、そういった難解な書物の読み方。どのようにそれらと相対するのか。どのようにそれらを使用することができるのか……」

「あの子はいちいち大仰に驚くものだから、僕の方まで楽しくなってしまったんだ」

「彼女。宮川春子は読書家だった?」

「うーん。それはどうなんだろうね……正確にはあの時彼女は読書家になったんだ。元々そういう傾向はあったんだろうけれど、今まではそうではなかった」

「彼女、高校中退だろう。だからかな、学生生活とかそういうものに未練があったみたいなんだ。実際真面目に勉強して学校生活を送ることができたなら、彼女はちょっとした文系私大ぐらいには滑り込めたんじゃないかな」

「彼女はやはり死ぬにはあまりに早すぎて。どうしてもIFの話は出てくるものでしょう」

 私が何気なくいったその言葉に彼、芹沢嗣治は鋭敏に反応を返した。

「それは、どうかな」

「と言いますと?」

「結局彼女は宮川春子なんだよ。本名が宮川春子なのではなく、彼女自身が宮川春子になった……もっと言えば、彼女はハルコ・ミヤカワになる他なかったんじゃないだろうか?」

「だって、ファンも周りの業界人も彼女に求めているのは宮川春子であって、本名の彼女ではないんだから。皆が皆、宮川春子が宮川春子であることを求めている。だから僕は、こうして彼女が死んでしまった後にも、やはり彼女は宮川春子。ハルコ・ミヤカワになる他なかったんじゃないだろうか、と思うんだ」

 言って彼は、枝豆を一つつまみ上げ、それを食べる。

私は質問する。

「話は変わりますが、そうして結婚に至った経緯についてもお聞かせ願えますでしょうか」

「僕と彼女の馴れ初め。親しくなった経緯はさっき話したままだけれど……その時点で既に彼女と、例のタレントとの夫婦関係はないに等しかったらしい」

「しかし、この前提を考えるとどうやら僕は形式上、略奪愛をやったことになる。いやはや、恐れ多いことだ」

「ある時彼女と食事をしていて、その時に彼女が言ったんだ。

『芹沢さんと話をしていると、本当に楽しい』

『何か世界にはまだ知らないところが沢山あって』

『その知らないところの入り口の門番を、芹沢さんがしているんです』

って」

「それが彼女なりの『愛してる』だったことに気が付くまで、僕の方に少しばかり時間が必要だった」

「それが彼女の、芹沢さんに対するプロポーズだったわけですね?」

「そうなんだ。そうやって僕と春子は三年弱、夫婦をやることになった。彼女の本名が甲斐陽子から楯岡陽子になった……今思えば、甲斐というのは珍しい名字だね?」

「聞きづらいことを、お伺いするのですが」

 私の躊躇いを気にもせず、彼は堂々と言う。

「離婚の理由だろう? 今更隠すべきことでもない。それにこれはどちらが悪いという話でもない。僕と春子の離婚は、世間一般のそれと比べてもだいぶ円満な離婚だったと言っていい。これは断言できる」

「詳細をお伺いしても?」

「彼女の無垢な思い込みさ」

「つまり彼女は僕を通して新しい世界を垣間見たような気がしたんだ。僕はそれを理解していたから、彼女や僕が死なない限りは、大抵の危険なお遊びにも付き合った」

「褒められないことも多い。倒錯的な性行為に薬物、これはあまり書かないで欲しい。言ってしまえば、思想や哲学さえもそうしたお遊びの一つだったんだね」

「けれども、そうした危険な一連のお遊びの中に、彼女の知らない未知の世界は存在しなかったようなんだ」

「思想や哲学にしたって、結局のところは現実世界の延長だ」

「形而上学と言ったって、そういったものに埋没できるほど彼女の日常は穏やかではない。そうなると結局、彼女の目前には現実しか残らなかった」

「性愛も、情念も、思想も、哲学も、文学も。結局のところそのどれもが彼女を救い出すには至らなかった」

「彼女は、救いを求めていたんですか?」

「少なくとも、ここではないどこかへ。それが彼女の願望だった。そして僕はそこに至る可能性について、ヒントを全て与えてやったつもりでいる。無論そこに正解があるとは限らないが、正解なんて個々人が自分勝手に持つもので、実際僕にだってそんなものはない」

「結局、僕が教えられることの中に、彼女の人生に対する処方箋は存在しなかった」

「僕はそれで構わなかった。というより、多分そうなんじゃないかとさえ思っていた」

 私は何一つ言葉を挟めずにいた。彼、芹沢嗣治は言葉の連鎖を止めようとしない。

「春子はやはり普通の女の子ではなかったんだ。普通の人間からすれば、遥か遠く高みにある目標と自己とのその隔絶した距離を見て諦める。物事を一つ一つ諦めていって、可能性を潰していって、自分になっていく」

「けれども春子はそうじゃない」

「自分の今居る位置なんて知ったことじゃない。階段が目の前にあるのなら、何故のぼらないのか? と、彼女は考える」

「彼女はのぼる。何度躓いても、目の前にある階段をただひたすらに、早いペースで駆け上がり続ける」

 彼は酒を飲み干す。次の注文をする。早いペースで酒を飲んでいるのに顔色一つ変えないままでいる。

もし仮に。芹沢は念を押すように繰り返す。

「もし仮に、彼女に弱さがあったとすれば、その階段を駆け上がる過程には常に付添人が必要だったということだろう」

「彼女は光り輝く星だった。けれども星は宇宙の暗闇の中に置かれてこそ輝くのだ」

「星そのもののような人だった。だから僕は、春子のことを心の底から愛していた。けれども彼女は、少なくとも僕に愛されたいと思っていたわけではないようなんだ」

「彼女は悩んでいた。僕はそれをわかっていた。でもやはり、どうにもならなかった」

「後悔していらっしゃるのでしょうか」

「後悔なんて! そんなことしたら、彼女に失礼だよ。それにもう僕のことなんてこの際、どうでもいいんだ。彼女が本当のところどう思っていたのか、なんて今は誰にも理解できないのだから」

 新しい酒が来る。彼はそれを呷る。そうしてまた話を続ける。

「結局、別れを切り出したのは彼女の方からだった。僕はそれを肯定した。君のやりたいことだったら僕はどんなことだってするよ。そう答えた。彼女は泣いていたよ。さめざめと、ゾっとするような感じで」

 だから僕は。

「彼女の本名は宮川春子じゃない。けれども彼女は可能性を一つ一つ潰していって、最終的に宮川春子に。ハルコ・ミヤカワになった。大抵の人間は成り果てるものだが、彼女だけは――違うんだ」

「彼女は自分から、宮川春子になったんだ」

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