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 久弥は、今年で二八になる。都内の大手広告代理店に勤めて、もう三年がたち、ここ最近では重要なプロジェクトも任されるようになっていた。そういう立場になって、はじめて、家庭というものを持ってみたいと思うようになった。

 ストレスはあるが、充実感もある仕事は、強い疲労感も伴う。そんな久弥を、温かく優しく迎えてくれる女性がいたら、という願望は、美幸と出会ったことで叶えられそうだった。美幸は、アイドル風の幼さを残した顔をしているが、根は真面目で家庭に入ったら、しっかりと家事、育児をこなすよい主婦になってくれそうだった。なにより、あの豊満な体は、強い生命力の証のようにも思え、元気ではつらつとした可愛らしい子供を何人も産んでくれそうだった。

 そう、男の子二人、女の子一人ぐらいがちょうどいいかな、と久弥は思う。子供が産まれれば自分も、もっと頑張って稼がなければならない。

 ……先走ってるな俺、と久弥は思う。付き合い始めて、まだ日が浅い。プロポーズをするなら、もう少しお互いのことを分かり合ってからでも遅くはない。美幸だって、そう思っているはずだ。恋人同士の期間というのも、それは、それで悪くないはずだ。

 七月七日。今日で、美幸は二十歳になる。まだ、短大に通っているから、結婚するとしても、彼女が短大を卒業してからだろう。久弥は、美幸の誕生日プレゼントに買ってやったイヤリングの入った、小さな紙袋を持ち上げ、これを渡したら、彼女はどんな表情をするかなと、想像しながらにやにやとした。実は、彼女から、ひそかに欲しいものリストとして聞き出していたもののひとつだったのだ。きっと、喜んでくれるだろう。そうして、紙袋の持ち手をくるくると回転させたときだった。

 何かが、ぎゅっと久弥の右手首を握るようにつかんだ。

 え? 心臓が飛び跳ね、驚いて紙袋を落としてしまった。ぞわぞわと、全身に鳥肌が立っていた。それは、昨日のような瞬間的なものではなかった。十秒、いや、一分近く、何かが久弥の右手首をつかんでいた。生暖かいのか、冷たいのか分からないような奇妙な感触を、ずっと手首に感じていた。

 突然、背後からどんと、強い衝撃を受け、久弥は我に返った。

 「おい、おまえは、なにぼおっーーと突っ立ってんだあ!」

 水鉄砲のように張りのある大声が、久弥の鼓膜を震わせた。酔っ払いの集団だった。慌てて、落とした紙袋を拾おうとしたが、久弥が拾う前に、髪を染めた中年の男性にさきに拾われてしまった。

 「おお、これは、俺様が先に拾ったから、俺様のもんだよなあ」

 何をこいつ……。いくら繁華街の近くの歩道とはいえ、それにまだ終電にはかなりの時間があるというのに、これほどたちの悪い酔っ払い集団に絡まれるとは。紙袋を持った不良中年の目は、異様に座っていて、取り返そうとすれば、喧嘩沙汰になりそうだった。生まれてこのかた、久弥は、喧嘩というものをしたことがなかった。いくら、自分の正当性を主張しても、暴力的行為が始まれば、どうなるか分かったものではなかった。久弥は、小さく舌打ちし、踵を返した。

 また、買えばいいさ、アル中ども。久弥は、心の中で毒づき、すたすたと歩き始めた。右手首には、いまだに、さきほどの感触が肌に纏いつく汗のように残っていた。

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