3.心の拠り所

 ドンドンドンと何かを叩いている音が響く。

 

「おい! そこに居るんだろ!」

「早く起きなさい!」


 そんな怒気の込められた声を聞いて、慌てて起き上がる。

 周りを見渡すと、いつも寝床にしている地下室の風景だった。


「おい! さっさと起きて書類作業しろよ!」


 ゆっくりと目を覚ます余裕すら与えられず、使用人に仕事を押し付けられる。

 私は喉から声を振り絞って、返事をした。


「厄介者を起こす仕事を増やしやがって」


 不機嫌そうに地下室の扉から去っていく様子にホッと安堵の息を吐く。

 私は押し付けられた仕事をしようと立ち上がるが、上手く足に力が入らない。

 足がよろけたせいで床に転んでしまうと、隣にあるピアノが目に入る。

 ピアノを眺めていると、ふと懐かしい声が頭の中に響く。


「お母さん?」


 私はこれまでの人生で唯一の味方だった人——お母さんのことを思い出す。

 お母さんは私に読み書きや計算の仕方といった、生きる術を教えてくれた。

 そんなお母さんとの思い出のピアノに私は微笑みを浮かべる。

 昔と変わらず埃被っているピアノの蓋を開けて、鍵盤に指を置く。


 仕事をしなければいけないのは分かっていた。

 それでも、少しだけと自分に言い聞かせて、ピアノを見つめる。


「いくよ」


 ピアノの弾き方はお母さんに教えてもらった。

 よく一緒に弾いていた譜面を思い浮かべると、鍵盤の上を指が走る。

 陽気な旋律が地下室に響いて、暗い雰囲気が一気に明るくなった。


「ありがとね」


 一曲演奏し終えると、私はピアノを優しく撫でる。

 ピアノが喜んでくれた気がすると、私も笑顔を浮かべた。


「お母さん、どうだった?」

 

 体調を崩して会えなくなった今でも、私はお母さんを大切に感じている。

 いつも、お母さんは私に楽しい話を聞かせてくれたことを思い出す。

 美味しいお菓子屋さんのことや、とても綺麗な景色、それにすごい演奏家の話をいつも目を輝かせていた。


「いつか、合奏してみたいな……」


 その中でも、特に強い憧れを持った合奏の話を頭に浮かべる。

 たくさんの人たちで、色んな種類の楽器を演奏するのはとても楽しそうに聞こえた。

 きっと、綺麗な音色が響くんだろうと思い浮かべる。


 例え叶わない夢でも、考えただけでワクワクしてきた。

 私は勢いよく立ち上がると、元気よく地上への階段を登る。


「お母さん! 私頑張るよ!」


 私が落ち込んでいた時は、いつも頭を撫でてもらっていた。

 また頑張ったねと褒めてもらえるように、執務室へ向かう。


 勢いよく地下室の扉を開けると、お父様が仁王立ちをしていた。

 その表情は凍てつくくらいに強張っていて、恐怖が一気に体の中から込み上げてくる。


「休む暇があるなら、仕事をしろ」

「申し訳ございません……」


 過呼吸になる肺を無理矢理落ち着かせて、お父様を見つめた。


「まあ良い。お前に話がある」

「話ですか?」

「付いてこい」


 冷たくて感情のこもってない声に怯えながら、お父様の後ろを歩く。

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